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12月13日。
正午近くに起こされました。
指揮所、移動するそうです。
10時頃、味方の誤射で重砲がすぐ近くに落ちたそうです。
それでも起きなかったんだからよほど疲れてたんだろうと言われて、ちょっと恥ずかしい。
到一さんは、寝てないんですか?
と聞いたら、明け方に一時間ほど仮眠したから元気だって。
タフだなー、52歳。
すでに中山門と光華門から日本軍入城。
武装解除と掃蕩を始めているそうです。
しかし私たちのいる紫金山および下関港方面には残党がまだまだ大勢いて、全方位、ちっとも気が抜けない。
すみません。そんな緊張感もなく寝てました。
「それからな、東宮が、戦死したそうだ」
ほう。
今朝方、師団司令部から来た伝令さんが、関東軍のもと部下だったそうで。
杭州のクリーク渡河中に銃弾を浴びまくって。
ちょうど一ヶ月くらい前だとか。
男らしい死に様だったそうです。そうですか。さぞかし本望でしょう。
そんなことより私たちは生き抜かねば。
14時頃、和平門まで辿りつきました。
なんと、すでに、城壁沿いに、旭日旗が掲げられてます。
ズラッと。
驚くべき光景。
新聞屋どもの群れが門前で大ハシャギ。お前らの手柄じゃねえからな。
ほんと、殺し尽くしても飽き足りねえ連中だよ。
到一さんの目に、涙が。
重慶へ遷都されてるから、まだまだ終わりじゃないんですけど、それでも一応、支那の首都を、日本軍が、占領したわけです。史上初めて。
日清・日露をはるかに超える、快挙・快進撃。
日本の歴史に刻みこまれる大いなる会戦に、自分たちは参加したのだ。
軍人として、こんな誉れが二度とあろうか。
言われてみると、たしかに。
私のいた世界では、日清・日露は成功例ですけど、南京といえば大虐殺でした。
歴史が、ここでも、変わったのかな。
大虐殺……してるといえば、したけど。
でも他所でやってきたことと、大して違わないレベルにも思うんですよね。
まあ、よしとしましょう。
私は見た。来た。そして、勝った。
兵たちが、城壁に登り、旭日旗を二段重ねで、万歳三唱。
私は下で、カメラマンたちの後ろで、モヤモヤと考えごとをしながら、それを眺めてました。
うしろの方では、まだまだ兵隊が、不意に襲撃してくる敗残兵たちに備えて、厳戒態勢を崩していません。
万歳はしたけど、入城許可はまだ下りておらず。
佐々木旅団と増加部隊は、城外でまだ数日の残敵掃蕩を命じられています。
山の中にはいくらでも隠れる場所がありますし、実際、隠れてます。銃を持つ熊の群れです。
熊も必死ですけど、悪いのは私たちですけど、わかっちゃいるけど、殺さなくちゃいけないの。ごめんね。
下関方面では特に、敗残兵か避難民かよくわからない群衆の波がひしめいていて、その渦の中からいきなり手榴弾が飛んできたりするそうなので、各方面から応援もらって鎮圧してるそうです。
到一さんもこれからそちらへ向かうそうですが、それでも今夜はようやく、ゆっくり眠れるだろうなと笑ってました。
ええ、休みましょう。
休んでください。
おつかれさまでした。