File_1937-12-003D_hmos.
12月12日。
天気図的には快晴と思われます。
立ちこめる煙で青空は拝めません。
砲音を感じるたび、頭上を仰ぐのですが、すでに空耳なんだか本物なんだかわからない程、聴覚の損傷著しいです。
比較的安全圏である指揮所ですらこれです。
前線の兵たちのダメージを思いやります。
思いやるけど、私は行かない。ゆるせ。
到一さんたちも、不眠不休が堪えてきて、意識朦朧としているのが見てとれます。
早く終わんねえかなあって皆思ってます。
戦線は徐々に前進してまして、午前中、指揮所を銀孔山へ移動しました。
昨日補充された、応援の砲兵三個中隊の貢献が大きいですね。10センチ加農砲の射程は1万メートル届きますからね。
敵は太平山方向へ退却を始めました。
しかしこれを追うと、背後から烏龍山砲台、左手から岔路口野砲に狙われる格好になるわけです。
城に近づくにつれ、地雷の密度も濃くなります。
逃げたと思わせて敵の一部は側面から回りこんできたりもするわけです。
これらを総合して作戦を指揮するのです。
長考は、許されません。
大変だなあと思います。自分ではやりたくないお仕事ですねコレも。
新聞屋が目障りなんですよ。
指揮所より更に後方でくっちゃべってて時々邪魔しにくるのがまずウザい。
勝手に前線へ出かけていって、見晴らしのいい所から写真を撮ろうとする。
お前らが勝手に死ぬのは大歓迎だが、高い姿勢は敵弾を吸収するのだぞ。周囲の兵が損害を被るのだ。
どれだけ作戦を妨害してるか自覚しろチンカス共め。
遊びたいなら地雷原で踊ってこい。
見事アタリを踏んでくれたら感謝しながらお前の屍踏んでいくから。
骨は拾わんがフィルムは拾って届けてやる。
命よりフィルムが大事だろう?そうだろうなプロだもんなあ。
次の人生では、もっとまっとうな道を歩めよ。
戦場カメラマンだった三船さん、どうしてるかなー。
こんどのお正月には、久々に会いに行きたいですね。
それまでには帰りたいけど、無理かなあ。
とかいいながら、本日はじわりじわりと、紫金山への包囲を狭めていってたんですね。
山の中、敵が陣地をつくりやすい地点はどこか。
こうなると、到一さんの土地勘が戦局を大きく左右する要素となります。
1830。紫金山が炎に包まれました。
見事、火薬庫へ砲弾が命中したようです。
城の南側からもよく見えたと思います。
敵味方双方に与える心理的効果は、はかりしれますまい。
中山先生の柩は無事かな。
到一さんも、すでに考えないことにしてるみたいですけどね。
それでいいと思うんです。
まだ生きてる人の方を大切にしましょう。落ち着いたら、あらためて、弔いましょう。
さて、いよいよ太平門へ攻めこみますか?と思ってたら、到一さんは西の下関港への進撃を下命してました。
城門突破はどうせ南側の連中がやる。
それより下関から脱出を試みる兵が大勢いるはずだ。
そこを塞げ。塞ぎきれなければ撃ちまくれ。との説明です。
なるほど。
大局は、決しましたかね。
すみません、それでは先に、休息をいただきます。
砲撃音を子守唄にして。ムニャ。