File_1937-12-002D_hmos.
12月10日。天気晴朗なるも、風冷たし。視界は良好。
0400起床。俘虜に作らせた飯を、各自飯盒に詰める。
0900より、盛大な砲撃と共に我々も前進開始。
1200。南京城からの特使は我軍の指定した場所に現れず。
よって、回答無しとみなし総攻撃へと移行せん。
これ、原稿準備してあったでしょ。だいたい、砲撃し続けてる場所へ出てこれるかバカタレ。
我が佐々木旅団は三手に分かれ、紫金山北側より展開。突撃を開始します。
私のポジションは、前線より一歩退いた指揮所陣地。
第一線は、馬円南方高地から仙鶴門西北高地まで到達した模様です。
伝令がひっきりなしにやってきて、到一さんや連隊長へ状況を伝え、新たな指示を受けて、また駆け出していきます。
私は作戦にはタッチしませんが、かれらに水を一献すすめながら、現場でいま必要なものを聞きます。
上官たちは、勝敗的な情報しか、もっといえば威勢の良い報告しか求めないものなので、下着の替えが欲しいとか、飯が凍ってて箸が折れたとか、メガネ割れちゃいましたとか、そんな恥ずかしいことは言えないものです。
私もそれに全部いちいち応えることは不可能ですけど、困ってることはとりあえず言ってくれと伝えてます。
「ここで死んだら、せっかく頼んでたのに悪いな」って踏ん張れるかもしれないし。
そう思うだけで狂気の一線を越える手前で我に返れるかもしれないじゃないですか。
パニック障害おこしてる兵、けっこういるみたいなんです。
そりゃそうでしょう。
目の前で戦友の血しぶき見て冷静でいられる猛者がどれだけいますか。
即死ならまだ割り切れます。仲間の悲鳴をすぐ脇で聞きながら射撃を続けなくちゃならない。照準合わせるには集中力が必要なんです。
神経がもちませんよ。
南京城は、堅牢です。この調子では、まだ数日かかるでしょう。
食糧、ないんです。
明日以降は、前線を維持するだけで精一杯です。
国防婦人会のおっかさん達をここへ連れてきてほしいくらいですよ。
も少し後方で旅館ひとつ接収して、終日弁当作りして、前線へ届けまくる。
必要ですってそんな態勢。
考えてもいねーか。入城すれば鯛や平目の舞い踊りが待ってるとでも思ってるか。珍騒団青年将校と同じレベルだろ。まったく、呆れます。
12月11日。本日も晴天なり。
昨夜は仙鶴門鎮まで前進。じりじりと城へは迫ってきています。
城の南側では大激戦が繰り広げられているようです。早く片付けてもらえないかな。
戦場雑感。
ここへの道中、多くの村落で歓待を受けてきましたが、だいたいどこも、老人男性しかいませんでした。
青年・子供・ご婦人は、皆無。
家捜しして見つけ出したんでクーニャンしちゃった、なんて話も何件か聞いてますけど。日本軍来たら隠しますよ、そりゃ。
だから特に、若者がいないことを、疑問にも思ってなかったんですが。
南京城総進撃で昨日から何千人という中国兵を殺している私たちですけど。
ここでは敵兵の多くが、年端もいかぬ少年たちです。
壮年・老年の兵士がいない、と言った方が正確かな。銃を持ってない子たちもいて、集団で突っ込んできて、手当たり次第のエモノで殴りかかってくる場合も。
そんなワイルドでエキサイティングな襲撃に対して、機関銃隊はほんと頼りになるよねと、しみじみ思い知らされる。
思うに、南京周辺、かなり広い範囲で、若い男の子は軒並み、徴兵されてんじゃないですかね。国民政府軍に。
そして、いよいよ日本軍の一斉攻撃だぞって段になり、武器も持たされずに死守を命じられて、放り出される。
太平洋戦争末期の日本軍だけの専売特許じゃないんですね。先人がいたんだ。
それにしても、むごたらしい。
私なら、そんな命令出す老人どもの方へ飛びかかってやりたい。
どうせ死ぬならその前に、自分自身にとっていちばん憎い奴を殺したい。
いずれにせよ、早く終わらせちゃわないとな。
そう思うばかりです。