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六日間、洋上にいました。
大連出港が11月12日、上陸が17日ですから、合ってますね。
平時の観光でも、三日はかかるか。
揚子江って、流れが速いので、落ちたら、同じ船に助けてもらうなんて不可能ですし、波に呑まれてすぐ溺れ死にます。
つまり上海から南京までは、その逆の旅程に比べて、時間もかかるし船賃も高いのです。
さらに加えて、日本の軍艦がひしめきあってます。砲音もやみません。
噂では、いよいよ四行倉庫が陥ちたそうです。中国の四大銀行が共同で所有する、6階建ての団地みたいなビルが上海市の端に建ってて、そこが最後の砦になってたみたいなんですね。
この時代の野砲や重砲ではびくともしません。
支那兵はそこからも撤退して、共同租界へ逃げこんだそうです。
英国軍に守られた共同租界は、いま、難民キャンプと化しているみたいですね。
お察しの通り、到一さんに張りついてる今の私は、中国語と英語の情報にアクセスできないのですが、その代わり、日本陸軍作戦の一端を直接知り得るポジションを有しています。
今のこの状況で、南京へ一般人が赴くのは無理。
これからますます、情報源を新聞屋どもに依存していると生き残れない時代に突入するのがわかっているんでね。自分から動いていくしかない。
でも別に日本人の味方をするつもりはないし、正直、日本が大嫌いです。
そんな私が生き残ろうと考えているのです。到一さんを、利用してでも。
滸浦鎮という陣地に上陸。
日中も対岸が見えないほどの靄で、順番待ちしてる間に陽が落ちました。
兵たちと共に、藁の中へもぐって寝ます。
翌日より行軍開始。南京まで200km。
荷物は自分と到一さんの分だけなんで、兵たちに比べたら楽なものです。
と言いたいですけど、足下は悪いし、時々、森の中から銃撃をお見舞いされます。
いやあ、戦場だなあ。
比較的、エグくない話をいくつか。
兵には、一人一日、1.4合の米しか支給されません。あとは徴発でまかなえ、です。
日本軍が行進すると、沿道の農民は一斉に万歳三唱をはじめます。
果物やお菓子を、奪われる前に提供してくれ、ご機嫌をとります。
行軍が見えなくなるまで、万歳が続きます。
それでも、前の村より貢ぎ物が少ないぞとか、そろそろ肉が食いたいなあとか、あとは、地雷などの罠が仕掛けられてそうだったり、難所で荷運びが必要となると農夫を徴発して歩かせたりとかね。
だんだん加減を忘れていくもので。
拒否ればその場で殴る蹴るも日常です。
小銃で撃ち殺して、上官から怒られる奴もいます。弾がもったいないですからね。
南京が近くなってくると、国府軍によって、橋が焼き落とされてることも多くなります。
工兵隊が、ロープでつながった戸板を対岸まで渡します。
この上を這って一人ずつ進むのですが、バランスを崩すとひっくり返って水中に落ちます。行軍のスピードが一気に低下しますし、絶好の銃撃チャンスでもありますので周辺を広く警戒します。
まあ、撃たれるのは最初に渡るヤツだけなんですけどね。
標準装備の中には、ガスマスクもあります。戦死者のぶんは余るので、私もひとつ、もらいました。
どこかの村で、演習もしました。家を一軒、徴発して、ミドリ筒っていう嘔吐剤を充満させます。
ガスマスクを自分で装着して、その家に5分間、順番で、閉じこめられるんですね。
皆、かなり真剣ですよ。これ、使うときがくるのかなあ。
視界が極端に狭くなるので銃撃戦の最中には却って命取りになると思うんですよね。
化学戦には東郷部隊が絡んでるはずなので、生きて帰れたら、こういう現場からの声も反映させてやりたいものです。
そんな平和な日常も、そろそろ終わる頃ですか。さすがに、歩き疲れました。
到一さんが、方面軍司令部での会議から戻ってきました。
集結予定日は、12月2日。
私たちは丹陽にいます。
南京まで、あと80km。