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ゲオポリティク5月号。
シュトラウスことR.S氏による、2・26レポート。
増ページです。手に汗を握りながら、めくります。
英訳出るの待てないから、独日と独英の辞典をめいっぱい駆使しながら、なんとか読んでます。多少の誤訳は目をつぶれ。
日本はもとより東洋全般の文化や歴史に明るくないドイツ人へ向けての文章なので、前段にどうしても概略的な説明がみっちり必要になる上、これ以上は細かすぎるなと思われる部分はバッサリ省略されてて、舌足らずなのは、もどかしい。
日本では陸軍と海軍が仲悪くて、それが太平洋戦争敗因のひとつだってよく言われてましたが、ドイツでも海軍はちょっと浮いてる存在みたいですね。へー。おっと脱線脱線。
「1932年の5・15は海軍の若手将校が主導したものなので、決して海軍も穏和なわけではないが、今回に限っては完全に陸軍の中だけで画策された計画のようである」
そうですね。陸軍の中の、更にちっぽけな一部の過激派が、連携も考えず先走った事件でした。
初日の朝。シュトラウスは蹶起兵の検問所前まで来ますが、ドイツ大使館員という外交官身分証明書では通過させてもらえなかったそうです。シュトラウスは外交官か!
その後、なんとかして大使館へ入ったようですが、詳細は書かれてません。
「この叛乱が全国へ自動的に拡大していくだろうという過大な楽天主義を持つ首謀者将校たちは、一時の成功で満足し、それ以降はただ、待ち続けた」
ほんとだよね。3手目2二角成でもう勝った気になってるレベルの、ド素人たちでした。
「市民には、後難を怖れて激励や差し入れを贈る者が後を絶たず。翌日の新聞でも、蹶起兵は、行動的な青年将校という好意的な名称で呼ばれていた」
私は、お金、とりましたけどね。
侵略軍を市民が歓迎するのは、中国でも極々あたりまえの光景です。機嫌を損ねて得することありますか。
叛乱軍を叛乱軍と呼ばなかったのは、後日、計略だったとわかります。すでに鎮圧部隊へは出動命令が出されてました。
「2日目の夕方になると、外地からの軍隊集結がはっきりと形を表してきたが、叛乱軍の一味か、鎮圧のためなのか、市民にはわからない。大使館でも、これが鎮圧部隊だと確信を持てたのは、2日目の深夜だった」
リアルに同じ時を過ごした者として、ゾクゾクしますね。
「私たちは休みもせず、街を歩き回っていた。腕章の無い兵士が叛乱部隊なのだと見分けがついた」
私が鎮圧部隊を見て回ったのは3日目以降ですけど、シュトラウスたちは初日から巡視もしてたんだ。主語が複数形だから、チームで動いてますね。ドイツ人……いたかなあ。人はいっぱい歩いてたからな。明確には記憶してないですね。
「2月28日、08時。蹶起部隊は、叛乱者と呼ばれた。武器を引き渡し、兵営へ復帰せよ。従わねば攻撃を開始するとの最後通牒が出された。叛乱者は降伏を拒絶した」
「28日夜には戦車と歩兵が前進を始めた。ドイツ大使館は戦闘発生時最も危険な地点にあるため日本政府より避難を勧告されたが、重砲にも耐えられる地下室があるため我々は全員窓から様子を見守り続けた」
さすがドイツ。最前列の砂かぶり席で見物ですか。楽しそうだなあ。うわあめっちゃ楽しそうですやん。混ざりたかった。
「29日、08時。爆撃機が飛来し、空から紙片を撒いた。
兵に告ぐ。
1.今からでも遅くない。兵営へ帰れ。
2.抵抗すれば、射殺する。
3.君たちの家族を泣かせるな。
ここで初めて、下級兵士は、自分たちが誤った命令で国家に反逆していたことを知る。かれらは道義的に崩壊し、続々と投降した」
ややドラマチックに脚色しているのは、ご愛敬。シュトラウスも、興が乗ってきたと思われます。書いてて楽しそうですもの。わかるわかるよ。実体験者の特権だよねえ。
「主犯者将校約20名は、2名の自殺者を除き、武装解除された。年齢は23~34歳。最高階級は大尉だった。かれらの命令に従った兵のほとんどは、1月に入営したばかりの新兵だった」
結論の章に、重要な指摘があります。
「これから軍事裁判が開始される。この過程はヨーロッパでは正しい手続きだが、日本では敗北が確定した時点で自殺する方が好ましいとされるため、主犯者たちは投降することによって、ますます民衆の支持を失った」
そうなのです。太平洋戦争終結までの日本イズムにはこのルールが根強く、ほんとに根強く、あるのです。
自決による結着。
これはね、すべての、ありとあらゆる考察と反省を、放り投げる思想です。
何も引き継がず、次の素人が、また同じことを繰り返す。
そんな無限サイクルを生み出す、愚かな仕掛け。
ちゃんと指摘されてるんですよ。早く改めさせましょう。
ほんと、一刻も早く。