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私は、その男の顔を、三葉、見たことがある。
今日だけで、ですよ。
朝起きたら戒厳令を敷かれてた、こんな日に。
気になりますでしょう。ほっとけませんよ。
最初は、朝。九段下でした。
永田町一帯は昨日未明より蹶起部隊によって封鎖されており、陸軍省、参謀本部、内務省、外務省などは通常の職員や軍人たちさえ、立ち入れなくなってます。
で、どこが代わりの司令部になってるかというと、皇居北回りの一角。
石原の車も、見ました。現在、戒厳司令部は、軍人会館というイカツい建物の中に設置されてる模様です。
その付近で、憲兵という腕章を付けた、呑気そうな三人組の男が、道端で、どうしようどうしようって、まるでコントのネタ考えてる控え室の新米芸人トリオみたいな感じで、揉めてるわけですよ。
私は、お煎にキャラメル~コーヒー牛乳はいかがっすかあ~て風情で、その傍を通りかかったんです。
甘いものに、飢えてたんでしょうなあ。それはそれは美味しそうに、めしあがってらっしゃいました。
二回目は、占拠されている参謀本部の、裏手路地。壁に寄り添って、ヒソヒソと。
これまた、どうすべえどうすべえって、思案してました。
「あれ、さっきの小僧さんじゃないか?どうやって入ってきたんだ?」
へえ。ずっと立たれてる兵隊さんに、ご苦労様です、おひとついかがですかって言ったら喜んでもらえて。この先にも歩哨さんがいて、昨日から何も食べてない筈だっておっしゃるので、さしあげてきていいですかねえ、って言ったら、通してくれたんです。けどおいら、どうやら道に迷っちまって。
「そ、そ、そうか。あの、たのむ、僕たちが、ここにいたことは、だ、誰にも、言わないでもらえるかな」
そうスか。よござんす。ところで、もしこの敷地に入ろうとされてるなら、あっちの柵の脇に樹が立ってますでしょう。そこ伝いなら、誰にも見られずに、入れると思うんですけど。あれ余計なこと言っちまったかな。どうぞご内密に。
また饅頭三つ売れたよ。私はホクホクと、封鎖エリア内部へ潜りこんでいきます。
最後は、首相官邸の裏口に並んでる総理大臣秘書官の官舎で。
福田さんて方と窓から目が合ったんで入れてもらって、暖をとっておりましたら、またまた、さっきのチョビ髭さんが、呼び鈴押して顔を覗かせてきたんでやす。
「な?え?お?君……」
まあまあとっとと入んなさい。話すなら中で。ハイホラ。
「首相、実は生きてらっしゃいます!」
ええ知ってますよ。ここで福田さんから伺いました。
福田さんからもう一度、説明していただけますか。この人に。
「昨日未明、銃声で目が覚めました。官邸はたちまち兵に占拠されました。私は、今は宮中へ行っている迫水というもう一人の秘書官と、総理の御遺体の確認を求めました。許可されて入ると、なんと寝室に横たわっていたのは、総理の義弟でいらっしゃる、松尾大佐だったのです!
中にはまだ女中が二人、どうしても総理のお側を離れたくないと留まっておりますが、彼女たちに匿われて、総理は今、奥の間で助けを求めてらっしゃいます!」
憲兵さんたちも、独自に、同じことを突き止めたってわけなんですね?
こりゃあ大変都合がよろしい。ひとつ、こんな案はいかがでしょう。
弔問者の老人を10人くらい集めていただいて、この憲兵さんが立ち会うからなんとか入れてもらえないかと懇願する。
総理には中で、来客と同じような喪服に着替えて待機しててもらう。
松尾さんは銃で惨殺されたんでしょう。つい白布をとって、ギャアッて誰かが卒倒する。
ホラ言わんこっちゃないと抱きかかえて外に出す。総理をです。速やかに車へ乗せ、病院へ連れていく。
いかがですかね?
「よしそれでいこう。すぐ手配します」
「我々も、総理にお着替えを、なんとか手渡します」
早い方がいい。じゃ、あっしはこれで。
「君はいったい、何者なんだ」
ええと?
「あ、僕は、小坂啓助といいます。麹町憲兵分隊の曹長です」
おや奇遇だ。あっしは、コサンて名前です。しがねえ通りすがりの商売人でさ。
あ。そうそう福田さん。
首相の脱出が成功しても、すぐに広めちゃダメですよ。女中さんは納棺まで残ってなきゃおかしいし、蹶起兵らを怒らせたら、まとまるもんもまとまらねえ。
首相も二日絶食されてるんだから、最低一昼夜は休養させてから、表へ出してやってあげてくださいな。
とにかく、新聞屋には一切、気取らせねえこってす。
「あ、ありがとう。ほんとによく気がつくね」
商売人が生き抜くにはね、いろいろ知恵が必要なんスよ。じゃ、おいとまします。
お煎にキャラメル、全部売り切ってしまいましたよ。まだまだ売れるぞ。もっと仕入れてこないとな。
是清さんは救えなかったけど、その失敗、これで、ひとつは、取り返せたかな。
でもトントンじゃあ、赤字なんスよ。まだまだ、稼ぎますよ。