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私が考えてた以上に、永田さんの周囲は敵だらけでした。
戸山の、石原閣下宅を訪問。一時間あまり、陸軍省の内情をお聞きしてきました。
それから。サノが集めてくれた、皇道派青年将校たちが盛んに街頭で配っている、相澤を讃えるビラの数々。
これらをもとに、永田さんが殺されるまでの経緯を、整理してみます。
7月16日。眞崎甚三郎大将が、教育総監の座を外されました。
眞崎は、陸軍三長官の一角。
教育総監とは文字通り、陸軍大学校・士官学校・幼年学校を統轄する責任者。
ここに皇道派の中核的存在が、一年半、居座っていたわけです。
皇道派とは自分たちの同志であるか否かを基準に物事を決定していく集団。
陸大の卒業式は11月ですが、昨年巣立っていった将校たちは46期で51名。この数字、記憶しておきたいと思います。
天皇制とは何なのかとそもそも考えず、ただ妄信的に信仰厚い自分たちを讃えるのみ。
それを根拠に他を排撃するような連中を、当の皇族が喜ばないのは、健全です。
三長官のひとり、参謀総長・閑院宮載仁親王は皇道派を嫌い、眞崎との関係は日に日に険悪なものとなっていきました。
林銑十郎陸軍大臣は、未だに皇道派とも統制派とも、どっちつかず。
皇道派青年将校から見ても、その立場は非常に曖昧。
ですが、永田軍務局長に操られて眞崎大先生を蹴落とす側に回りやがったやつだ、という筋書きだけは、全皇道派の共通認識。
下手人・相澤三郎中佐は青年将校時代、眞崎の直接の部下だったことがあるらしく、逮捕された今も熱烈な眞崎信者であるらしい。
教育総監更迭の報に接した瞬間、永田憎しの感情がピークを越えたのでしょう。
7月末に一度、軍務局庁舎を訪問。下見をして、8月12日、覚悟を決め、凶行に及んだ。
眞崎の更迭は、林陸相から、穏便に辞任してもらえないかという言い方で切り出されたそうです。これまでも皇道派を徐々に外してきた林氏。荒木閥解体の大詰めでした。
閑院宮の後ろ盾もあって、教育総監は渡辺錠太郎大将に交代されますが、眞崎は大人しく引き退がらず。
口達者な荒木元陸相を連れてきて、陸相官邸で、林大臣を統帥権干犯だと異議申し立てします。
林も陸相を辞めるべきだ。そして荒木大将に再起願うべきだ。と、詰め寄ったみたいです。
皇道派のビラにも、官邸での模様は描かれてるのですが、なぜお前らがこの一部始終を知っているのかと。
ズブズブのリークが見てとれます。
そして、ここで荒木が持ち出した機密資料というのが。
永田少将による、三月事件クーデター計画書。
その場には永田さんもいたそうです。
まちがいなく自分の筆跡であり、小磯長官に提出したものだと、認めました。
これほどの危険人物が国を破滅させようとしている!
荒木独擅場の、クライマックス。
陸軍省で永田さんが血まみれで倒れた直後、軍務局内では、相澤を囲んで、よくやった、お前は維新を成し遂げたと、肩を抱き怪我の手当をしてやったお仲間たちが何人もいたそうです。
そんなところで、永田さんは、毎日、働いてたんだ。
どれだけ針の筵だったことでしょう。
永田さんが新京で、今日はゆっくり眠れそうだと言っていたことを、いまさら、思い出して、不甲斐ないです。
陸軍の病魔は、おそろしく、根深く、この国を、蝕んでいる。
内地へ来てみないと、この空気は、なかなか、わかるものでは、ありませんでした。
満洲も満洲だけど、日本も日本です。
日本陸軍が大量に兵と一旗組を派遣している華北も、おそらく今、とんでもないことに、なっている。
私が考えていたよりはるかに、おそろしい状況でした。
もう、一刻の猶予も、許されません。