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日本特殊工業株式会社を経営しております、宮本光一と申します。
このたびの震災で被害に遭われた方々。ご家族やご友人を亡くされた方ももちろんですが、財産やお仕事を失われた方々、その他筆舌に尽くしがたいご苦労を今尚されていらっしゃる方々に、謹んで、御見舞い申し上げます。
我々共の会社も、今なお操業再開の目途は立っておりませんが、従業員も、建物にも大きな被害はなく、今はただ、日々、できることを粛々と、地域の皆様の支えになれるよう、努めさせていただいております。
牛込区は、東京市内の中でも、きわめて被害が少なかった方だと言われております。
翌日以来、各地の罹災状況を知るにつれ、まことに、まことに、むごいことで、胸が詰まります。
東京中、至るところで火の手が上がり、多くの方が亡くなられました。
とくに、本所区の陸軍被服廠では、あの広大な敷地に避難されてきた数万人の方々が押し合いへし合いとなり、そこへ火の手が猛烈な勢いで襲いかかり、逃げることもできず、お亡くなりになられたと聞き及びます。
深川区などは川が多く、一丁歩くにも橋を渡らなければならないような水場であるにもかかわらず、消防隊がたどり着けず火に追われ川へ飛び込み、揉み合いになって溺れて亡くなられた方も少なからずとか。
そして、小石川の砲兵工廠が、弾薬に燃え移って建物全棟を吹き飛ばすという甚大な被害に及びました。
私も行って見て参りましたが、一面の更地に変わり果てた光景が信じられませんでした。
後楽園も全壊。大広間も焼けてしまいました。有名な、東海道五十三次の庭園も滅茶苦茶です。
牛込へ戻ってきたとき、我が社がまだそこにあるのを見て、涙が止まりませんでした。
これから、我々共は、東京の復興へ向けて、固い決意をもって努力せねばなりません。
折しも、昨年より、山東省およびシベリアからの撤兵が決定され、ワシントン条約にもとづく軍縮が始められたばかりであります。
私どもも、厳しい経営の中、活路を求めて知恵を振り絞ってきて参りましたが、より一層の覚悟をもって、世界の平和と社会治安の安寧に力を注いでいく決意を新たにしたいと思っております。
どうか、皆様、これからも、手を携えあい、力を合わせて、がんばりましょう。
よろしくお願い申し上げます。