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気になる少年がいる。
漢口から帰国したばかりで、儂は和本に飢えていた。仕事帰りでも休日でも、いつも本屋へ寄る。
大陸や欧州の歴史文化地図写真、そういった資料を手に取れる店は限られている。
勤め先にはそれなりに、門外不出の一級史料が所蔵されているのだが、近代戦を論じるのに適切とは云えぬ。
室町幕府の偉大な将軍がいかに善政を敷いたかなどを今の今更論じるなど。時間の無駄だ。
我々が必要としているのは日清日露で得た戦訓を、如何に我々流に発展させていくかだ。
欧州大戦は終わった。
砲兵の進化はめざましく、戦術も、戦略も大きく変わった。
しかし我ら国軍はその実戦を経験していない。やっとその研究にとりかかれる準備が始まったばかりなのだ。
世界を征する側に就くには、欧州列強、ことに大英帝国が疲弊しつくしている今こそ絶好の機会。
そう、言い続けているうちに。
こんなことを考えながら通う本屋に、よく見かける子供がいる。
年の頃は、十あたりか。
少年か少女かも判別しがたい。整った顔つきをしている。
本を見つめ、手に取り、素早くめくり、棚へ戻しての繰り返し。
店主に聞いてみた。
「ああ、大きな声じゃ言えませんが、ちょっと先にある、うちの親戚筋の家にもらわれてきた坊やでね。かわいそうなんですよ。小遣いももらえてないようで本なんて買えないんですけど、ここへ来ると落ち着くみたいでね。本を汚すでもなく、並べ替えとかもやってくれてたりするんで、ほおっておいてやってます。あの家だと息が詰まるでしょうから」
ははあ。店主は、少年が何をしているのかまではわかってないと見える。
よく見てみるといい。
たとえば今日はこの本を攻略すると決める。一分ほど読む。それから他の本を眺めたり、棚の分類整理をしたりする。攻略対象を再び手に取り、自分が間違いなくその内容を覚えているかを確認する。これを繰り返す。
あれは、高度な、記憶術の鍛錬だ。
しかも、選ぶ本も面白い。
先週、儂も最近読んだばかりの本を手に取った。どこを読むか隠れて見守っていた。あの辺は日英同盟関連だろう。たぶんその条文を、頭に入れようとしていたよ。
どうだね。おそろしいと思わんかね。
見たところ、十歳程度の子供がだよ。
あれは、何者だ?
きみ。と声をかけてみた。
無反応なので、耳が聞こえないのかな?と思った。
やがて、ゆっくりとこちらを向いて、儂を見上げる。
表情が固まっている。無理もない。
しかし万引きを押さえられた盗っ人のような、ああいう表情でも、ない。
こちらの出方をうかがっているのか。
まったく、儂の方が冷汗をかく。
失敬。儂は、石原という。よくここへ来ているのを見かけるが、君の好きそうな本は私も大好きでね。よければ、ちょっと話をしてみたい。どうかね?
少年はしばし、考えているようだったが、やはりまったく表情を変えない。
まじまじと見るのはこれが最初だ。じっさい、男の子なのか?
髪は短いし、服装も男の子のようだが、女の子がそういう格好をしているという方が、雰囲気的には合っている。
少年は、本を棚に戻した。そしてこちらを見上げ、ようやく口を開いてくれた。
「……はじめまして。実は、おなかがすいています」
更にびっくりだった。
ますます興味がわいた。
この先に、カフェーがある。よければ、おやつくらい、ごちそうしよう。
ところで、お母さんは一緒じゃないのかね?と、あえて聞いてみた。
「保護者でしたら、家にいますが……」
私は人さらいではないので、もしご許可を願えるのであれば、お断りをしておくべきだと思ってね。
少年は、答えづらそうな表情をした。店主から聞いて知っている。じゃあ、あとで儂が送っていってあげて、儂から説明しよう。なら大丈夫かな?
やっと、少年は承知してくれたようだった。