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2592年9月18日。
満洲事変一周年を迎えました。
私は今、やるせない憤りに、全身をふるわせています。
まだ、やっと、一年経ったばかりだというのに。
これからだったはずなのに。
理由は、最後にぶちまけます。
その前に、満洲国の立法機関が骨抜きにされてしまった話をします。
満洲青年連盟。事変前から、満洲における政治の在り方とはなんぞやと熱く問題提議を投げかけていた、有志の集団です。
吉林・ハルビン・洮南で中国人による独立政権の樹立に力を貸し、五族協和という建国理念を掲げて満洲国の基礎固めをした、関東軍と双璧を成す立役者です。
まとめ役は金井さんという方ですが。私は山口重次さん、通り名はケンカウズラっていう、血の気の多いおにーちゃんとウマが合って、石原と三人でよく語り合ってました。
この青年連盟が、今年の4月、協和党という政党に改組されたんです。
国民選挙による立法府設立へ向けての再編制でした。
これに、まず、溥儀が噛みつきます。
建国宣言に先立っての東北行政委員会宣言でも「最高位の国家元首は執政である」と明記されてますが、ゆくゆくは皇帝となる溥儀にとって、議会制民主主義なんて邪魔なものでしかないようです。国会の意味を認めようとしません。
ここで既に、帝政か共和制かという、最初からあったひずみが露呈してしまったのです。
協和党には、雄峯会というライバルがいました。
もとは満鉄内の、東京帝大卒派閥に対抗して生まれたグループで、笠木さんというリーダーを中心に、30名ほどの集団を形成してました。
笠木一派は、他人のやることにトニカク反対。ポリシーなきポリシーしかない。そう私には見えてました。
青年連盟にも協和党にも関東軍にも駒井さんにも、ひたすら揚げ足とって批難ばかりして、愛想尽かされてました。
ただ事変の最中、雄峯会も一応お手伝いしてくれてた縁がある義理で、満洲国政府内に執政直属の、つまり実務をほぼ伴わない部署をつくって、笠木氏に任せたんです。これが諮政局です。
執政溥儀の宮殿は、新京にあります。宮殿といっても、紫禁城に比べたら犬小屋同然かもしれませんが。
笠木氏はここを根城にして、溥儀の命令という形で、いつの間にか新京政府の人事権を掌握。
露骨に雄峯会のメンバーばかりが政府の要職を押さえ始めて表面化。奉天に本部を置く協和党が騒ぎ立てました。
溥儀自身も協和党の存在そのものを潰そうとするから、諮政局へ肩入れをして、すったもんだの争いへと発展。
総務庁や関東軍からも介入されて、最終的に諮政局は取りつぶしになりましたが、溥儀の顔を立てて協和党へもペナルティが課されました。
協和党あらため協和会という非政治団体として再出発。
溥儀を名誉総裁として、政府から助成金をもらって活動する御用機関となるべし。
なんじゃそりゃ。
これでは国民を代表して政府を監視し信任・不信任を決議することができない、と最後まで反対した中央事務局次長のケンカウズラ氏を筆頭に、草創期からいたメンバーはほぼ全員、左遷か解任させられました。
つまり現在、三権分立における立法府が、この国には存在しないのです。
日本内地の国会だって、マトモに立法やってるかといえばグダグダの猿芝居しかしてませんけど、そもそもそれすら存在しない状態になってしまった。
そんなやさぐれた気分だったところへ。
9月18日の事変一周年は、抗日運動のピークとなるであろうと予想されてました。
その警戒網を縫う形で、15日に、撫順炭鉱で、満鉄の現地事務所が中国人の襲撃を受けるという事件が起きました。
私は撫順炭鉱に狙ってる物件があって、前からよく行ってたんですが。
現地には、炭鉱労働者の村があります。
ハッキリ言うと日本人が中国人を安くコキ使うために住まわせてる。
100世帯くらいが密集して暮らしている集落だったんです。
そこが、立入禁止になりました。
ただの封鎖ではありません。その集落の入口さえ見せないところからバリケード。
厳戒態勢で覆い隠しているんです。関東軍が。いま。
一部の中国語新聞に、記事があります。
命からがら包囲網から逃げ出したという生存者が語ったところによると。
その日、日本兵たちが現れ、問答無用で報復を始めたと。
この情報だけで、断定することはできません。したくないという思いも強いです。しかし。
あのバリケードが物語ってる。
集落へ毎日通ってる、行商の人たちまで入れさせず。
一昼夜経過して、二日目。
伝染病なら医者を呼ぶはずですが、一切、そんな動きもない。
これは何を意味する?
冷静に考えれば、おぞましい推測を認めざるをえないところまできています。
なにをしている?
なにをしているんだ?日本は。関東軍は。満洲国は。
いったい。