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5月4日。満洲国首都・長春あらため新京にて、溥儀執政と会見。
前日に、行政機関の最高責任者であるところの、国務院総理・鄭孝胥氏と会談した。
彼は清朝の代から溥儀氏を守ってきた方だ。
くれぐれも溥儀様をよろしくと頼まれたが、生憎われわれ調査団にその任はつとまらない。
溥儀氏との対面も、ごく短いスピーチを交わす程度で終わった。
それ以上のことを、あの重苦しい監視の中で続けることは、双方ムダだとわかったからだ。
反対に、奉天でも新京でも、出迎える日本人領事のスピーチは長くて威勢がよい。
これはかなりのストレスだ。
溥儀氏にも語りたいことは山ほどあろう。
我々も大いに期待していたのだが、そのピースが埋められないとなると、どうしたらいいだろう。
考えた末、日本人顧問に聞いてやれと、事実上の最高権力者と言っていい、国務院総務庁長官・駒井徳三氏への会見を求めた。
この駒井氏が、これまたよく喋る男だった。
まず我々は叱責された。
「あなたがたは、日支紛争解決のために国際連盟から派遣されたとはいえ、その後で満洲国は中華民国から独立したのだから、国際礼儀上あらためて、我が政府への表敬訪問から入るべきであろう。
入国したからにはその国の決まり事に従うべきであるが、鄭孝胥氏への質疑も一国の総理に対する敬意などなく、まるで犯罪者を尋問するかのような態度であったとの報告を受けている。
我々は正式な手順で、日英米仏伊独は勿論ソ連に至るまで、国交開設を希望する旨打診し、承認と回答とを待っているところである。準備が整い次第、国際連盟への加盟も検討する。
中華民国は、我々を苦しめていた旧態依然の三等国家であり、その政府の一員である顧維鈞氏を、満洲国の全国民が歓迎していないことを、この場ではっきりと言い渡しておきますぞ」
初めて明確な方針が示されて私はたいへん満足だった。
謝意を述べ、あらためて彼の口から、満洲国とはどういうものなのかを、説明してもらうことにした。
最大の収穫は、土肥原賢二という人物をピックアップできたことだろう。
事変の翌日から一ヶ月間、奉天市の臨時市長をつとめた関東軍軍人だ。
前日まで東京へ出張していた。
絶妙のタイミングで戻ってきて、すみやかに空白を埋めた。
現時点では駒井氏がいつから/どこから計画に関与していたかはわからないが、土肥原氏はほぼ確実に、首謀者の一味だということができよう。
次に我々は、ハルビンへ向かった。
ここは世界的にも極めてユニークな都市で、完全にロシアの街と言ってよい。
2月までは支那の一部だったが、住民の多くはロシア語で話し、それでいてソヴィエトの臭いがしない。
地図上の広さに比べれば市民が安全に生活できる範囲は限られており、匪賊化するロシア人も多いという。
察するところ、あまりある。
ハルビンは商業都市でもあるので、我々は主に財界人から話を聞いた。日本人は正直な商売を好むとして、ここでは珍しく日本への評価は高かった。
このあと我々は吉林、そしてチチハルへ向かう。
馬占山将軍への会見を申し込んでいるのだが、日本軍からも満洲国からも、そして馬占山氏からも、命の保証がまったくできないからと反対されている。
問題解決のため一日だけ停戦してもらえないだろうか。そんな交渉も、聞き入れてはもらえない。
馬占山氏を支援しているコミンテルンからしても、我々への協力はできなかろう。
馬占山氏は満洲国に関わるすべての勢力にとってのアキレス腱であり、ジョーカーだ。
だからこそ、非公式にでも、誰かをさしむけてコッソリとでも、話を聞いてみたいと思うのだが。
さすがに難題だ。いい知恵が出ない。
どうしたものかな。
一晩寝れば、アイデアも浮かぶかな。
それでは、よい夢を。