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「ユイノウ ブジスマセマシタ カヨウビ」
コダマさんからの電報です。2~3日中にこっそり日本へ戻る、という意味です。
首相殺害の件だと思い、新聞を掻き集めておきました。
コーヒーを淹れて戻ってくると、もう一通り読み終えていて、手元には簡素なメモができあがっています。
5月15日夕刻。
海軍と陸軍の二十代将校十数名が、首相官邸・内大臣官邸・立憲政友会の本部・日本銀行・警視庁などを各個襲撃。
犬養首相や巡査らを殺害して、即、憲兵隊へ出頭するという事件が起きました。
「五・一五事件。名前だけ、日付だけ、知ってた。これだったんだ。……あと、二・二六事件ていうのも起きるはず。こっちの方がおおごとになる。来年か、再来年か?雪の日だ」
歴史は、変わってない?みたいですか。
「犯人たちの裁判はこれからだし、新聞だけでは動機も当て推量の域を出ないな。今後も、情報蒐集たのむ。この一件で終わり、にはならないはずだ」
内地でなら、もっと詳しい状況がわかるだろうと思って来られたのに、当てが外れて残念そうです。
他の記事も片端から読まれてますが、興味を惹くほどのものは、大して、無さそうです。
「チャップリンが来日してたことは、大陸では報道されてなかった。しかも首相と会食を予定してた日だった?そんな話、聞いたことないぞ。彼は第二次大戦中に自身でヒトラーを演じる風刺映画をつくって、ドイツから命を狙われることになるのは知ってたけど、それ自体が存在しなくなる可能性もあったのか。ともあれ、無事でよかった」
満洲の話、お聞きしたいのですが。それがイヤだから今回も、お忍びなんですか?
「上海でえらい目にあってね。サノになら話したいこといっぱいあるんだけどね。日特へ行くと丸一日は確実に質問攻めで潰れちゃうから言わないでおいてくれ。いまリットンを追いかけてる最中なんで、すぐ戻らなくちゃいけない。サノになら何でも話すけど、何ききたい?」
戦車隊が満洲・上海へ出動しましたけど、実物は見られましたか?
ルノー・八九式・最新の九二式まで送りこまれたそうですよ。
「見たよ。奉天で。乗させてもらった。一度実戦を経験した戦車って、ゲロとションベンで中がすごく臭くなるんだよ。戦車てのは戦争に使うもんじゃないね。鑑賞して、愛でるものだよ」
よかった。コダマさん、笑顔が戻ってきました。
武器は、持って行かれます?試作品がいくつかありますけど。
「この防弾腹巻きはいいね。軽いし、むれない。こっちの眼鏡ももらっていこう。それから濾過器付き水筒は、大いに助かる。新京ではまだまだ水の便が悪くてね。これで生水も怖くない」
石井式濾過器は今後、日特の主力生産品になる見込みですが、それをこっそり改良して、コダマさん用に仕上げました。
「事変以来、特務と憲兵の監視対象から私は外れたんだけど、今は今で、結局トクムは満鉄を信用してないからさ。雄峯会と協和党の小競り合いもそのうち爆発しそうだし。目立つ武器は持っていかない」
満洲は、闇の国ですか。
「ひどいね。建国理念の踏みにじられように、肚が立ってしようがない。石原閣下が睨みをきかせてるうちはいいけど、政治については東京政府より腐ってるかも、既に。于冲漢さんを首相にすればいいのに。でも関東軍が押さえつけて、身動きをとれなくさせてる」
リットン調査団は、ぶじに帰れそうですか?
「さあねえ。4月の上海みたく、どっかのバカが爆弾投げつけるんじゃないの、そのうち。世界は暗殺流行りだもの。それにしても内地の世論が青年将校をここまで憂国の英雄扱いしてるのには、ほんと驚いた」
政府への失望感が大きすぎるせいだと思います。
でも犬養首相は、軍にとって殺されるべき人ではなかったと思うんですけどね。満洲事変へは追い風も吹かせたのですから。
「むしろナゼ今からでもワカツキシデハラを殺さん」
コダマさんて、ふた言目にはそれですね。
「でも、殺すのには反対。世界中の日本人から怨まれつづけて、自分たちが常に狙われてていつ殺されるかもって恐怖に一生脅えながらコソコソ生きててもらうってのが理想かな。それでも多分、死ぬまで反省も改心もできなかろうと思うけどねアイツら」
まあ、そのへんで。
コダマさん自身は、今後、どうされるおつもりですか?
満鉄で地歩を固めていく、というのも魅力的に思うんですが。今さら日特みたいな零細企業へは戻られないでしょう?
「歴史が変わりきってないのだとすると……満洲国も満鉄も、私のいた世界では存続してないんだよ。そこに足場を築くことには激しく躊躇する。でも当面、仕事は山ほどあるからね。資産はつくっておきたい。お金、かせいでおくよ」
わかりました。いつでも協力します。