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リットンだ。対馬経由で上海へ向かっている。
我々がル・アーブルを発つ一週間前に、日本は上海侵略戦を始めた。
シベリア出兵/山東出兵に匹敵する軍勢を一気に送りこむ、いつもの日本のやりくちだ。
戦術としては、間違っていない。戦略的には大間違いだが。
満洲事変だけが、日本らしくない。
きわめて異質な行動だった。
ひとまず我々の調査は満洲事変に限定されるのだが、上海も視察するのは意味のあることだろう。
さいわい、3月3日より戦闘は停止している。
日本での9日間。後半を我々は、西部の著名な都市を回って歓待を受けた。
支那の多彩さほどではないが、日本もあれだけ小さいながら都市ごとに文化の差が大きいことには驚いた。
京都。
日本の古都で、9世紀から、つい60年前まで天皇の都だった。
由緒ある御所よりも、徳川将軍がつくらせた二条城の方が豪華で見栄えのするものだった。
夜は芸者の饗宴を体験したが、あれは極めて悪趣味だ。誰か言ってやった方がよい。
完璧ではあるが単調な、ゆっくりした曲に合わせて舞を披露する。女性たちは厚化粧で、相当な年寄りも混じっていた。会話は成立しない。女性は教養を求められていないのだ。型にはめられすぎており、体格的にも貧相だった。
娼館かといわれると、そうも思えない。古代ギリシアにヘタイラという制度が存在したが、あれに近いか。
ただ、我々を招待した日本人男性たちは、芸者の前では、昼間とは違う、くつろぎの表情を示した。
なので日本の男性社会に奉仕する形で馴化した、独特の文化なのであろうとは思う。
しかし外国人向きとは思われない。どうにも、窮屈であった。
京都訪問中、やっと日本側から、3月1日に満洲国建国宣言が発表されたと知らされる。遅いよ。
奈良。
京都より古い時代の首都で、今は幽玄な緑地が広がっている。角を短く切られた鹿の群れが都のいたるところを散歩しており、市民と一体の空間を形成している。その宗教的な落ち着きぶりに大変興味をそそられた。
大阪。
奈良と20マイルしか離れてないのに、ここは目の回るほど騒々しい、商業の街だった。
言語も、人々の気質も、東京とまったく異なっており、我々のチームで大阪語を理解できる者はいなかったため、日本人通訳を介さずにかれらの真意を探ることは難しかった。
東京では誰もが、大なり小なり言葉を選んで慎重に会話をするが、大阪人は身振り手振りで意思を伝えようとするのが好印象だ。かれらなら、支那人とも仲良くなれそうな気がするが。
目下、最大の話題は、支那における日本商品ボイコットや海運の損害なので、きわめて残念なことに思う。
神戸。
六甲山の頂上で市長との昼食会に招かれた。横浜と並ぶ国際文化都市で、大阪よりも格調高かった。
駆け足ではあったが、日本はユニークな国であり、見るべきところは多い。鎖国を開いた当初は西洋に対して大きな劣等感を抱き、戸惑ったはずだが、70年程度でここまでの成長を成し遂げた実績は誇ってよいことだと思う。
しかし国際法上の犯罪が許されるわけではない。
犯罪が行われたならば、それは裁かれねばならない。
それでは次は、支那の番だ。よい夢を。