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大同元年3月9日。
満洲国の建国式典が終わったところです。
コダマです。長春へ来ています。
新しい首都です。満鉄線の北端です。ド田舎です。
なぜ、首都を奉天にしなかったのか?
これも、すったもんだがありました。
南満の二大都市。奉天と大連。
それぞれに地盤を持つ有力者たちが駆け引きを繰り広げ、今も両方から怨まれてます。首都になれば経済効果も格段に違ってきますからね。
ですが、奉天も大連も、これ以上大きくしなくてもいいでしょう。既得権益を肥え太らせるだけです。
それより、広大な満洲を開拓してゆくには、もっと内地へ分け入っていかなくてはならない。
だから、長春です。
単純明快ですが、よくぞ、押し切りました。
長春は、今はまだ、だだっぴろい村なので、本拠にできる建物とかもありません。
当面は、満洲屋という、満鉄直営の旅館を全館借り切って、役所にします。
つくづくと、満鉄あっての満洲国。
今となっては奇妙に思えますが、満鉄と関東軍て、事変以前、決して仲良くはなかったんですよ。
満鉄が関東軍を見下してました。
陸軍大将ですら、旅順司令部から大連本社へ出向いて、いろいろお願い事をしていました。
今も、満鉄の方が立場は強いです。
満鉄のライバルだった各地の並行線が傘下に入ったことに加え、今後の開拓に必要な路線も新規で作らなくてはなりませんから、ますます大忙しになりますし、投資額も拡大するでしょう。
満洲国経済の牽引役として、尚一層、重要な存在になります。
すったもんだで押し切ったといえば、もうひとつ。
溥儀陛下は、現時点では皇帝ではありません。
執政、という肩書きで、五年か十年徳を積んだら、その後に皇帝になっていただくかも。という条件で、妥協が成立しました。
押し切ったのは、板垣さんです。
こういうとこはさすがだなあ。よく納得させたなあ。
天津から連れ出して以来、ずっとその件だけで揉めてましたからね。
溥儀皇帝をお迎えすること自体、いまだに満洲全土で、賛否両論があります。
石原閣下や、青年連盟の山口さんなんかは、徹底して反対派です。
私も以前は共和制国家に似つかわしくないと否定的だったんですが、今は、そうでもないです。
満洲に古くから住んでる人ほど、溥儀の復辟を切望して、救われてる方も多いんですね。
実際に、そういうおじいちゃんおばあちゃんたちと中国語で話すと、昔の話がいつまでも終わらなくなるんですけど。
生きた中国史をそれはもうリアルに学べて、考え方も変わります。
日本の天皇制も、きっと、同じじゃないですかね。
そこまで深く考えたことは、実は前世でも今世でも、無かったんですけど。
天皇制の功罪とか。どうあるべきなのかとか。なんでこんなガラパゴスな制度がいつまでもって。
そのうち極端な賛成派も極端な否定派も全部、読んでみて、聞いてみて、考えてみたいなと思ってます。
たぶん内地へ戻らないと資料探しも難しいので、そのうちに、ですけど。
上海で殺されかけた直後は、内地の連中が憎くて憎くてたまらなかったんですけど、その後、そいつらと言論で戦うには相手の思考回路も理解できるようにならなくてはダメだ、と思うようになって、ええ。
満洲国を滅ぼされないために。
私自身も、もっと政治力を身につけなくては。
最近、そんな風な考え方もするようになりました。
まだまだ、ニワカですけどね。
見ていてください。満洲国、潰させやしません。
私は、たたかいます。戦い抜いてみせます。