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ゼイ、ゼイ、ゼイ、、、、、、、、、、、
戦場から、命からがら、戻ってきました。
いま……2592年1月28日、から日付かわって29日の、02時。
閘北は、死体の山です。
上海では私、ただの一般旅行者なので。いつもの無国籍スタイルで、顔も変装して。薄汚れたカッコで歩き回ってました。
今日までの流れ。
上海、それから東京で最近起きた、中国人による日本人への暴力事件を言いがかりに、
日本総領事の村井倉松氏が、
上海市市長の呉鉄城氏へ、
そうとう高圧的に、謝罪および被害への補償と、今後一切の反日運動を厳格に取締まることを要求。
回答期限を28日18時と、突きつけました。
この要求自体が反日感情をさらに過熱させ、閘北も虹口も騒然となります。
中国人市民は自分たちの市長へも容赦ない攻撃をするので、12月に前市長は退陣させられました。呉鉄城氏は市長になったばかりです。
ちなみに、上海の日本人だって、中国人経営の工場に放火とか、中国人警官への暴行など、やってます。
しかも、やってやったぜと自分たちで自慢してます。
それは棚に上げた上での、この暴論。
境界には鉄条網が敷かれ、日に日に増えていく日本軍の挑発と威嚇行為もまた、ヒートアップ。
ナゼにそこまで?と正直私は首をかしげるのですが、日本はどこまでも強気で、相手を完膚なきまで叩きつぶす勢いです。
湾外に並ぶ日本海軍全艦の砲を閘北へ向けて、時々威嚇射撃をします。
呉鉄城市長、28日14時に、日本への全面降伏を文書にて回答。
なんて屈辱的な。あまりに屈辱的な。
ただこの宣言は、むしろ日本にとっての、最悪の事態となりました。
中国人市民だけではなく、共同租界やフランス租界の外国人住民、かれらと不可分の、それこそ世界中の報道機関が、日本の非道ぶりを批難し、一致団結するという状況を生み出しました。
正直、ナゼ、日本はここまでする?と、この時点でも思うわけです。
満洲事変のイデオロギーとは異なります。
真っ向相反する、暴威です。
これは声を大にして言いたい。無理があるのは承知してます。それでも言いたい。
でも伝わらないのもわかってます。
どちらも日本人がやってることです。
しかも、満洲事変が終わった直後のタイミングで。
満洲はただの第一ステージだった、次は上海だと地続きで考える方がストレートですよね?
私たちがこのあとすぐ、世界中に発信したかったことが、上海事変によって台無しにされてしまっているんです。
なぜ?
なぜ?こんなことに。
考え疲れた私は、夕方、ぐっすり眠りました。夜に備えました。
22時くらいに忍び出して、虹口と閘北を見に行ったんです。
日本許すまじの大合唱は、深夜まで続いてました。
夜の帳を下ろさせず、かがり火は赤黒く燃え続けてました。
そこへ。
日本軍、砲撃と銃撃で、中国人居留区への突入を開始。
人口密集地へ。
容赦なく。
機関銃を撃ちまくる、日本兵。
私、死んでましたよ。今世でも、ここまで死を身近に感じたの、初めてです。
逃げる群衆に踏みつぶされそうになりながら。頭や顔に生温いしぶきが飛び散るのを感じながら。無我夢中で走りました。
南京や、チチハルでも、ここまで絶体絶命に陥ったことは、なかった。
本気で、おしまいだと、覚悟しました。
一目散に、逃げました。
ありえない。これは夢だと思いたい。
しかし、油煙と硫黄の臭いが染みついた髪と服と、泥だらけの靴と、ホテルの鏡に映った赤鬼の姿。
紛れもないリアルを前にして。
夢じゃないことだけは、間違いないんです。
なぜ?なぜだ?なぜだ?
もうしばらく、上海に居座って様子を見るつもりでしたが、帰れそうになり次第、帰ります。心が耐えきれない。
頭を整理するためにも、今すぐにでも、この場から離れたい。
何が起きたんだ?今夜。
私の知っていた歴史が変わって、もっとひどいことが起きているのでしょうか。
起きようとしているのでしょうか。