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2591年12月7日。
石原中佐はお休みを満喫されてますかしらん。
二週間前。秩父宮に戦線不拡大を約束してきた、と皆に言いおいてから司令部を離れられました。
その後、モーレツに戦線は、拡大、しております。
誰か伝えてる?
伝えてないよね。こわくて行けないよね。
新聞読んでたらバレるかな。読んでないわけない?なくなくない?
「何やってるんだ!」
と閣下がいつ怒鳴りこんでくるんじゃないかって。
みんなビクビクしながらお仕事してる、師走であります。
ちょうど一ヶ月前、溥儀を天津から夜逃げさせたんですね。
私、そっちの作戦には絡んでなかったんですけど、土肥原のおっちゃんが、随分とまあヒドいことやらかしてました。
現地の人たちに武器渡して暴動起こさせ、
「溥儀様大変であります避難なされませ!」
と庇うふりして拉致。
大連まで船で来てから、湯崗子っていう温泉あるんですけど、そこへお連れして。
今後についての傾向と対策と段取りを話し合い中。
今も、ですよ。
天津はそのときの暴動が続いちゃってて街は荒れ放題。
北平よりちょっと手前に位置するので、そこには、陸軍省直轄であるところの支那駐屯軍がいて、司令官は香椎さんて中将なんですけど、応援乞う!って連絡きたんで関東軍が向かいました。
可及的速やかに対応すべき緊急事態に対する、現場判断による臨機応変な出動です。
閣下がお休みに入ったあとでした。
奉天から天津までは、石原が10月に爆撃してきた錦洲を通るんですが、この辺の治安もいま非常に悪くなってて、鉄道が使えません。
騎馬兵狙撃手の一撃離脱襲撃を警戒しながらの行軍。
だから、まだ天津に辿りついてないんですよ。
応援が応援を求めている。そんな有様です。
反対方面なんですが、満鉄路線でいうと長春が、本来、満洲での関東軍勢力範囲東端だったんですね。
9月に、その先の吉林まで占領。
そこまでは聞いてましたが、今はもう、さらに東の敦化ってところまで関東軍押さえてるらしくて。
いつの間にそんなとこまで行っちゃった?
雪と氷に閉ざされたチチハルへも、旅団が増援されました。
シベリア出兵のときみたいに民家燃やしてたりすんなよ。
閣下がいた時は、兵の風紀は極めて厳格に維持されていたのですが。
今は、どうなっているかなー。
物資がなければ私だって燃やせるもの燃やすしかない。切実です。
補給の維持とは、風紀の維持でもあるのです。衣食足りて礼節を知る。
チチハルの寒さを知ってるだけに、そっちの兵站は私がチェックしています。
満鉄さんへ特に、お願いしています。
そのチチハルで、板垣さんが、馬占山との交渉を成立させた、とさっき連絡入ったとこです。
馬占山はカリスマとリーダーシップにおいては稀有な人材ですから、「その手腕を滿洲国のために役立てていただきたい。黒龍江省長として、政治をあなたに任せたい」という条件で、説き伏せました。
馬占山軍の皆さんへも、銃と交換で食糧を提供するよと持ちかけて、うまく取引が進んでるようです。
かくしてようやく、戦闘状態は停止しているところです。
最大の敵が、来週からは最高の味方になるよ!って少年マンガの王道を地で行ってますよね。ニコニコ。
以上、鬼の居ぬ間の近況でした!
おしまい。