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トンネルを抜けると、そこは戦場でした。
何を今さら。
と自分でも思ってますけど、ここは今までと別世界です。
私は雪国も、戦場も、知らない子供でした。
恥じます。詫びます。ごめんなさい。
だから今すぐにでも帰りたい。切実に。
2591年11月6日。
三日間の戦闘で、大興駅付近一帯を制圧。
当方、死者46名。負傷者151名。
凍傷予備軍、数知れず。
冬季装備も用意されてたとはいえ、足りません。雪国なめたらあかんぜよ。
馬占山軍の死者は200名以上と見積もられています。
死体は雪の中に埋もれていきます。
狼や猿が先を争って食い散らかします。
春まで残ってたら熊さんも寄ってくるでしょう。
ゲリラ戦術で抵抗する敵。これも私には初実見。
コミンテルンの指導が入っているかどうかは議論の真っ最中なのですが、鹵獲した敵の武器に、今のところソ連製は見当たりません。
小銃はチェコ製が多いです。安価なので張作霖の時代から中国ではスタンダードでした。
純粋に東北辺防軍の残党が抵抗しているだけという考え方もできます。
多勢に無勢なれば一撃離脱のゲリラ戦術になるのも必然。ソ連に教わるまでもない。
久留米から、戦車隊が出動、という報告を受けてます。
ついに、日本戦車が初陣を迎えるときがきました。
早く来てください。そして、早く終わらせましょう。
馬占山はメディア使いが巧みです。
お抱えの記者に、自分たちの戦果を高らかに歌い上げます。
それは先ず中国語新聞を賑わし、満洲にいる日本人の義憤を煽り、これが内地へも伝わって、皇軍コールを盛り上げます。
追い風です。もはや日本人は、これが聖戦であることを疑わなくなってきています。
それはそれでどーなんだと思わなくもないですが。
今はただただ、あったかい奉天が恋しい我々です。
なので、終わってくれればいいや。
関東軍だって、メディア対策、やってます。
日本人経営の新聞社記者さんに、どうぞ前線へお越しください、我々の戦いぶりを見てくださいと宣伝し。
徐々に中国語系・英字系の新聞社さんからも取材申し込みが増えつつあり。
そんな流れが生まれかけてます。
従軍カメラマンというのは21世紀では当たり前にいるものでしたけど、この時代では初めて登場したところですかね。
石原閣下はドイツ留学時代からのカメラ狂いなので、嫩江にもライカを持ってきて、自分でもいっぱい撮ってます。
それはもう楽しそうです。
旅順で、自分で現像するんです。官舎には専用の暗室までつくってます。
いいですね。閣下もついに、オタの道へと目覚めたか。まことに、ほほえましい。
フリーのカメラマンでミフネさんという方と仲良くなりました。
普段は大連でお店をやってるから遊びに来てねと招待されてます。
落ち着いたら、是非、うかがいましょう。
そのために、全員ここから生きて帰れるよう、安全第一でお仕事します。
そんな昨日の夜半頃。
新たな記者団の到着がありました。
トラックで、乗り合いで来られた一行の中に、女性がいらしたんですよ。みんながびっくり。
「関東報の永田美那子と申します。女だと思わないでください。死ぬ覚悟で参りました」
石原中佐。一歩出て、彼女へ一礼。
「こんなむさ苦しい所へ、ようこそ。この本部とて、いつ襲われても不思議ではない。生命の保証はできかねますが、お仕事であれば生きて帰ることを優先してください。危険と思えばいつでも、待避を。遠藤少佐、稲葉少尉、今すぐこのお嬢様のためのご不浄をつくってさしあげろ。塹壕の奥に、衝立を二枚だ。お申し出あれば必ず一人が外側で見張りをしろ。不埒な者がいたら即、憲兵と私に言え。厳罰に処すと皆に伝えろ。それでは皆さん、記者の方の詰所はあちらです。今夜はひとまず、おやすみください」
永田さん、魂を抜かれたかのような表情で、立ち尽くされてました。おそらくですが、いまの時代、男性からそんなこと言われたの初めてなんじゃないでしょうか。
私も、目の前で絶句してましたが。21世紀にだって、こんな紳士的な男、そうそう居ません。
閣下って、閣下って、ほんともう。
いったいどこまで私の言いつけ守ってくれちゃってるんですか。
ええ確かに言ったことありますよ。コーモトがまだ旅順にいた頃かな。
日本の男は女性への思いやりがなさすぎる。子を産む機械であり一切逆らうべからずって思想が蔓延しすぎてる。そもそも相手を傷つける行為だし、社会の発展性を自ら狭めてるだけ。少しは考え直しなさい。
そんなことを。
石原莞爾。あなた最高のオトコですよ。
お父さんじゃなかったら、結婚したいくらいです。
テイちゃんは、幸せ者ですよ。心から祝福します。
さあ、泣いてる暇なんかない。とっとと終わらせて、あったかいお風呂に入りましょう。
入るんだ。帰るんだ。