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支那。China。
支那は、かつて、ひとつの巨大な帝国でした。
満洲族の皇帝を擁する清王朝の時代に、欧州で産業革命が始まります。
かれらは圧倒的な近代兵器と戦術をもって、広大な支那大陸へとなだれこみました。
清王朝は幾多の戦いに敗れ、また取引によって懐柔され、国土のあちこちを列強の支配下に置かれます。
九龍半島と周辺の島々はイギリスの領土となり
天津には英仏独墺伊露白による共同の租界が誕生し
上海・漢口・広州などにも各国の租借地がつくられました。
大日本帝国もまた、朝鮮半島をめぐる紛争で清の軍隊を叩きのめし、台湾を領有した他、欧州列強諸国と同等の最恵国待遇および通商特権を清に認めさせます。
西太后の死から4年後。
清国最後の皇帝、溥儀が退位させられ、276年続いた王朝の歴史は幕を閉じました。
ここから、3人の男たちが登場します。
袁世凱。52歳。
清朝陸軍の近代化を目指していた武人です。清朝では夢叶わず、末期には不遇に甘んじていましたが、手塩にかけて育ててきた軍隊を率いて立ち上がります。
張作霖。36歳。
東三省、別名満洲の、政治と軍事を掌握していた豪族です。満洲は北京から万里の長城で隔てられており、騎馬戦術を基本とする軍体制など独自の文化圏でした。清朝が終焉したことで、満洲族の自治独立を守るために立ち上がります。
孫中山。45歳。
一番のやんちゃ坊主です。子供の頃にハワイで暮らし、香港・マカオなどでイギリス流の医学を修得。日本でも仕事をして、国際的視野を育みました。ロンドンで支那の革命を訴え注目を集めます。支那人民をひとつに束ね、列強と戦えるだけの国家をつくる。その悲願を胸に、立ち上がります。
武昌から始まった蜂起が収まることなく全土を巻き込みます。
孫中山はアメリカから急遽帰国し、上海で熱狂をもって迎えられ、年が改まった日に南京で中華民国の樹立を宣言します。
皇紀2572年。明治45年。西暦1912年。民国元年。
この年、新しい支那の歴史が始まりました。
当初は、南京の孫中山と、北京の袁世凱との二頭状態でしたが、溥儀を退位させたのち、調整が行われます。張作霖はひとまず袁世凱の下に就きました。
支那歴代の首都は北京であること。その地理に詳しく軍隊の統帥も手慣れている袁世凱が、民国臨時大統領となります。
孫中山は国民党という政党を結成し、初代理事長に就きます。議会で多数派となることで国家の運営に権限を持とうという算段です。
孫中山の人気は高く、年末行われた初の国政選挙で国民党は870議席のほぼ半数を独占しました。
袁世凱としては、軍隊式の上意下達で迅速なる行政指示を出したいところに、孫中山の議会がいちいち横槍を入れてくることが煩わしくてしょうがありません。
半年後にはその軋轢が軍事蜂起となって爆発します。
しかし武力衝突となると、袁世凱が圧倒的に有利です。国民党はボコボコに鎮圧されます。
夏の盛りに孫中山とその仲間たちは、生命の危険にさらされ続々と国外へ逃亡します。
民国2年10月10日。袁世凱は勝利宣言を発し、「臨時」を取り払って正式に中華民国大統領となりました。
民国3年。欧州大戦が始まります。袁世凱は中立を宣言します。
ここで、日本が登場します。
日本は、欧州が互いに潰しあっている今が好機と考えました。日清戦争で勝利し列強から感心されたときに日英同盟を結んでいたのですが、これを口実としてドイツに宣戦します。ドイツが支那に有していた山東半島に出征し、青島、山東鉄道、山東省の省都・済南を次々と占領。袁世凱はそれを支那へ返してほしいと言いましたが、日本は戦時国際法上勝手に譲ることはできない、と居座り続けました。
民国4年。日本は袁世凱に、21ヶ条の要求を突きつけます。
山東省のドイツ権益を日本がこのまま継承すること。
ロシアから奪った遼東半島の租借期限を、清ロ時代に取り決めていた25年から99年に更新すること。
土地所有権・貸借権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などを開放すること。
中華民国最大の製鉄会社を日本との共同経営にすること。
中華民国政府に政治顧問・経済顧問・軍事顧問など日本人を登用すること。
日本人への免税。
その他もろもろ。
さすがに図に乗りすぎです。袁世凱はただちに列強へこれを暴露。日本は国際的批難を浴びます。
しかし、日本もしたたかです。イギリスのグレイ外相が仲介を引き受けたのですが、21ヶ条から19条、最終的に13条まで緩和して、日本もこれだけ譲歩したのだからと了解させました。
本命だったのは遼東半島と満州鉄道の返還期限がまもなく迫っているのを大幅に延長させたこと。これは守り抜きました。
山東省も、譲歩はしましたが一部の土地に日本の権益を認めさせ、大陸への足がかりをまたひとつ増やせました。
袁世凱はその調印後すぐさま、民国内で日本人に住居を提供した者は銃殺刑に処すなどの法律を作らせるなど抵抗もしたのですが、国辱大統領として全国民から袋叩きにされ、翌年死ぬまでその名誉は回復しませんでした。
孤独と失望に苛まれた袁世凱は、より強い国家が必要であると、自身を皇帝として中華帝国に改号し、民国暦から洪憲暦へ改め、批判されてまた戻して、など国家をますます混乱させてから亡くなりました。民国5年目の初夏でした。
袁世凱亡きあと、国はまた荒れます。
各地で軍閥が乱立し、欧州大戦中ではありますが列強の植民地化も進行しました。
日本も安穏としてはいません。南満洲鉄道の独立守備隊は閑職だからと予備役より配備されていましたが、現役兵で編成するようにして、本格的戦闘に備えます。
また、南満洲奉天を拠点とする張作霖、北京で袁世凱の後を継いだ段祺瑞。この二勢力に資金を提供し、日本への見返りを約束させつつ、その基盤強化を図ります。
民国6年。ロシアでも革命で帝政が終焉しましたが、この年、孫中山が戻ってきます。
ふたたび群雄割拠状態と化した支那をまとめるには袁世凱が持っていたような軍事力が必要なのだと悟った孫中山は、広東で軍事政権誕生を宣言します。
孫中山は大元帥。旧海軍を味方につけ、北京政府を打倒すべしと各地で戦闘を繰り広げます。
しかし、軍隊式組織運営の経験が無さすぎたのでしょう。一年で政権は内部崩壊し、孫中山はまたも逃げ去ります。
今回はひとまず、上海へ。
民国7年。日華軍事協定の締結。根回しが功を奏して、この頃の日華関係は堅調です。
しかしそれは上同士の話で、中華民国国民は日本に対して非常に悪感情を募らせています。
かつては打倒すべき帝国主義といえば英国でしたが、いまでは日本が筆頭にきます。
抗日運動は民国全土に根深く拡大中です。
この年、ドイツでも革命で帝政が倒され、共産主義ではなく共和制の新政府が大戦を終結させました。
民国8年。欧州大戦の講和会議がパリで始まります。
中華民国も参加しましたが、山東省ドイツ権益は正式に日本へ譲渡されることが決まりました。
民国は調印すらせず退席し、本土では抗日愛国運動が爆発します。
この頃満洲では、駐留日本軍が張作霖からの要請で幾度となく反抗勢力鎮圧に借り出されており、そのこと自体も抗日運動の格好の標的になっていました。
東京では日本の平和主義を明確にすべく、関東都督府を、関東庁へ改組。
ただし陸軍部は独立守備隊と合流させて、関東軍という別組織にしました。
関東軍は天皇陛下直隷組織として統帥権を独立させます。これは現地主導ではなく、本国主導で軍事行動を管制するための措置でした。
5月4日に北京で大規模な学生運動が巻き起こります。四年前、袁世凱が日本の要求に屈した国辱記念日を目前にして、支那を蝕んできた列強の不平等条約撤廃を叫びます。
今回の特徴は、ただ闇雲な暴動ではなく、多くの知識人が自分たちの目指すべき国についての議論を猛烈に深めたところにあるといえるでしょう。
孫中山も、語ることでは負けません。この運動で立ち上がった民衆になら自分の声も届くであろうと、民族独立・民権体制・民生充実の三民主義をより力強く、説いて回ります。
その影響力は、まだまだ大きくなるでしょう。
民国9年。
日本が資金提供していた二派閥。北京政府の段祺瑞と、満洲の張作霖が、熾烈な争いを繰り広げていたのですが、張作霖に軍配が上がりました。段祺瑞はボロボロになって天津の日本租界へ逃げ込みます。
なぜこうした過ちが起こったかというと、段祺瑞を応援していたのは東京政府で、張作霖を助けていたのは関東軍だったからです。
互いにこっそりやっていたため、同じ親の財産を潰しあっていることに気づいてなかったのでした。
今や、張作霖は満洲の覇者であります。北京政府へも顔がききますし、ロシアと日本からそれぞれ有利な条件を引きだす巧みな政治的手腕も含め、今後ますます力をつけていくと思われます。いずれ、孫中山と相まみえることでしょう。
支那を制するのは、はたしてどちらか。
あるいは、まったく新しい星があらわれるのか。
そして日本は、かれらといったいどう係わっていくのか。
新しい支那の歴史はまだまだ始まったばかりなのであります。