File_1929-12-002D_hmos.
おや閣下。平日昼間に来られるなんて珍しい。
「今日はちょっと難しい支那語の文書を持ってきた。翻訳を頼みたい」
はあ。機密ですか。え、なんか分厚いですね。百枚近くありませんか。
一気には無理ですよ。お預かりしていいですか。一週間ほど。
「今ここで読んでくれ。できるところまででいい」
なんでしょう一体。ん?
扉の向こうに、気配を感じます。
誰かいますね。でも、入ってこさせない。
ヒンヤリと、イヤな気分です。
私が逃げることを想定して、そのときは容赦なく捕まえるぞ、的な?
なんでしょう。こないだ共産主義を勉強してみたいって言ったせいかな。
まだ実行にも何も移してないんですけど。たったそれだけの発言で逮捕ですか?ブラックな時代だなあ。
ともあれ、文書の一ページ目から。
───満蒙は奉天・吉林・黒竜江および内外蒙古を指す。広さは74000里・人口2800万人。日本の3倍の広さと、1/3の人口を有す。農・鉱・森林資源に恵まれ、人々はこの土地を羨望のまなざしで見ている───
満洲蒙古の紹介ですね。よかった、変な文書じゃなさそう。
「続けてくれ」
───我が国は日露戦争で得たこの地に南満洲鉄道株式会社を設立し、日支共栄共存の美名を謳い、4億4千万円の投資を注ぎこんできた。満蒙の富源を開拓し、帝国永久の繁栄を築く足がかりをここに打ち立てたのである───
なんか引っかかる言い回しが出てきてますけど、続けます。
───ワシントン会議における九ヶ国条約は我々の繁栄に制限をかけ、その自由を奪おうとするものである。英米の富力をもって純然たる貿易上の都合から結論された内容であり、東洋人の発展と安全を封じる悪魔の条約といわねばならない。支那の富源を英米の吸収下におき、日本を無力化し将来打倒するための策略であることは明白である───
閣下、コレは一体なんなのです?
怪文書ではありますけど、それにしても穏やかではありませんね。
「承知しておる。続けてくれ」
すでに内容は御存知でありますか。今ここで行われていることは、私を試しておられる以外の何ものでもないわけですね?
何だろう。私はこの文書、まったく身に覚えがありませんよ?
しかし内容がどこへ向かうのかわからない以上、ヘタな小細工はしない方がいいですね。機械的に、翻訳します。
───大正先帝はその打開策を臣義一に命じ、臣義一は欧米を巡遊し主要政治家との意見交換をして回った。上海では支那人に爆弾で暗殺されそうになり、臣義一は一命はとりとめたが、米国の一婦人が負傷した───
もしかして、小説?
だったらどれだけホッとするやら。
あと、この臣・義一って、田中義一かな?
こんなエピソードは、知りませんけど。
───旅を終え、日本を畏れ封じこめることに最も熱意を傾けているのは米国であるという結論に達する。米国は日本にとって最後に戦うべき敵となるであろう───
対米戦を想定?
もしかして、これを書いたの、転生者?
ゾワッとしますね。もしかしてもしかすると、私以外の転生者が現れ、閣下に私のことをバラした?
コイツ未来ヲ知ッテルクセニ閣下ノ下デ9年間スパイ続ケテタンデスヨ、ナニヲ企ンデイルデショウ。
なぁんて言いやがったか?……これは、マジで、やばいかな。
いかんいかん、余計なこと考えるな。今は。
───世界を征服せんと欲せばまず支那を征すべし。支那を征服せんと欲せばまず満蒙を征すべし。我が国が支那を完全に征服すれば、印度・南洋諸島・小アジア・中東の未開人たちは必ずや我々を敬畏し、我が国と共に東洋の旗を掲げて立ち上がるであろう。これ即ち、明治大帝の遺策にして、日本帝国の進むべき道なり。我等大和民族がアジア大陸に歩武せんとする第一の関門こそが、満蒙の利権の把握なり───
フウウ。疲労が烈しい。
閣下、ちょっと休憩いただいてもよろしいですか?
集中力に限界を感じてます。
「第一章はあと少しで終わりだ。そこまで読んでくれ」
うげえ。
───支那民族は日々、覚醒しつつある。内乱まさに盛んなる今においても、日本製品を模造して、自用に供し、大和の知恵を簒奪して我が国の貿易を妨げることを成しつつある。今や一刻の猶予もならぬ。ここに満蒙征服の速やかな認可をいただきたい───
「ご苦労だった。もういい。楽にせよ」
はああああああああ。深呼吸。
きわめて心臓に悪かったです。種明かししてもらうことは叶いますか?
「もしこれを書いたのが貴様だったら、即刻、憲兵隊に引き渡すつもりだった。さあ考えてくれ。これを書いた奴は、いったい何者だと思うか?」
転生者かも。なんて言えるわけもないし。
おそらく関東軍か、内地の田中義一シンパが、満蒙占領大作戦の許可を願いますって進言してる文書なワケですよねコレ。
だとするとオリジナルは日本語だと思いますが。
ソレが翻訳されて支那語で公表された、という風に思えますが、いかがでしょう?
「仮にそうだとして、この文書が作成されたのはいつ頃だと推察するか?」
いつ……?
ワシントン条約っていつだっけ。大正天皇が出てきてたから3年以上前か。いや、それは過去話だから、満蒙占領させてくださいという申請なら最近じゃないですか。あれ?そもそも何で田中義一が出てきたんだっけ。
閣下がこの文書、最後まで目を通しておられるのであれば。
ひとつだけ教えてください。
このあと、閣下、登場します?
「クックッククククク……」
なんか、ウケましたか?
「やはりお前は、シロのようだな。安心したぞ。ホンモノを置いておく。読んで、分析してくれ。また明日来る」
時事月報。南京の出版社だ。
田中上奏文……?
はあ。残りは宿題でいいんですね?
よかった。あとはじっくり読ませていただきます。報告書を作っておきます。
閣下は、帰られました。ケンペーさんも一緒に。
でもしばらくは監視つけられてると思います。ふだんよりきびしく。
こんなことお前ならやりかねない、とか思われちゃってんのかなあ。
勘弁してほしいなあ。
ひとまず、概略だけ。
田中義一首相が、2年前、天皇陛下へ上奏した文書、という内容でした。
これを南京の新聞社が手に入れて、スッパ抜いたものだ、という解説がついてました。
真贋のほどは判別つきませんが。
まさに閣下の夢を、まんま形にしたようなストーリー。
そりゃ私が疑われるのも無理ないけど、勘弁してほしいなあ。