―― 1ヶ月経過。
まだ、硫化水素の霧は晴れていない。せめて雲海が晴れたら地上の様子を観察できるんだけど、雨期ってヤツなのか晴れる気配が全くない。暑くも寒くも無い環境はとてもありがたいが……全く変化のない風景を見続けるのは気が滅入る。
実は雲海の下は終末世界的に荒廃していて、この世界に人間はオレ一人って事はないよな?
…………こんな妄想をしてしまうってことは、長期間他人と話せない状況は不健全なのだろう。
左手の妖怪時計は最低限で一方的なメッセージしか表示しないし、白カラス先輩とは良好な関係(主従)を構築しているけど当然ながら言葉を発する事はできない。正直、他人との会話に飢えていた。
まぁ、毎日やると決めたことがあるので、それで寂しさを紛らわせているのだが。
因みに今は午前中の訓練を終えて休憩中だ。
ただ体を休めているだけでは暇なので、ここ一ヶ月のキャンプ生活を振り返ってみようと思う。
オレが戦闘訓練をすることになった原因である妖怪時計のモンスター召喚。これは毎日決まった時間に行われる。コイツのエネルギー補給のタイミングと連動しているらしく、夜に4つの月が輝いたときに例外なくワームホールを作り出し、モンスターを喚び出す。
連中の外見は変わらないけど、強さはその時によって変わる。今のところ1mを越える個体が出てきたことはないが、強さは大きさに比するから今以上にデカくならない事を祈っている。ただ、強いヤツほど『R』のダンボールを出しやすいんだよな……ジレンマだ。
そういえば、ガチャダンボールを作り出す宝石だけど、モンスターの体内に埋まっていることがわかった。毎回白カラス先輩が食事した後に持って来てくれるので、SAN値がゴリゴリと削られていくのを自覚しながら食事シーンを見続けたら、心臓から宝石を取り出すのが見えた。
初回の交換時に討伐報酬とか表示出ていたし、ちょっと考えれば分る話ではあった。オレの代わりに解体をしてくれている白カラス先輩には本当に頭が上がらない。
そして宝石との交換で出てくるガチャダンボールだけど、10セットの物品が出てくるのは何かの節目の時だけで通常は3セットらしい。ほとんどの中身が『N』で食料品や生活雑貨だけど、希に『R』の小箱が出る時もある。ありがたいことに犯罪に繋がりそうなヤバイ物品が出てきたのは初回だけで、以降は丈夫そうな服とかゴーグル、指ぬきグローブとかの装備品が出てきた。
どうやら『N』は安価で生活雑貨、『R』は比較的高価で装備品、そんな住み分けが出来ているようだ。なお、『N』箱の中からはガソリンも出てきて、硫化水素の霧が晴れたらいつでも下山できる状態にある。
ガチャで出てしまったゴミは……往復して運ぶしかないだろうな。
これらの物品を安定的に手に入れる為にはモンスターを確実に倒せる手段が必要だ。
けど、何とかは一日にしてならずという言葉があるように、即座に強くなる方法なんてない。だから、戦闘訓練には睡眠、食事、排泄、休憩以外の全時間を充てている。
この先モンスターが今と同じ強さである保証はない。時間が掛かっても確実にこの肉体を戦闘に向けて強化していかないと、いずれ殺される。
妖怪時計と縁を切るのが一番の解決方法なんだろうが、まるで一体化したかのようで左手から外れた事が無い。
……さて、そろそろ休憩は終わりだ。
午後は、硫化水素の具合を確かめた後にシャベルを使う訓練だな。こういう事は目標に向かって頭を使って効率的、計画的にやった方が長続きする。一昨日になってようやく岩を穿てたので、次の目標は切断だ。突きで要領は掴んだので斬ることの筋道はついている。そう時間は掛からないだろう。
立ち上がり、背筋を伸ばす。
山頂のヘリに向かって歩きながら柔軟体操をすると、午前中の訓練で強ばった体がほぐれていく。
今日こそは硫化水素が薄くなっていいんだけどなと思いつつ、何度も裏切られているので大した期待はしていない。せめて雲海が晴れていたらなー。
首と肩と腰を回しつつ、岩場の間から下を見下ろせば、ホラいつもの雲海が……硫化水素の霧が………………ない!?
今まで見たことも無いような光景が広がっていた。
中腹に広がる黄色の岩々、山裾に広がる深緑の森、ずっと遠くに見える青色は……海だろうか?
こ、こうしちゃいられない、1ヶ月待ってようやく来たチャンスだ。これを逃したら次はいつになるかっ!
オレは踵を返すと軽トラに向かって走った。
震える手を押さえて給油口を開け、容器から直接ガソリンを補給する。ガソリンタンクは燃料を入れて放置すると劣化が激しいと知識にあったから、ガソリンをまだ入れていなかったのだ。
補給している間、硫化水素の霧が道を閉ざさないことをずっと祈り続けた。
よし、コレで満タンだな! 忘れ物は……いいや、また来るし、大したものは無い筈でとにかく今は下山が最優先だ。
じゃあなカラス先輩、世話になった!
そう言って池の畔に居た白カラス達に手を振り、軽トラに乗り込むと久々にエンジンスイッチを押す。もしかしたらと思ったけど、長時間放置したバッテリーに問題は無いようで順当にエンジンは掛かった。アクセルペダルを踏むと回転数も順当に上がる。
よし、いける。長かったけど、ようやく……ようやく、記憶を取り戻す旅に出掛けられる!
逸る気持ちを抑えてギアを繋ぎ、徐行から段々と走る速度を上げていく。
車を運転した記憶は残っていないが、体がどういう風に運転したらいいかを覚えている。
晴れやかな気分で更にアクセルペダルを踏む。あまり速度を出すと斜面でブレーキが効かなくなるだろうけど岩場を越えるまでは大丈夫だろう。今はこの開放感に浸りたいんだ!
この時のオレは声を出して笑うくらい浮かれていた。だからちょっとした違和感に気付かず、大きな罪を犯してしまう。
具体的に言うと、岩場の影からにゅっと出てきた人影に対するブレーキが間に合わず……かる~く撥ねてしまったのだ!!
車体越しに伝わったヒトを撥ねるという衝撃に、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。頭の中が白くなるってのは比喩でも何でも無いんだな……・って、悠長な事を言っている場合か!
「大丈夫ですかっ! 怪我は、痛いところはありませんかッ!?」
叫びながら車外に飛び出し、轢く前に視界に写った人影に走り寄る。交通事故は初動対応が重要だ。正しく対応すれば命を救えるかもしれない。
轢いた人影は地面に倒れ伏している。顔は見えないが、体の細さからどうやら女性のようで、改造したセーラー服、いや、巫女服か? なんだかえらく扇情的な衣装を纏っていた。
だが今はそんなことに構っていられない、生命維持が第一優先だ。
オレは交通事故を起こしてしまった時の対処を実行する。
「すいませーん、誰かいませんかー! 人を轢いてしまいましたっ、助けてくださーい!!」
――残念ながら近くに誰もいないようだ。
どうやらこの娘一人で山に登ってきたらしい。じゃあ次は轢いたヒトの状態確認だ、うつ伏せなので仰向けにひっくり返す。
うわ、えらい美人だ、それに正面から見ると不自然なまでに露出が高い。ついでにこのネコ耳とか尻尾とか、狙い過ぎだろう。
意識が無いのはある意味幸運だ。起きていたらまともに会話できる自信が無い。
自分の顔に血が集まっていくのを自覚しつつも、自身の耳を彼女の口に近づけて呼吸を確認する。
……よかった、息がある。
念のために頸動脈に手を当てると此方も確かに鼓動を感じるし、外傷は……見たところ特にないようだ。一安心と思っていいのか? ――いやまだだ、意識が戻るまで安心できない。こんな岩場だとゆっくり休めないだろうし、拠点に戻ってダンボールで寝床を作ってみるか。
しかし……いや、自分がしでかしたことにはちゃんと責任を取らないとな。
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気を失った女性を背負い、拠点に戻ったオレは池の畔にいた白カラス先輩に手を上げて挨拶をする。
そして、比較的綺麗なダンボールを選んで敷き、女性を寝かせた。そのままだと服の隙間から色々と見えて目の毒なので、ガチャから出てきた未使用のタオルケットを被せる。
日除けも必要だろう。軽トラックを近くに止め、キャビンの屋根にダンボールを置いてガムテープで固定すれば出来上がりだ。小さいけど陽光から顔を守るには十分だろう。
後は……起きたときに備えて飲み物を用意しておこう。夜になる前に目が覚めてくれたらいいんだけどな……・
幸いなことに女性は30分ほどで目を覚ました。
身を起こし、不安そうに周囲を見回す彼女に対し、オレは水の入ったコップを差し出す。
「まずはコレを飲むといい、山を登ってきて咽が渇いているだろう?」
目が覚めたら近くに変な男がいた事に驚いたのだろう。
巫女服の女性は大層驚いて声なき悲鳴を上げたが、オレに敵意が無いことを察したのか、差し出したコップを受け取った。そして数瞬の躊躇いの後、一口水を含み、それが綺麗な水と知ると一息に飲み込んだ。
よほど咽が渇いていたのだろう、物欲しそうな表情を向けてくる彼女に苦笑を返すと、ペットボトルごと飲料水を渡す。
なんだか初めて見るような目でペットボトルを見やっていたが、手慣れた様子でキャップを取ると中身をコップに移す。
はて? 珍しい形というワケでも無いのに、なんでそんな疑問を浮かべたのか。
コップに中身を移すのが面倒臭くなったのか、ペットボトルに直接口をつけて水を飲み始めた彼女を変に思いつつも、落ち着くのを待つ。
どうしてもこれだけはやっておかなければ。
彼女が水を全て飲んで落ち着いたのを待って、オレは土下座を敢行した。
「すみませんでしたー!!」
大事に至らなかったとはいえ、オレが彼女を轢いてしまった事は確かだ。
まずは誠心誠意謝る。そして、怪我をしていたら病院に連れて行く。加害者としてやるべき事をやらないと罪悪感で死にたくなる。
「※%#、$+!>%&<」
なんだか聞き慣れない音に気付くのが遅れたが、コレは目の前の女性の声か? 聞いたことも無い言葉だ。少なくともオレの知識にはない。
しかし……これでは意思疎通が出来ないな。
土下座を止めて困り顔になったオレに、彼女も言葉が通じないことを察したのだろう。
手振りで何かを伝えようとしてくれているのだが、全くもって分らない。せめて同じ文化圏ならある程度のお約束的なジェスチャーがあるんだが、付け耳とか尻尾までを使ったジェスチャーなんて分るわけが無い。少なくともオレが住んでいただろう日本でこんな習慣を見たことはなかった。あと、動く毎に白い肌が見えそうになるので、まともに正面を向いていられない。
そんな消極的なオレに業を煮やしたのか、ついには彼女も諦めたようだ。大きなため息と共に頭を横に振る。
頭を振りたいのはオレの方だけどな。
せっかくオレ以外のヒトが見つかったと思ったら言葉は通じないし、恐らくは文化が全く異なる。こんなのでは助けを求めることは出来ないし、記憶を取り戻す手がかりを得られる可能性は低い。
オレは一体どこから来たのか、誰なのか……随分と、困ったことになっちまった。