目の前に浮かぶ黒い穴について、便宜上ワームホールと呼んでいるんだけど実態は何なのか全く分らない。
光を全く反射しない暗黒孔から、どう考えても地球上には存在しない生物が出て来るのでそう言っているだけだ。
SFジャンルの読み物では頻繁に登場するけど、空間跳躍技術なんてオレの生きていた現代日本では絶対に無かったと言い切れるし、今後も驚異の新物質とかでも発見されない限り実現は不可能だ。
「空間」自体の観測というか、予想はある。かの有名なアインシュタイン博士の相対性理論だ。
強大な重力が支配する空間、通称「ブラックホール」の中では時間の進みが極端に遅くなるんだとか。
けどなぁ……その超重力の影響が及ぶ範囲を「空間」という概念で表すことは出来るんだけど、ソレそのものに干渉することは出来ない。重力の渦に巻き込まれたモノが、全然別の場所から排出されるって現象、「ホワイトホール」でも発見されていたら話は別なんだがな。
こんな感じで現象や概念としてはあるけれど、全く干渉できない存在をオレは『概念物理』と呼んでいる。「空間」、「時間」、「重力」がそれで、いわばこれに干渉する術が無ければSFという物語が成り立たないだろう三種の神器だ。
とにかく、空間跳躍はタイムマシンや重力制御と並んで到底実現不可能なスーパーファンタジー技術だとオレは考えていた(サイエンス“フィクション”にはしたくない)。
それがどうだ。
目の前にある黒孔からは得体の知れないクリーチャーがどこからともなく湧いてくる。
どう見たって空間跳躍技術で、それを成したのはオレの左手首に巻き付いている腕時計だ。
断言しよう。
この腕時計の存在を知った全ての研究者はオレを殺してでも奪い取ろうとする。
だからオレは何としてでも記憶を取り戻し、この妖怪時計と手を切る術を知らなければならない。
---
「………………今回は昨日と違って中々出て来んな。召還とやらは時間に幅があるのか?」
「いや、いつもはすぐに出てきていたんだけど、今回は少し変だ」
「それは例外が起きているということか。お主だけで解決できなんだら加勢させて貰うぞ。教団へ害をなすもの全てを排するのが儂の務めなのでな」
マットブラックの孔が現れてはや1分というところだろうか。
大宮司が怪訝そうに話し、オレは緊張しつつもすぐに対応できるように身構える。そして『飼』の宮司が抜き身の剣を手にして横に並んだ。
御老人にはお前を殺すと言われているようで、背中に冷や汗が流れる。
しかし組織の保安を預かる者としてそれは当然だろう。オレだって隣の部屋の人間に、実は人食い虎を飼っていましたなんて言われたらソイツをぶん殴る。
実際にこれから出てくるモンスターは猛獣並に危険で、ヒトへの殺意は野生動物より随分と強い。
今回はオレ一人で対応するつもりだったんだけど、イレギュラーが起こっているようなので、手伝ってくれるのなら素直に有り難いと思える。
しかし――更に1分、2分と経つも、目の前の孔からは一向にモンスターが這い出てこない。
今日は召喚に失敗したのかもしれないという考えも頭にちらつくんだけど、目の前の暗黒孔が消える兆候も無い。
どうしたらいいんだと思い、左手の妖怪時計に目をやると……あれ、なんか赤く点滅している?
慌てて左手を上げて胸の辺りに持ってくると、ホログラフウィンドが立ち上がり、そこには『モンスター召喚タスク中に外部干渉が発生しました』との表示がある。
なんだ、何が起こっているんだ?
空間跳躍技術は先に述べたように現代日本に生きるオレには全く理解できない超技術だ。
その技術に干渉する? あり得ないだろう!
――いや、この妖怪時計が他にもあれば別か? 大宮司はさっきこれを「オメガデバイス」とか口走っていたし、類似品があるのだろう。けれど普通のオメガデバイスにモンスターを呼び出す力なんて無いとかも言っていたような……ええい、くそっ、解らないだらけだ!
「ぬ、何か出てくるぞ。用心せい」
ともすれば混乱しそうになる思考を御老人の注意で無理矢理戻す。
今は目の前のモンスターに集中しないとな、色々と考えることは生き残った後でも遅くない。
はたして昨日と同じように、怪物がゆっくりと孔の中から這い出てきた。
中型犬くらいの大きさで、野生動物ならではの引き締まった体躯と、特徴である二股の頭。ヒトを心底憎悪しているとしか思えない濁った瞳。
そして――うん? これはどういうことだ。
「お、オルトロス・チャイルドだっ、本当に現れたぞ!」
「なんなんだよ、あの孔は! 羊%#子$氏族の新兵器か、冗談じゃ無いぞ」
「落ち着けよ! 大宮司様達がいるんだ、すぐに倒してくれる」
「けどよ……あれ、なんで血まみれなんだ。手負い、なのか?」
訓練場で遠巻きにオレ達の様子を覗っていた衛士達が、出現したオルトロス・チャイルドに驚き、次々と声を上げる。
驚いたのはオレも同じだ。
何故か出てきた双頭の怪物は全身に傷を負って血を流しており、歩みはもたついて今にも倒れそうだった。
事情は分らないけど、既に虫の息というなら好都合だ。危険は低ければ低いほどいい。
歩みを止めて此方を覗うオルトロス・チャイルドに、手にしたアメリカン・クラッカーを投げようと振りかぶった――そのタイミングで異変に気付いた。
今出てきた孔に引っ張られている?
よく見れば、未だ孔の近くにある蛇の尻尾はピンと伸ばされていて、その先端を……ヒトの手が掴んでいるだと!?
「なんだあの手は!」
「血で濡れておるが、あれは女人の手ですな」
大宮司と御老人もオルトロス・チャイルドの尻尾を掴むヒトの手に気付いたようで、どうやらあれはオレの幻覚ではないらしい。
血に塗れたホラー的なその手には凄まじい力が込められているようで、少しずつオルトロス・チャイルドの体が孔の中に引き戻されている。
石を握り潰すオレの全力を出しても互角だったのに、あの手にはどれだけの力が込められているんだ!?
地に伏せてもズリズリと引っ張られていく怪物は、肉にされる食用動物の如く悲痛な叫びを上げた。昨日はどれだけ傷を負わせても獰猛に襲いかかってきた双頭の怪物がだ。
しかし、この場にはあの手を止めようとする者は誰もいない。
ともすれば同じようにあの暗い孔の中に引き込まれそうで、誰もが息をするのさえ怖がるように完全に動きを止めていた。
やがて完全にオルトロス・チャイルドの体は孔の中に消え、長く続いた悲痛な叫びは、骨を砕くような鈍い音と、魂消るような大絶叫と共に途絶えた。
「…………ハクウ達が」
誰もが恐怖で動けない。
そんな中、空から飛んできた白鴉パイセンの群れが孔に殺到し、中に入っていく。そしてやはり聞こえてくる屍肉を啄む音に、衛士達の中には吐瀉する者もいた。
やがて、あちら側での食事が終わったのか、一匹、一匹と血に濡れた白カラス先輩が孔から出てきて飛び去っていく。
最後には代表の一番大きな個体が、いつもと同じくモンスターの核とおぼしき宝石をオレの目の前に置いて飛び去って行った。
「ようやく……孔が消えたか。このままではお主を大宮司様のお側に置くことは出来ん。詮議を受けてもらうぞ」
「……オレは、何もしていないんだけどなぁ」
詮議とは罪人を取り調べる時に使われる言葉だ。酷い話だけど、目の前で起こった事からするにオレの呟きの方が場違いか。
怪物でも観るような目を向けてくる衛士達に、オレは項垂れるしか無かった。