「まだだっ、勝負はこれからだ!」
そんな声と同時に顔の中心に衝撃を受けた。
鼻の奥から流れ出す鉄錆味の液体に、顔面を殴られたのだと理解する。
痛みよりは驚きが勝り、呆然と立ちすくんだ。
終わりの合図があったというのに、コイツは何で……
そんな疑問が浮かぶと同時に今度は鳩尾に強く鋭い衝撃を受ける。
鉄製ブーツによる足蹴りの威力は凄まじく、横隔膜が痙攣、肺から空気が追い出されて呼吸が止まる。胃の中にモノがあったら吐瀉していただろう。
続く頭への打撃、そして、打撃。
拳の連撃は脳を揺らし、意識を朦朧とさせられた。
更には背後に回られ、両腕でガッチリと体をホールドされる。
持ち上げられて、景色が天上になり…………って、ジャーマンスープレックスはヤバイ、間に合えーーー!!
体を拘束している両腕を引きはがし、両足を振って勢いを付け、なんとか頭からの落下を凌いだ。
代償として胸を地面で強打し、のたうち回る。
なんとも無様ではあるが、頭から落ちていたら脳漿をまき散らしていただろうから贅沢は言えない。
「この、動くなッ、大人しく私に殺されろ!」
い・や・だ・ね!
痛みで目を閉じているから分らないが、頭の近くで何かを打ち付ける音がする。
恐らくは全体重を掛けたスタンピングで、動き回っていないと止めを刺されるだろう。
つーか、幹部連中は何をやっているんだ。なんでこの暴走特急カマキリ女を止めないんだ!?
「近衛隊長、何をやっている!? 勝負は終わったんだぞ」
「っ、愚か者が!」
そんな思いが通じたのか、ようやく周りが動き出す気配がする。
しかし、甲冑ウーマンの殺人スタンピングは継続しており、彼らが到達する前にオレを殺すだろう。
かなりキツいが、自分でなんとかするしかないか。
頭を掠めたブーツ、それを掴み全力で引き寄せる。
突然足首を引っ張られ、たたらを踏む甲冑ウーマン。その隙に酩酊する頭を無視してオレは立ち上がった。
無論、彼女の足は掴んだままで、肩の高さまで持ち上げると甲冑ウーマンはバランスを崩して倒れた。
形成逆転だな。
「貴様ッ、離せ、この、只人のくせに近衛隊長たる私をっ」
「し、った、事か! プロレスがやりたいってんなら相手してやるぜ。さんざ好き勝手したんだから今度はオレの番だろうが!」
オレを蹴飛ばそうと出してきたもう片方の足を掴むと、両脇に抱えてぐるぐると回転する。
全身鎧を着ているから中々に重たいが、こんだけスピードが乗れば結構飛ぶかもなぁ! がーはっはっは!!
……ってか、頭殴られて脳味噌グラグラしてんのにジャイアントスイングはきつい。とっとと投げちゃおう、てい。
「きゃああああぁぁぁぁ…………ぐべぇっ!」
うーむ、5メートルは飛んだか。
なんか、女性が出してはいけない声を聞いた気がしたけど、自業自得ということで。
「大丈夫か、レンジ! いや答えずともよい、直ぐに医務室へ運ぶゆえ横になれ」
「ああ、わるけど後は任せた。頼むからあんまりアイツを責めないでくれよ? 真剣勝負で気を抜いたオレが悪いんだから…………」
「馬鹿者っ、そんな事より自分の心配を、レンジ! ……気を失ったか。おい、貴様ら突っ立っておらずに手伝え! 『医』の字、此奴の治療、頼むぞ」
揺れる視界にエコーされたような声が混じって凄く気持ち悪い。こんな時は寝るに限る、お休みなさい。
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起きたのは昼を大分過ぎた時間だった。
ベッド近くの窓から差し込む光に少し陰りがあるし、腹の減り具合がそれを教えている。
真っ白な天井しか写さない視界を横にすると、机に向かって書類仕事をしている少年が写る。
幹部8人の内の1人で、何かとオレを兄にしたいと発言していた少年だ。
こうして静かに仕事(?)をしているだけなら、ショタコンのお姉様方を魅了するだろうネコ耳付きの美少年なのだが、性根がカオス過ぎてお近づきになりたくない筆頭だ。
そんな複雑な目で彼を見ていると、気付いたようで笑顔をオレに向ける。
「よかった! 気付いたんですね、兄さん。気分はどうですか? 違和感を覚える箇所はありませんか? 目立つ場所は治療したのですが、打撃は体の中に残りますからね。遠慮無く言ってください」
「ああ、ありがとう。君は……」
「僕は教団の医療を司る、『医』の宮司です。幹部の中では一番若いですが、医療に関しては教団随一を自負しています。兄さんの治療は完璧に行いますので安心してください」
どうやら怪訝そうな表情をしていたらしく、気を回させてしまったようだ。目の前の少年は10歳を少し越えたくらいにしか見えないとはいえ、少し反省する。
事実、出ていた鼻血は鼻の奥まで綺麗に拭き取られているようだし、張られた湿布は打たれた箇所を的確に捉えている。また、巻かれている包帯は緩くもなく、キツくもなく適切だ。
「……痛みが酷いところは特にないし、気分も悪くない。『医』の宮司といったか、君は腕がいいんだな」
「兄さんの為に張り切りました! ……えへへ」
そう言ってはにかむ少年の様子を見ていると、「兄」とは何なのかと聞くのが野暮に思えてくる。それより今はアイツの事を聞かないと。
「甲冑ウーマン……じゃなくて、近衛隊長はどうなった? それなりにぶっ飛ばしたから怪我をしてなければいいんだけど……」
「むぅ、あんなに酷い目に遭わせた相手を気にするなんて兄さんは優しい人ですね。安心してください、命に別状はありません。未だ目を覚ましませんが、それは兄さんに投げられた所為では無く、昨日徹夜したからでしょう。そのカーテンの向こうで寝ていますよ」
言われてカーテンをめくると、そこには幸せそうな顔で寝ている近衛隊長があった。確かに怪我は何処にも無く、呼吸も安定しているようで安心する。
それしても徹夜って……オレをずっと監視していた為か? それで妙に情緒不安定でハイテンションになっていたとか……あり得るな。
「兄さんはあまり責めないように大宮司様に言っていたようですが、信賞必罰を明らかにしなければ組織は立ちゆきません。特に幹部命令の無視は駄目ですね、かなり大目にみても3ヶ月の減俸、そして1ヶ月のトイレ掃除という罰が下されるでしょう。あと被害者の兄さんには彼女を好きに出来る権利をあげちゃいます。孕ませてもいいですよ?」
「いやいやいや、何を言っているんだ君は! 冗談にしたって口にして良い事と悪い事があるぞ」
不思議そうな表情で僕は本気なんですが、と呟く少年を苦々しく思う。
いくら文化が違うとは言え、変な方向に染まりすぎだ。この教団、若しくは国の倫理教育はどうなっているのか。
ため息を吐いていると腹の虫が大きく鳴った。
そういえば昨日から何も食べていない。久しぶりにまともな料理を食べたいという欲求はあるが、幹部殿に食い物をねだるのも何だし、ポケットに入っているカロリーゼリーで緊急避難といこう。
破れること無くポケットに収まっていたカロリーゼリーを取り出すとキャップを外し、口に咥える。
うーん、マスカット味のエネルギーが体に染み渡る。心なしか甲冑ウーマンから受けた傷の痛みも消えていくようでありがたい。
「あー、何勝手に変なモノを食べちゃってるんですかっ、兄さんは病人なんですから、医者である僕の指示に従ってちゃんとしたものを食べて貰わないと!」
「ゴメンゴメン、腹が減りすぎて我慢が出来なくてさ」
「それは没収です! 全くもう……あれ、兄さん、顔の傷が……え、これは……な、何が、こんなこと……」
少年はカロリーゼリーを咥えるオレの顔を見てキョトンとした表情になり、次いで凄い勢いでオレの体を触診し始めた。
邪魔すると怒られそうだから静かにしているが、小さい手でぺたぺたと全身をまさぐられるのはあまりよい気分では無い。これが女の子だったらなーと思ってしまうのは、オレが汚れた大人だからだろうか? ……記憶喪失で年齢不詳だけど。
やがて一通りの触診を終えたのか、少年はオレから離れると頭を抱えて唸りだした。
心配になって声を掛けようとすると、それより先に顔を上げて鋭い視線でオレを射貫く。
「……兄さん、貴方は何を食べたのですか?」
「何って……単なるカロリーゼリーだよ。まぁ、ガチャで出てきて、ラベルも何も張っていないからソレっぽい何かかも知れないけど、腹が膨れるからそうなんだと……」
医の宮司は無言で手鏡をオレに突きだした。顔を見て見ろということなのだろう。
そこには山頂の池で顔を洗う度に見てきた何の変哲も無い自分の顔がある。そう、いつもと変わりない傷一つ無い自分の顔が。
「先ほどまで、兄さんの鼻は赤く腫れていました。絆創膏を貼るまでもない小さな傷もあった。それが今……綺麗に消えている。顔だけじゃない、全身にあった筈の傷が全て癒えているんです。兄さん、それは、いったい何なのですか?」
今もオレの手の中にある小さな銀色のパック。
この一ヶ月間、オレの命を繋いだ見慣れたはずのモノ。それが、急に妖怪時計と同じく異様なモノに見えた。