「いつものじゃない? ……なんだこの化け物は」
マットブラックの穴から出てきたモンスターはいつものグレ○リンタイプではなかった。
強靱な筋肉で覆われている太い胴体。
速く走り、獲物を追い詰めるに十分な役割を果たすであろう四肢。
二股に分かれた頭部、そして、敵を噛み砕くために大きく伸びた牙。
長くしなやかな尻尾は一匹の大蛇に見える。
体長はオレと同じくらいで、大型犬サイズといったところだろうか? ただし、外見の凶暴さはどんな大型犬も勝るだろう。
まるでキメラ、いやこの姿、ギリシャ神話の――
「馬鹿なっ、オルトロス・チャイルドだと!? 逃げよっ、それはヒトの手には余る代物だ!!」
「っ!」
背中の方向から聞こえた声に、振り返って罵声を返したくなる。
どう見たって戦闘力はグレ○リンどころじゃない。そして、こんな猛獣に追われたら人の足では逃げられない。であれば、車の中に閉じこもってやり過ごすのが賢い選択だろう。
一人であればシャベルを投げつけるなどして僅かな隙を作り、車の中に滑り込めばよかった。しかし、二人同時は無理だ。目の前の魔獣はそれを許す存在ではないと、纏う威圧感が告げている。
現に今、何の前触れも無く魔獣が飛んだ。
助走も無く、手で頭を掻くのと同じ何気ない一瞬で――目の前に大きく広げた口があった。
咄嗟にシャベルを突き込めたのは日頃の修練の賜物だろう。この時ほど自分の用心深さと勤勉さに感謝したことは無い。シャベルから伝わる重さはグレ○リンを刺し穿つ時とは段違いで、シャベルが手から離れた時が終わりだと否応なく分らされる。
なんとかバランスを崩すこと無く突撃を受け止めた。そしてその甲斐あってか、シャベルの剣先は魔獣の口蓋を深く抉り、緑色の体液をまき散らした。
か弱い獲物と踏んでいたのか反撃は予想外だったようで、オルトロス・チャイルドと呼ばれた魔獣は悲鳴を上げて飛び退った。その片方の口からはだくだくと体液を流しつつも闘争心は衰えておらず、計四つの眼は激しい憎悪を湛えている。
野生動物であれば、こんな深い傷を負った時点で撤退するに違いない。それなのにこのオレに向ける殺意の強さはどうだ。やはりこの魔獣もグレ○リンと同じくオレを害するための存在なのだろう。
「馬鹿者ッ! 逃げろと言っておるのに……えぇいっ、少しの間持ち堪えよ!!」
『馬鹿はお前だ、このコスプレ女!!』
そんな罵声が喉元までせり上がって来たが、なんとか飲み下す。集中力が少しでも分散したら死ぬという予感がある――いや、これはもう実感だ。
今度は慎重に一歩一歩近付いて来ているが、その重量感、威圧感が凄まじい。
柵のないところでライオンや虎と対峙したらこんな恐怖を味わえるかもしれない。なんなら鎖に繋がれていないドーベルマンでもいい。ヒトと同じかそれ以上の質量をもった四足獣は側に在るだけで脅威なんだと思い知った。
そんな威圧感に押され、再び飛び掛ってきた魔獣に対し、オレは馬鹿みたいにシャベルを突き出すしかできなかった。
が、魔獣はそんな獲物の動きを読んでいたようだ。
体を全体的に沈め、ぐるりと体を一回転させると、鞭のようにしなった尻尾でオレの体を打った。
まるで綱引きに使うような大綱で体を打たれたような感覚に体勢を崩される。
そして、左腕にある鈍い痛み……尻尾の蛇に噛みつかれている!? 飾りでも、擬態でもなくて本物の蛇だと……!!
幸い着ている作業服は防刃製らしく、蛇の牙は皮膚に届いていない。ただ、服の上から掛かる圧は万力のようだ。この作業服を着ておらず、また、修練をしてなければ腕を食いちぎられていただろう。
しかし、そんなことよりもオレはこのオルトロス・チャイルドという生物に驚愕していた。
2つ頭は突然変異として存在するから理解の範疇だ。しかし、寄生でもなく、共生でもない、生態の異なる生物が一つの肉体に共存しているなんて、そんな生命は地球上に存在しない。まさか――!?
幾つもの仮説が頭を過ぎると同時に、オレは地面に倒されていた。
どうやら尻尾の蛇の力だけでも相当なモノのようで、体を浮かされたら抗いようもない。
地面に倒された衝撃に顔を歪めつつも、次に来る攻撃に備えて盾のようにシャベルを構える。
そして次なる一撃は無事な方の頭による噛みつきだった。
左手は尻尾の蛇に抑えられていて動かせない。右手のシャベルだけで魔獣の突進を受けられるかどうかは賭けだったが――
シャベルは変な方向から加えられた力に対抗できず、また、今まで溜まっていた応力の所為か、バラバラに砕けてしまった。
世界がゆっくりと動く中、魔獣の牙がオレの喉に迫る。
――まだオレは死ねない。
記憶を取り戻してもいないのに、死ねるものかよ!
砕けて舞っているシャベルの破片。その大きなモノ――枝の部分を手で掴むと閉じる魔獣の口に滑り込ませてつっかえ棒にした。
それは魔獣の咬合力によって一瞬で砕けたが、自身の喉を逃がす時間は稼げた。
ガチンと鳴らされる魔獣の顎を、ポケットに忍ばせていた紐を取り出し、ぐるりと一周させて縛る。この一瞬の固結びはオレの人生で最速のモノだったに違いない。
一瞬の空白を経て、傷ついた頭も噛みつきを仕掛けてきたが、右手で上顎を、左手で下顎を受け止める。
左手には尻尾蛇が噛みついていて不自由だったハズだけど動いている。これが火事場の馬鹿力というヤツだろうか。
頭の中で、何かが凄い勢いで分泌されているのを感じる。
アドレナリンか、エンドルフィンか……脳汁が溢れ出す瞬間を感じるなんて、オレの人生にあるとは思ってもいなかった。
「よくぞ押さえ込んだ! そのままだ、そのまま抑えていろっ、我が今、助けてやる!」
大宮司!? なんでこんな近くに――
そんな思考が頭を掠めると同時に、大きな破裂音が連続して起こる。
破裂音と同じタイミングで魔獣の体がビクン、ビクンと何度も痙攣し……やがて四つの眼から力が失せた。
オレを食い殺そうとしていた顎からもゆっくりと力が抜け、そして、左手を万力のように締め上げていた尻尾蛇の顎も外れた。
た、助かったのか? でも、なんで……
何が起こったのかわけが解らずに破裂音がした方に眼を向けると、そこには未だ白い煙を出す黒光りのブツを手にした少女の姿が在った。
「それは、お前……っ!?」
「初めてであったが、この距離であれば問題ない、クク。さて、それはそれとして、このような物騒なモノを持っておる事、そこなオルトロス・チャイルドを召喚せし手段についても教えて貰おうか」
そう言って大宮司サマは銃口からたなびいていた白煙をフッと息でかき消し、『Beretta modello 92』という文字が刻印されているモノをホルスターに収めた。