昔書いた短編です。
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畳
ある日の夜だった。レイは寝苦しくて目を覚ました。薄い毛布を剥いでベッドから立ち上がる。何も身に付けぬ体が汗で光っている。右手で小さい胸の汗をふき取ってみる。びしょ濡れだ。しばらく汗で濡れた掌を見ていたが、立ち上がるとクーラーのリモコンを箪笥の上から取る。
戸締まりをする様にと言われたのでクーラーを付けて貰った。窓からの風が来ないからだ。リモコンのボタンを押して見たが反応が無い。どうやら壊れたらしい。
レイはクーラーのリモコンを見詰めていた。このままでは健康維持に支障をきたす。しばらく考えると立ち上がる。戸に向かいドアを開ける。廊下に出る。エレベーターの方に歩きかけて自分が裸だという事に気がつく。
流石に問題があると思ったのか、部屋に戻ると軽くシャワーを浴びてから学校の制服を着る。これしか服が無い。ハンドバックなどと言う洒落た物も持っていない為、学校の鞄を持ち部屋を出た。
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宵の口、そろそろ寝ようかと葛城家の主が思った頃ドアのチャイムが鳴った。部屋で珍しく資料の整理などをしていたミサトは怒鳴る。
「アスカぁ出て」
答えが帰って来た。
「シンジ出てぇ」
多分自室でポテチでも齧っているのだろう。少しもごもごした声で答える。しばらくしてシンジの部屋の戸が開く音が聞こえた。廊下を歩く音がする。玄関が開いたようだ。
「綾波……どうしたの」
聞こえて来たシンジの声に、家主は美しい眉を顰めて立ち上がる。襖を開け廊下に出る。アスカも気に成ったのか出て来た。鉢合わせに成る。お互い気にせずに玄関に向かう。
玄関ではたたきにレイが立っていた。学校の鞄を手にぶら下げている。出て来たミサトに言う。
「クーラーが壊れました。健康管理に支障をきたす恐れがあります。泊めてください」
家主が誰だか知っているのか、単に作戦部長だからかは判らない。レイはミサトをじっと見る。
「いいわよ。ともかく上がりなさい」
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「アスカの部屋はベッドが占領しているし、シンちゃんと同室は流石に問題だし、私の部屋でいいわね」
「はい」
どこでもいいらしい。シンジが心配そうにレイを見る。ミサトの部屋とはなかなかのチャレンジャーだ。アスカは興味が無いのか部屋に戻ってしまった。ミサトの後をレイは付いて行く。ミサトは戸を開き自分の部屋に入ると電気を点ける。
「ちょっち散らかってるけど」
レイは部屋に入るのを躊躇した。別に汚れているわけではない。シンジの苦労が実っている。アスカも料理はしないが掃除と洗濯はする。お陰で作戦部長は文化的生活を保っている。
和室にタンスと三面鏡、机と椅子がある。
「これ」
「これって」
ミサトは初め何の事だか判らなかった。レイが言っているものだ。レイの視線の先には特に物があるわけではない。
「床にひいてある、植物性の繊維を編んでマット状にしたものです」
「もしかして……畳の事」
「これが畳」
レイは畳の実物を見るのが初めてだった。
畳
レイはおっかなびっくりという感じで右足から部屋に入る。猫が怪しい物を前足で突っつく様子に似ている。足を降ろす。ちょっとだけ触れて足を戻す。
「別に噛み付きはしないわよ」
ミサトは本気のレイに笑ったら悪いかな、と思いつつも顔がにやける。妙に可愛いのだ。無表情で取っつきにくいレイがとても可愛らしく見える。レイは足を降ろした。少しその姿勢で止まる。また動き出すと左足も部屋に入った。右足の裏でとんとんと畳を叩く。屈んで畳の表面を撫でる。
「畳にごろ寝は日本の最高の娯楽の一つよね」
「ごろ寝」
ミサトから声をかけられ、畳を見ていた顔を上げる。やってみる事にした。
寝転がる。ごろりと転がる。不思議な感触が背中に感じられた。固くしっかりしているが柔らかい。ひんやりと体温を奪いつつ温かい。無意識のうちにごろごろと転がる。いきなりレイがイモ虫ゴロゴロをやり始めたせいでミサトもどうしたらいいか悩んでしまう。取り敢えず支障は無いみたいだ。
「ファースト何やってんの」
開けたままの襖の向こうにアスカが立っていた。シンジは脇に退けられている。いつもの様におこりんぼの顔だ。手に赤い布を持っている。レイは仰向けに止まって上の方に見えるアスカを見た。アスカは手に持っていた赤い布を投げた。レイが受け取る。パジャマだった。
「あ~~ら、アスカ優しいわね」
「どうせファーストの事だから寝間着なんて用意していないわ。裸で歩かれてシンジが発情したら危険でしょ。ファーストの巻き添えで襲われたらたまらないわ」
怒りんぼの顔のままさっさと部屋に戻って行った。レイはお腹の上の赤いパジャマをぼけっと見ている。
「ほんと素直じゃないわね。じゃレイ寝ようか。シンちゃんもレイと一緒に寝る」
「えっ、あっ」
シンジが真っ赤に成った。レイはパジャマを持ったまま畳でまた転がっている。よほど気に入っている様だ。
「お休みなさい」
シンジは慌てて部屋に帰って行った。ミサトは何となく笑いを浮かべた。まだレイは転がっている。
「レイ、転がるのはまた明日いくらでも出来るわよ。たしかシンクロテストも無いし、学校も休みだし」
「はい。作戦部長」
ミサトは頭を掻いた。
「ここでは作戦部長じゃなくていいわ。ミサトでいいわよ」
「はい」
よほど気に入ったのか背中を畳から離さずレイが言う。ミサトは部屋の奥に畳んであった厚めの毛布を持ってくる。ふすまを閉める。レイを着替えさせる。アスカの方が太いのかゆるゆるだ。もっともそんな事を言ったら殴られそうだ。ミサトもパジャマに着替える。パジャマに着替えるとレイはまた畳に横になる。枕代わりにスポーツタオルを畳んだ物を与えると素直に頭の下にひいた。ミサトはレイの隣に同じ様にスポーツタオルの枕をひくと電灯を消してレイの隣りに寝る。毛布を上にかける。
「じゃレイお休み」
「お休みなさい」
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夜中にミサトが目を覚ますとレイがミサトの胸に頭を寄せ寝ていた。寝顔も相変わらず無表情ではあるがどことなく力が抜けていて可愛らしい。ミサトの胸の柔らかさが気持ちいいのか無意識に頭をくっつけている。
ミサトはまじまじとレイを見た。
「いいものね。子供って」
少し優しい気分に成った。
「自分の子供だったらどうなのかな」
ふと頭に加持の顔が浮かぶ。いつもなら懸命に否定する所だがそういう気が起らない。なぜかずっと考えていた。
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レイは畳の感触をよほど気に入ったらしい。翌日も帰らなかった。追い出す理由も無いので朝はミサトの部屋にちゃぶ台を出して朝食に成った。せっかくなので雰囲気に合わせて和食だ。ご飯にワカメと豆腐のみそ汁、納豆、鯵の開き、海苔、梅干し、漬け物と文句無しのメニューだ。
「いただきます」
「「「いただきます」」」
ミサトを除き皆正座をしている。ミサトはあぐらをかいている。ショートパンツなのではっきり言ってショーツが見えていたりする。その上上半身はノーブラに男物のシャツをだらしなく着ている為胸がはみ出ている。ぽっちりも時々見えたりする。トウジやケンスケなら鼻血ものだがさすがにシンジは見飽きた。ここまで見事な肢体でここまで色気が無いのも珍しいだろう。朝からえびちゅをがぶがぶ呑むこの美丈夫は現場の人間には圧倒的な支持を誇っている。そうでなければ皆あんなめちゃくちゃな作戦に従わないだろうし成功もしない。作戦立案者としては疑問視されても現場の作戦指揮官としての適正を疑うものはいない。使徒戦は軍事オタクの趣味では無い。勝たなきゃ終わりだ。勝てばいい。
皆朝のニュースなどを見ながら食事をする。ドイツっ子のアスカだが正座は得意だったりする。来日当時初めてシンジに完膚無きまでに負けたのが正座だった。お陰で猛特訓をして今では長時間座っていられる。一時はジーンズパンツで学校に来て椅子に正座をしていた。教師に聞かれるとネルフの秘密特訓だと言うことにしていたようだ。逆に駄目なのがレイだ。足が痺れている。下半身がもぞもぞと動いている。
「レイ、足を崩したら。ズボンだし」
食事が終わった頃ミサトが切り出した。ミサトは皆の朝食プラスえびちゅが一本だ。これだけいつも飲んでいても血液検査で異常値は出た事が無い。
「はい」
レイはアスカの私服を借りている。全体的に緩めだが別にアスカが太いわけではない。レイが細すぎるだけだ。レイは相当我慢していたらしく、顔をしかめつつ足を崩した。横でアスカの鼻がぴくぴく動いている。勝ったと思っているみたいだ。レイはミサトのあぐら姿をしみじみ見る。レイも真似をした。
「あっ綾波女の子はあぐらは」
シンジが真っ赤になった。ジーンズパンツなので見えるわけではないがちょっぴり刺激的だ。
「そうなの」
「うん。あの……普通に伸ばしたら」
コクリ
レイはちゃぶ台の下に足を伸ばす。シンジはほっとしたのか残念なのか溜め息を付いた。
「あ~~らシンちゃん差別よねぇ。このミサトお姉さんの時は何にも言わないで」
「あったりまえでしょ。私に比べたら落ちるにしても、ファーストなら充分美少女よ。あんたみたいな腐りかけとは違うわ」
「あら酷いわね。その腐りかけの女の彼氏にべた惚れなのは誰かしら」
「ぐっ…………」
アスカが詰まる。だがすぐに気が付いた。まじまじとミサトを見る。アスカに見られてミサトは少し引く。
「何よ」
「珍しいわね。加持さんと付きあっているの嬉しそうに言うなんて」
「えっ」
無意識だったらしい。言われて気が付いた。えびちゅを運ぶ手が止まる。
「そうね。なぜかしら」
自分でも不思議そうだ。頭を掻く。
「昨日……加持の子欲しいななんて……思ったりなんかして……その」
言っていて恥ずかしいらしい。語尾が小さくなる。
「レイの寝顔が可愛かったから……何で私がこんな事を」
唖然としてみているシンジとアスカの顔を見て正気に戻った。
「かっ加持なんて、なんとも」
冷たい、えびちゅが凍りつくような視線で見られた。
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朝食が終わると照れ隠しか珍しくミサトが後片づけをしている。その為3人は何となくやる事が無い。
レイはまた畳に転がった。
「食べてすぐ横になると猫に成るわよ」
「それ……牛だけど」
「似たような物よ」
二人の漫才も気にせずレイは転がっている。余程畳の感触が気に入ったらしい。アスカはあきれ顔で見ている。ふと何か気が付いたようだ。ポケットから輪ゴムを取り出して自分の髪の毛をまとめる。立ち上がるとミサトの机をがさがさと漁る。何か棒状の物とティッシュの箱を持って来た。
「ファーストちょっと」
アスカは足を延ばして座るとレイに声をかける。レイはきょとんと見ている。
「ちょっと頭をここに乗っけて向こう向いて」
自分の太股の辺りを叩く。
「何」
「いいから。来なさいよ」
特に害意などが感じられないのかレイは素直にアスカに従う。別に今はやる事が無い。アスカに従っても支障は無い。レイは言われた通りにアスカの伸ばした足の太股辺りに頭を乗せ寝転がった。アスカの足先を見る。
「あっ」
体に震えが来た。いきなり体中に未知の快感が走る。アスカの指が微妙に動く度に言い様も無い感覚に襲われる。思わず目を瞑り溜め息を付く。しばらくアスカにその身を任せる。
「やっぱりね。ちらっと見えたのよ。それにしてもファーストみたいなシャワー好きが、何でこう耳あか溜まってるのかな。耳あかとか鼻くそってLCLに溶けないのかな。リツコに聞いてみるか」
アスカはぶつぶつと呟きながらレイの耳掃除を続ける。シンジはやる事も無いので新聞を見ていたりする。特に二人がやっている事に興味は無い。いかに二人が美少女とは言っても、学校とネルフで始終顔を合わせていれば慣れて来る。
「あ~~ら気持ち良さそうね。はいシンちゃんコーヒー」
「あっどうも」
ミサトも気が向けば家事をやる。気が向けばだが。おぼんにコーヒーカップを四つ乗せ部屋に戻って来た。同じインスタントでも流石にコーヒーまでは不味く出来ないらしい。シンジの好みは知っているらしく、ちゃんとミルク砂糖が適量入っていた。
「アスカもここに置いておくわよ。レイあなたも飲むでしょ」
「はい」
アスカはなんでもやり出すと止まらない。悪く言えばお猿さん、よく言えば集中力が並外れて高い。今はレイの耳掃除に熱中しているらしい。アスカからは返事が無い。レイの声も掠れている。時々レイの足先がピクピク痙攣するのが面白いと言えば言える。気持ちがいいらしい。
「レイ今度はこっち向いて」
アスカが耳から耳掻きを抜くとレイは切なげな溜め息を付いた。レイは今度はアスカの腰の方を向いて寝そべる。
「アスカ……ありがとう」
「私と同じチルドレンが耳あか溜めてたら私の恥だからよ」
アスカはレイの反対の耳を掃除しはじめた。ミサトは二人の様子を側のちゃぶ台に肘を突いて見ていた。のんびりとしたひとときにミサトの顔がだらしなくたるむ。何もやりたくない。そんなひととき。しばらくその光景が続いた。
ミサトがよっこらしょと立ち上がる。机まで行くと同じく耳掻きとティッシュを持ってくる。同じく足を延ばして座った。
「シンちゃぁん、綺麗なお姉さんが耳掃除してあげるわよぉ」
ミサトがぱたぱたと手首だけ動かしシンジに言う。シンジは見ていた新聞をちゃぶ台に置くとしみじみとミサトを見た。
「何」
「確かに綺麗なお姉さんではありますね」
「あらぁ~~トゲが有るわね。アスカかレイじゃないと不服かしら」
お気楽に言うミサトにシンジは溜息をついた。
「同じ歳ぐらいの男女がいたらカップルとか言うガキみたいな事止めたら。いい歳なんだから」
アスカがレイの耳掃除の手を休めずいう。皆のんびりとしていた。
「折角ですから。お願いします」
シンジはミサトの横に移った。子供のレイやアスカと違って、色気たっぷりなミサトの太股に頭を乗せるのは恥ずかしい気もしたが思い切って乗せた。勢い余ってミサトの大事なところ辺りに顔面を突っ込みそうになって慌てた。体を捻って反対を向く。顔が真っ赤になっている。
「あ~~らシンちゃん大胆。なんなら大人の世界を手ほどきしてあげるわよ」
「ショタ」
アスカの呟きは無視してシンジをからかいながら耳掃除を始めた。大人の世界というわけではないがミサトの耳掃除は結構上手らしい。シンジも気持ちよさそうに身を任せていた。
「あれ」
しばらく誰もが黙っていた。シンジが声を上げる。頬に何かが触れた。下に流れていく感触から言って液体だ。しばらく前からミサトの手が止まっていたので居眠りして涎でも垂らしたのかと思った。耳から耳掻きははずれている為シンジは上を向いた。
「えっ」
そこには目いっぱいに涙を溜めたミサトの顔があった。
「ミサトさん」
「シンちゃん、アスカ、レイ……ごめん」
普段のふざけた様なごめんではなかった。心の底からのごめんだった。シンジはぽかんと口を開けながら唖然とした。
「昨日さぁ」
目元を拭う。涙が辺りに振りまかれる。
「レイがアスカが、シンちゃんが自分の子だったら……あんな作戦出来るかって……きっとやるって……子供を小さい頃からそう仕込んで……私……ごめん……何泣き言言ってるんだろ……ごめん、ごめんね」
ミサトは泣き続けた。シンジ達は呆然とミサトを見続けた。
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その日の夕方レイは司令室に来ていた。
「司令……ユイさんに会いたいですか」
横で将棋雑誌を片手で見つつレイとゲンドウを見ていた冬月が、雑誌を机に置いた。
「今なら会わせてあげる事が出来ると思います」
ゲンドウはいつものポーズのままレイを見ていた。
「ああ。会いたい」
相当経ってから声が出た。
「明日ミサトさんの家に来てください。方法を教えます。私は当分泊まります」
「ああ。そうしよう」
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「邪魔をする」
ゲンドウと冬月が葛城家を訪れたのは翌日の朝だった。まだ朝食前だ。迎えに出たのはミサトだ。
「レイは」
「はい。こちらへどうぞ」
ミサトがミサトの部屋に案内する。大きめのちゃぶ台に前日の朝の食卓と同じ物が用意されていた。アスカとシンジが席に着いている。アスカはいつも通りだがシンジは顔をひきつらせている。レイも席に着いているがなんとエプロンを付けていた。
「司令、副司令まずは席に着いて朝御飯を食べてください」
「レイ」
珍しいと言ってもいいかもしれない。ゲンドウがレイに怖い顔をした。
「これも必要な事なのです」
「そうか」
ゲンドウはシンジの目の前の席に座る。冬月はアスカの横だ。ミサトがレイの横に座る。レイはご飯と味噌汁を皆によそった。味噌汁はシンジが作った。後はレイが料理をした。ただあまりにもレイの手つきがおぼつかなく危なっかしいので、見ていたアスカがたまらなくなり手伝ったが。
「碇君」
「うっうん。いただきます」
「いただきます」
「ああ」
昨日シンジはレイに言いくるめられた。ゲンドウはずっと苦しんでいると。それを助けてあげたいと。手伝ってくれぬかと。ただなぜ朝御飯を一緒に食べるのが助ける事になるのかは判らないが。顔をひきつらせつつ朝食を取る。ゲンドウは黙々と食べていく。
「ほう。なかなか見事な味噌汁だな」
「そうですか」
冬月に言われてシンジの顔のひきつりが少し収まる。
「シンジ君が作ったのかな」
「はい」
「不思議な物だな。ユイ君の味噌汁に似ている」
言われてシンジは思わず椀を覗き込む。味噌汁の表面に微かに映ったシンジの顔が揺れている。
「もういい」
ゲンドウがおかずを半分残して食べ終わった。
「だめです、司令。もっと食べないと上手く行きません」
「何故だレイ」
「説明したらおしまいです。きっと」
「そうか」
ゲンドウは平らげた茶碗を差し出した。レイが給仕をする。味噌汁もだ。
「おかわり」
「はい」
大盛りにして返す。ゲンドウは黙々と食べる。無気味といえば無気味な光景ではある。3杯ほどおかわりをした所でレイがもういいと言った為朝食はお終いに成った。後かたづけはミサトがやった。
「これに着替えてください」
浴衣だった。ゲンドウは受け取った浴衣をしみじみ見る。今更何を言っても仕方が無いと思ったのか着替え始める。慌ててアスカは部屋を出ていった。レイもだ。冬月も着替え始めた。
二人が着替え終わった頃ミサトが部屋に入って来た。団扇と新品の耳かきを持って来ている。ミサトは浴衣を着ている。
「しばらく待って欲しいそうです」
「…………」
レイの時と違い冷たい目で睨まれたが、いつもの事だ。慣れている。しばらくするとレイとアスカが浴衣姿で戻って来る。手には耳掻きと団扇を持っている。
「アスカ……頼むわ」
「判った」
アスカは素直に頼まれると以外に弱い。言う事を聞く。レイが足を伸ばして畳に座るとアスカも同じようにする。
「司令、頭を乗せて横になってください」
今更何を言ってもしょうがないと思ったのか、ゲンドウはレイの腿に頭を乗せて横になる。冬月はアスカに同じようにだ。レイ達は耳掃除をし始めた。
「司令、私は昨日初めて畳に寝ました。アスカに耳掃除をして貰いました。なぜか安らぎと幸せを感じました。そしてそこに無限を見ました」
初めての耳掃除にしては上手らしい。ゲンドウはされるがままになっている。時々手足がぴくぴくと動くのは気持ちがいいからだろう。
「ユイさんは無限の生命を夢見て、あの中に入りました。でもこんな所にそれはありました。今の私ならユイさんをこの世界に呼び戻す事が出来ます。神の力などに頼らなくても、この畳にそれがあります」
「そうか」
しばらく皆黙っていた。部屋に戻っていたシンジもミサトの耳掃除をしている。
「冬月……レイに任せようと思う……いいか」
「ああ」
「作戦部長、碇ユイのサルベージを行う。基本計画はレイに従え」
「はい」
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翌日赤木リツコは自宅で男を待っていた。昼に夜行くと言われた。リツコは家を二つ持っている。第三新東京市から少し外れた所にあるマンションの一室がそのうちの一つだ。もっともこちらは殆ど使わない。ネルフからなんとなく離れたい時に使う。もう一つはジオフロント内にある。本部からそれ程離れていない所に一戸建の家を持っている。ここに暮している。
男を待っているといってもただぼけっとしている訳ではない。仕事をしている。リツコは自分の立場を良く知っている。仕事が出来ぬリツコに存在価値は無い。男もどうせいつもの様に来て、ベッドに押し付けるように抱いて帰って行くだけだろう。それの何が嬉しいかと言われても、今はもう判らない。ただ来てくれる方がいい気がする。その程度だ。
二杯目のブラックを飲み干した所で、男の専用車のエンジン音がしてきた。正確にはモーター音だわ、などと自分で自分の考えを修正してしまうのはリツコらしい。二階の書斎から出ると一階に降りる。洗面所にとび込み一応化粧を整える。どうせ顔など見ないにしろやはり気になる。
リツコが玄関まで来るといつもの様に勝手に戸が開いた。男が入って来た。
「あれ」
つい、変な声を出してしまった。男は珍しくと言うより、始めて見た事をやっていた。いつもは司令服のまま手ぶらで来てはづかづかと上がり、後ろに付いてくるリツコと共に寝室に入る。リツコが服を脱ぐと自分も脱ぎすぐに行為を始める。リツコとていつでも受け入れOKな訳では無い。苦痛の呻き声を上げる時があるがお構い無しだ。行為が終わるとへばっているリツコを置き去りにして帰って行く。いつもはそんな感じだ。
「冷しておけ」
ゲンドウは左手に丸ごとのスイカの網をぶら下げていた。右手には大きなバッグをぶら下げている。
「はい」
リツコはスイカの網を受け取ったのはいいがまじまじと見てしまった。冷して分析でもしろと言うのだろうか。ゲンドウはスイカを渡すといつもの様に寝室に向かう。リツコはすぐに頭を切り替えた。キッチンに持って行くとスイカを冷蔵庫に入れる。すぐに寝室に向かった。ゲンドウは服を脱ぎ初めていた。慌ててリツコも全裸に成る。ベッドに両手を突き足を広げ腰を上げる。屈辱的な格好だが、いつもこうしている。
「あっ」
いつもは無理矢理リツコの都合も考えず入ってくるゲンドウだが、今日は違った。優しく胸や陰部を愛撫する。思わず声が出た。抱きしめられた後、あお向けに優しくベッドに寝かされた。
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行為の後も違っていた。風呂に入ろうと言った。もう訳が分からない。ぼけっとしているリツコを放っておいて、勝手に風呂に向かうところはいつものゲンドウらしいといえ無くもないが。リツコは慌てて追いかける。少し考えてキッチンに行きスイカの様子を見てくる。冷えてない。冷凍庫に移し少し温度調整を上げた。すぐに風呂に向かう。
風呂は結構広い。湯船も二人が入っても余裕があるぐらいだ。暖まる前にリツコはゲンドウの身体を洗う。こんな事をするのは初めてだ。大体男の身体を洗うのも初めてだ。父とは乳児の頃死に別れている。
よく判らないまま一緒に風呂に入った。なんとなくいいものだと思ったが。風呂から上がるとまた驚いた。
「これを着ろ」
ゲンドウが持ってきたバックには浴衣が二着入っていた。ゲンドウ用の深い紺の浴衣とリツコ用のアジサイ色の浴衣だ。リツコは唖然として浴衣を眺めている。
「気にいらんか」
「いえ」
着ると即死する細工でもしてあるのかと、くだらない事が頭に浮かぶ。実際はそんなことはない。色白のリツコに浴衣はよく似合った。勝手知ったる他人の家。ゲンドウは浴衣を着ると寝室の隣の部屋に行く。ここはこの家の唯一の和室だ。庭に面していて縁側もある。リツコは更衣室でまだぼけっとしていた。
「スイカは冷えたか」
「はい」
慌てて正気に戻るとキッチンに行く。冷凍庫で無理矢理冷やしたスイカは丁度食べ頃になっている。八等分に切り半月型のスイカを二つお盆に乗せ和室に急ぐ。
思った通りゲンドウは縁側に座っていた。リツコは隣に座るとスイカを一つ渡す。ゲンドウはスイカにかぶり付く。これで空に月でも浮かんでいればいいのだが、あいにくと地下だ。兵装ビルの下部に付いている警告灯やリニヤの明かりがあるのでそれなりに奇麗ではある。
さっきから訳のわからない事の連続で混乱しているリツコではあるが、そう悪い気はしない。自分もスイカを齧り出す。地下とは言っても気象はある。上と同じような天候に成る様に制御されている。
「いい風ですね」
言ってみた。答えは気にしない。言えたという事が重要だ。
「そうだな」
答えが帰って来た。嬉しくて少し頬がゆるんだ。恥ずかしく成ったので少し俯いた。
スイカを食べ終わるとゲンドウは畳に横になる。リツコはスイカの皮を捨てにキッチンに行く。皮を捨ててふと考える。何をしたらいいか判らない。しばらく考えたが判らない。とりあえず和室に戻る。ゲンドウはひじ枕をして外を見ている。耳かきで耳掃除をしている。何を考えているのか判らぬが言ってみた。
「私がやります」
「ああ」
リツコは側にあるティッシュの箱を持ちゲンドウの頭の横に腰を降ろす。足を伸ばして座り込む。耳かきを取りあげるとゲンドウの頭を腿の上に乗せる。耳かきをティッシュで拭い耳掃除を始める。
いままでこんなに寛いでゲンドウを見たことが無かった。そのせいか耳掃除を続けているといろいろな事に気が付いた。いつも精力的に見えるこの男にも白髪がある。結構皺もある。疲れているという事が判った。今まで年齢の事はあまり気にした事がなかったが、ゲンドウが随分年を取っているのが実感出来た。
「そのまま聞け」
ほら来たと思った。人が優しく成るのには訳があるはずだ。別れ話か。下手をすれば死んでくれと言うかもしれない。この男なら言いかねない。
「ユイに会わせて欲しい」
手が止まってしまった。この男は絶対こんな言い方はしない筈だ。
「昨日……」
ゲンドウは葛城家での出来事を語り出した。リツコは耳掃除を再開した。話し終わるとゲンドウはもう一度言った。
「すまない。ユイに会わせてはくれないか。サルベージを手伝ってくれ」
絶対違う。この男は自分が抱かれた男では無いと思う。こんな優しい声ではない。こんな疲れた声ではない。人を踏みにじるのが仕事の男だ。手に内心の動揺が現れ、少し震える。
ゲンドウは黙った。リツコも黙って耳掃除を続けた。
「このまま、この耳かきを奥まで差し込めば司令は死にます」
耳掃除を続ける。手の震えも止まった。
「ユイに会ってからにしてはくれないか」
絶対こんな優しい声を出す男では無い。リツコはしばらく耳掃除を続けた。
「右耳をください。この耳が聞いた最後の声が私に成る様に」
「ああ」
リツコは耳かきをそのまま差し込み、鼓膜を突き破った。流石に痛みでゲンドウが痙攣している。それでも許さず頭を左手で押えて耳かきをかき回す。かき回す。ゲンドウの口から唸り声が漏れる。許さない。しばらくのち耳かきを引き抜いた。血で真っ赤に成っている。ティッシュでふき取る。
「今医師を呼びます」
苦痛で痙攣を続けているゲンドウの頭を畳に降ろすと立ち上がり、箪笥の上に置いてある電話に手を伸ばした。視界が歪むので目に手を伸ばす。泣いているのが判った。
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一週間後、初号機にレイが乗った。あっさりと碇ユイはこの世に戻ってきた。
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○
「リツコさん久しぶりです。アツコちゃん可愛くなったね。頭良さそうだし」
「まっ血筋かしら」
45にも成ると流石に白髪も目立つ。若い頃から髪を染めていたせいもあるだろう。ただ相変わらずプロポーションは変わっていない。自己管理が行き届いている。服装は流石にボディコンでは無い。ジーンズ生地の吊りズボンにTシャツに大きな麦わら帽子と、当時を知っている者が見たら驚く様な格好だ。横に立っている娘も同じ格好をしている。
シンジは縁側から降りるとサンダルを突っかけるとアツコの前まで行く。アツコは自分の胴体ぐらいある大きなスケッチブックを持っている。絵が好きらしい。シンジは屈むと笑顔を見せる。
「アツコちゃん上手に書けた」
アツコは大きく頷く。シンジが頭を撫でると嬉しそうに微笑んだ。
「さてとまずはっと」
リツコがアツコを抱き上げる。縁側まで行くと靴を脱がせて乗せる。自分もだ。勝手知ったる他人の家だ。シンジも縁側に上がる。縁側に面した部屋には仏壇がある。仏壇の上には写真が二つ飾られている。ゲンドウとレイだ。ゲンドウは去年クモ膜下出血で他界した。安らかな死に方だったろう。レイは碇レイとして碇家に引き取られたが、22歳で他界した。最後は衰弱死だった。それ程苦しまなかったらしい。レイの姉妹達も同じ運命を辿った。シンジの妻が大学に入り直して医師を目指したのはその為だ。
リツコとアツコは仏壇の前で拝む。暫く拝んだ後アツコは部屋の横の壁の前に来ると座った。スケッチブックを開く。壁を見ながら写生を始めた。
「いつ見てもレイは似合うわね」
「そうですね」
その壁にはポスターが張ってあった。レイが浴衣姿で団扇を持ち畳に座り足を崩している。横に「日本の家は畳が一番」とキャッチフレーズがある。その下に「全日本畳普及協会」とある。レイが20歳に成った頃、インタビューで「畳が私を変えました」と言った事がある。それを全日本畳普及協会が目をつけた。交渉のすえ、レイはキャンペーンガールを一年ほど勤めた。ただし21歳頃から全身衰弱が始まり止めたが。
「ところでユイさん達は」
「じつは……うちのがおめでたらしくって、母さんと病院に行ってます」
「あら、良かったじゃない。司令ももう二年頑張れば孫が見れたのに」
「ええ」
それからは世間話に成った。ミサトは五人目でお腹を大きくしている。不精髭の旦那と共に好き者らしい。一途な眼鏡男は反動か6回も結婚離婚を繰り返している。慰謝料の払いで大変らしい。ケンスケは山岳写真の大家として名をはせている。去年助手の娘と結婚した。鈴原夫妻はよく遊びに来る。いまだにイインチョと呼んでいるらしい。マヤは教育ママで有名だそうだ。旦那がギターを息子に教えるといつも喧嘩をする。その度にリツコのところに愚痴をこぼしに来る。
時を忘れて話しているとアツコがとことことやって来た。
「おじちゃん、かけた」
シンジにスケッチブックを見せる。
「あれ」
「あら」
五つにしてはとても上手な絵だった。レイの極々微かな微笑みが上手く描かれている。ポーズも見事だ。
「これって第壱中の制服だ」
レイは浴衣ではなくセーラー服を着ている様に描かれていた。
「アツコちゃんこの服はどうしたの」
「おねえちゃん、きている」
アツコが振り返って指を差す。リツコとシンジが視線をそちらの方に動かすと目の隅で何かが動いた。
「えっ」
「あっ」
そちらの方に視線を向けるとまた違う方で何かが動く。それを3度程繰り返した。
「おねえちゃん、ばいばい」
アツコがポスターの方に向かって手を振るのでそちらを見た。いつもかわらないポスターがある。
「アツコどうしたの」
「おねえちゃん、また来るって」
幼女はにっこり微笑んだ。リツコとシンジは顔を見合わせた。
おしまい。