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No.43553の一覧
[0] 堕天作戦 小説集[ηρ](2020/11/30 10:23)
[1] 火裏之雪 Part1[ηρ](2020/07/01 10:26)
[2] 火裏之雪 Part2[ηρ](2020/07/01 10:27)
[3] 火裏之雪 Part3[ηρ](2020/07/01 10:30)
[4] 火裏之雪 Part4[ηρ](2020/07/01 10:33)
[5] 火裏之雪 Part5[ηρ](2020/07/01 10:39)
[6] 火裏之雪 Part6[ηρ](2020/07/02 08:22)
[7] 宴下俎上[ηρ](2020/07/01 10:44)
[8] 一点死守 Part1[ηρ](2020/07/01 10:50)
[9] 一点死守 Part2[ηρ](2020/08/18 06:39)
[10] 一点死守 Part3[ηρ](2020/11/30 09:50)
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[43553] 一点死守 Part3
Name: ηρ◆8507efb8 ID:5eaee142 前を表示する
Date: 2020/11/30 09:50


 元より望みの薄い道行きとわかっていたはず。
 デ・フェンテもそう諭して幾度も引き留めたではないか。なにもかも承知の上で出てきて、思っていたとおりに遭難して、知れきった結末を迎えつつあるだけ。万事が予想の範疇、いっそ順調とさえ言える。それをいまさら、どうして嘆くことがある?
 先の落馬から四、五時間は経っただろうか。すでに三日目の夜も更けていたが、シュロは未だに自失から立ち直れないでいる。
 これを心配したらしい竜が奇妙なことを始めたのには、ほとほと困惑させられた。彼はその独特の声で執拗に話しかけるだけでなく、今度は顔――と思われる部分――からうようよと大量にはみ出している触手を、シュロの身体に絡みつかせてくるようになったのである。
 初めは薄気味悪さにいちいち振り払っていたものの、何度も繰り返されるうちにどうでもよくなってしまった。この竜の放つ異臭にも、うろうろするたび地震が起きるのにも、やれ「元気を出してほしい」だの「優しくしてほしい」だの、「自分の上に乗ってほしい」だの「咬んでほしい」だのと妙な要求をされるのにも、子犬みたいに甘えられるのにも、すっかり慣れてしまった。慣れて、どうでもよくなった。
 竜の触手でもみくちゃにされながら、シュロは何度目かもわからないため息をついた。
(明日から歩きだ。しかも大荷物を背負って、モーラを支えて。這って進むようなもんだ、いよいよ進退きわまったな……)
 シュロたちをここまで運んできてくれた馬怪蟲は、あの気の毒な働き者はもういない。彼は数時間前に主人たち――最低の暴君だったろう――を振り落としたあと、今までの苦役の対価としてとうぜん支払われるべきと彼が考えたものを、この上は直談判してでも取り立てずんばあらじと決意したのだった。
 具体的に言えば、手近にいたシュロの身体から直接、大顎で請求しようとした。ために当然の帰結として、彼は怒れる竜の手によって押し花みたいになってしまった。止める暇もない、全ては数瞬の間の出来事である。
 こんなことなら一か八かで馬の拘束を試みればよかった。せめてその可否を竜に質すくらいのことはすべきだったのだ。まったく、なにもかもうまくいかない。自分の選択がことごとく裏目に出てしまう。
 今ではデ・フェンテの忠告に従わなかったことさえ、取り返しのつかない大間違いであったように思えてくる。ああ、あのとき投降していれば、こんなわかりきった苦況に陥ることもなかったのに。ルビーへの復讐? ギンカ小隊の仇討ち? バカめ、青臭い夢想もたいがいにしろ! そんなものはまず生き延びてからの話ではないか! 
 今こうして顧みるだに、あのとき投降してしまっても、ハイデラバード軍に入ってしまったとしても、のちに出奔する望みが全くなかったとは思われない。彼らの信頼を得る間だけでいい、表向きは真面目に協力してみせて、竜に搭乗するための外装を施してもらった後でなら、隙を見てモーラと共に脱出する機会があったはずだ。デ・フェンテだってきっと協力してくれた。彼もいっしょにダルガパルへ連れて行けば、裏切らざるを得なかった事情をハイデラバード軍人の立場からうまく説明してくれたに違いない。おとなしく従う振りをして、彼らを利用すべきだったのだ。
 サウジーネも言っていたではないか、もっと要領よく生きろと。理屈も道理も真っ直ぐゆくとは限らないと。いったいあの場で投降してしまうことになんの不都合があったというのだろう。なぜあのとき我を通すことしか考えられなかったのか。それでうまくいくと考えてしまったのか。なぜうわべだけでも恭順を装って、後先のことを考えて行動できなかったのか……
(なあサウジーネ、言い返してやりたいけど、あんたの言うとおりだよ。自分のバカさ加減がイヤになる。どうして私はいつもこうなんだろう……)
 いや、仮にあの時の決断が短慮であったとしても、自分が苦しむのはまだいい。志半ばのまま荒野でのたれ死のうと覚悟の上、短慮だろうとわがままだろうと、自分なりに考えて、納得して決めたことだ。
 でも、モーラは?
 シュロは月明かりに仄青く浮かび上がって見える、彼女の顔をそっと盗み見た。モーラの顔と、なかば闇に沈んだようになって見える、投げ出された右足とを。いま定かに見えないのはせめてもの幸いだが、そこに巻き付けられた包帯がわりの上着は、落馬の際の出血で真っ黒に染まっているはずだった。 
 彼女の足の壊疽は確実に悪化しつつある。先の落馬のあと、怪我を検めるために上着を解いたとき、はっきりそれとわかる悪臭が鼻をついた。患部と健常部との境目はそれほど変わったように見えなかったが、デ・フェンテは内部で侵行していると書いていた。素人の楽観は許されない。
 モーラの足の負傷自体は、あるいは、彼女の自業自得と言いうるのかもしれない。あの広域念波さえなければこれほどのことはされずに済んだだろうから。しかしその治療する機会を奪い、放置し痛めつけ悪化させて、苦しみに満ちた死出の旅路を踏ませているのは、誰あろうシュロである。「友達は納得しているのか?」と訊いたのはデ・フェンテだが、まさか納得ずくで来たはずはないのだ。内心ではどれほど自分を怨み憎んでいることだろう。
「シュロさん」
 と、モーラが声を上げた。耳で聞くぶんには苦痛の色は窺われない。
「薬、ください。飲んでなかったから」
「あ、悪い……」
 シュロは竜の触手を払い除けて――というよりその中から這い出て――モーラの許へ歩いていった。竜はシュロを触手で捕らえて弄んでいるとき、なぜかモーラから一定の距離を取りたがった。離れないで近くにいろと言っても「いや」の一点張りである。
「シュロさんは食べないの?」
「食欲なくてさ。ずっとあいつの臭い嗅いでりゃそうなる」
 まんざら嘘ではないが、携帯糧食の数にも限りがあった。今いる地点で徒歩行を余儀なくされた以上、マンテスワールへ辿り着く前に食糧は必ず尽きる。なんとか節約して食い延ばさなくてはならない。
「これ、薬な」
 モーラに錠剤と、水の入ったカップとを手渡す。このぶんでは水も危うい。もっとも、今や水が尽きる前に追いつかれる心配をしなければならないのだが……
 モーラの傍らに座って懊悩することしばし、またぞろ竜がズシズシと近寄ってきて、うねうねと触手を伸ばしてきた。
「すごい懐いてますね……」モーラが小さく笑った。「起きたらシュロさん、半分食べられてるみたいになってたから、驚きましたよ。衝撃的すぎる光景」
「あんがい本当に食う機会を狙ってるのかもな」
 うるさがって何度か手で振り払っていると、今度は「そいつは病気だからこっちに来て」と訴え始めた。てっきり興味がないのかと思いきや、竜はモーラの不調をちゃんと理解しているらしい。
「竜がお前のこと心配だって言ってる」シュロは竜の声を超訳して伝えた。
「え、ほんとですか。わたし無視されてると思ってた」
 実際、モーラの感想はほぼ合っている。竜はひねもすシュロの動向を気にしていて、機会を見つけてはしつこくすり寄ってくる反面、モーラのことは元気のない馬怪蟲くらいにしか認識していないらしかった。シュロが気をつけて彼女の世話をしているのはずっと見ているはずなのだが、踏んづけないだけでもありがたいと思えがしに、彼女を尊重する様子はまったく覗われない。馬怪蟲に襲われたのがもしモーラであったなら、おそらく竜はなにもせずに眺めていたことだろう。
「足、痛くないかってさ」
 竜に言寄せて気掛かりを訊いてみる。仮にもただでさえ悪い右足をあれほどに痛めておきながら、最前からモーラの口ぶりにそれを痛がる様子が見受けられない。傍で気を揉む側からするといっそ不気味で、少しくらい痛がってくれているほうがいくらか安心なくらいなのだが。
「さっき、できるかなって思って、ダメもとでやってみたんですけど」と言って、モーラは自分の頭をつついて見せた。「念術で痛いのをある程度、抑えられるみたいです。いまそれやってるから」
「へえ……え、すごいな。ほんとか?」シュロは素直に驚いた。「すごくないか、それ。そんなことまでできるのか、念術って」
「そういう、自分の感覚を騙すっていうか、操作するっていうの、話に聞いたことだけはあって……なんか、試してたらできちゃいましたね。たぶんわたしの頭、怪蟲並なんですよ。単純なんです」
「それやってれば、具合もそんなに悪くないのか? そういうもんでもないのか」
「なんかふわふわしてます。ちょっと頭がはっきりしない感じですけど、気分は悪くないです」
 そこは新米とは言え、曲がりなりにも術士として登用された准士官である。自分のような凡人とは隔絶した力を持っているのだ――普段なら諦めとともに妬みをも禁じ得ないところだが、八方塞がりの現状ではただただ頼もしい。実に久しぶりの好材料である。
「そうだ、モーラちょっと」
 気を取り直したついでに、明日に備えてやるべきことがあったのを思い出す。シュロは左側の靴を脱いで、訝かるモーラに示して見せた。
「これ、履いてみてくれ。多分そんなに違わんと思うんだけど」
 彼女は手に取ろうとしない。困ったような咎めるような目で、靴とシュロの顔とを交互に見るだけである。
「気持ち悪いだろうけど我慢しろよ。これしかないんだから」
「いえ、そういうことじゃなくて」
「明日からは歩きだけど、荷物もあるし、背負ってやれないんだ。こう、右側から支えるから、槍を杖にしてさ、片脚だけでも使って、歩いてもらわなきゃならない」
 先の野営地での騒動でモーラは靴を失っている。ここ数日の逃避行の間もずっと、彼女の膝から下はむき出しのままだった。が、今いる辺りはあいにく岩肌に砂利を撒いたようになっている。裸足ではいくらも保たない。靴が要る。
「そういうことじゃなくって……だって、シュロさんはどうするんです、片っぽだけで」
「いちおう白兵隊士だ。治せる」
 他人を癒すに足るほどの強さではないものの、シュロにも僅かながら恵まれた力がある。どこまで続けられるかはわからないが、療術の全く使えないモーラにそれをやらせるよりはいい。
「いざとなりゃ、お前に痛いのだけでもなんとかしてもらうさ。できるんだろ?」
「自分以外にできるかどうかはまた別の話なんですけど……」モーラはなんとか受け取らずに済ませたい様子で、眉根を寄せてウンウン唸っている。「うーん、あの、飛ぶのはなしにしても、竜の背中に乗せてもらうとか、そういうの、できないんですかね」
「そんなの、真っ先に考えたよ。考えて、こいつにも話してみた」
 靴を持ち去ろうとする触手に平手を食わせながら、シュロは言った。
 これは実際、考えるまでもない。無理があるのはわかりきっていた。彼我のサイズが違いすぎるのは言わずもがな、二本足でも四本足でも、竜が歩いているところを何度か見ればイヤでも悟らざるを得ない。とにかくその身体には馬怪蟲の背のように、動いている間もあまり揺れない箇所というものが全くないのだ。
 身体各部の形状も平らなところに乏しく、全体的に人体の骨格のように細く硬く滑らかで、掴まりやすそうな突起や毛なども生えていない。背の関節部だけはそれなりに柔軟かつ窪んでいてまだしも乗りやすそうだが、そこへ座ることができたとして、竜が少し身体を曲げただけで下半身を外殻に挟み込まれてしまう。
 こういった障りを避けた上でとなると、もはや静止していてさえ跨るどころか、しがみつけるところが見つかれば御の字といった態だ。そして関節だろうと外殻だろうと、どこかへしがみつけたとしても竜が動き出したが最後、ほどなく投げ出されるか、揺れに負けて頭を打つか、打ったあと投げ出されるかするだろう。最低でも五メートルは下にある地面に向かって。
 もっともこれはあくまで普通に、なんの気兼ねもなく動いている竜に人が乗る場合の話だ。竜自身が事情をよく理解して、人を乗せているという認識をちゃんと持っていたなら、ひょっとしたらまた別の見方ができるかもしれない。シュロはこう思い直して、モーラが気を失っている間、飛ばないまでもその巨体と力とを利用できないか、竜にいろいろ諮ってみたのである。
「で……ダメだった?」
「ダメだった」
 結論はやはり不可とせざるを得ない。そのように生まれついたわけでもなく、そうあるべく訓練を受けたわけでもない野生生物としてはしごく当然のことながら、竜は人のように小さく脆い生き物を損ねないよう運ぶすべを持たなかった。
 あるいはシュロひとりだけなら、危険を冒して竜の背中なり手なりにしがみつくくらいのことは、少なくともそれを試してみるくらいはしたかも知れない。シュロが力を借りたい旨を説明する間、竜は大いに乗り気だった。自分がそれに全く向かない構造をしているにせよ、シュロが怪我をしないよう万難排して気をつけてくれるだろうことは疑いない。例えば人が小動物を両手で捧げ持つような感じで、ゆっくりとなら運べたかもしれない。
 しかしその対象がモーラとなると、竜は打って変わって非協力的になるのだった。ほんの少し、試みに彼女を手に乗せることさえ、竜はすげなく拒んだ。どうも好悪の情以前の問題で、彼にはどうしてそんなことをしなければならないのか全く理解できない様子なのだ。事情を縷々説明しても、なだめすかしても脅しても、竜は「どうして?」と「いや」を繰り返すだけだった。
「せめてソリみたいなものがあればなあ。曳いてもらうことはできますよね……あっ、あの野営地に馬車とか、たぶんありましたよね……でもいまさらですよね……」
 こういうとき考えることはみな同じらしい。モーラが肩を落として「たられば」を案じる様子は、数時間前のシュロの再現である。みな同じような考えをなぞって、同じような後悔に落着するのだろう。竜に馬車を曳かせればよかった。予備の馬も用意させて、要すれば片方を殺して食わせればよかった。デ・フェンテを連れてくればよかった。靴や着替えを用意させればよかった。
 投降してしまえばよかった。
「ごめんな」
 と言おうとして、すんでのところで口を噤む。シュロはそっと唾を飲み込んだ。わざわざ二日前の話を蒸し返して、いまさら口先だけ謝罪されたところで、言われたモーラにどう反応しようがあるというのか。本心がどうあれ彼女の性格なら「シュロさんのせいじゃないですよ」とでも言うに決まっているのに。
(そう言って欲しいんだろ? 肝心な時は意志のない荷物あつかいしておいて、本当は悪いなんて思ってもいないくせに、謝るだけ謝って、許して欲しいんだ、私は。罪悪感を紛らせて、慰めて欲しいんだ)
 選択の自由を奪って、こんな遠回しな自殺に付き合わせておきながら、私はまだモーラから搾り取れるものがないか探してる――シュロはふたたび鬱の虜になった。自分でもいい加減にしろよと呆れつつ、どうしてみようもないのがいっそう歯がゆい。
 モーラのため息が聞こえる。きっと「たられば」も最終局面を迎えて、とうとう「シュロさんがあのとき投降してくれてたらよかったんだ」の辺りまで来たのに違いない。
「シュロさん」
 心臓が跳ねた。まさか面と向かって難じられるとも思えないのだが、シュロの返事は「んなっ、なんだ、どうした?」と吃った。まったく「なんだどうした」とはモーラの科白であろう。
「わたし寝ますね。ちょっと眠いかも」
「ああ、そうか……」安堵とも失望ともつかないものを感じる。「じゃあ、ちょっと待ってな。いま寝床を」
 作ってやるから、と言い終える間もなく、シュロはその不可能を悟らざるを得ない。昨日までは槍で地面を掘り返して軍隊流の「寝床」を作れたのだが、いま彼女らが足に敷いている岩盤に同じやり方が通用するとは思えない。この一帯は見える限りの範囲で似たり寄ったりである。
「……このままでいいですよ」
 モーラも特に期待した様子を見せず、適当に周囲の砂利を避けて、そこへ右足を庇ってそろそろと横たわった。今夜は石の褥に石の枕で我慢するしかないようだ。
 シュロは火の始末をして竜に見張りを言いつけたあと、ほかにすることもないので、モーラの傍らに背中合せのようにして横になった。
 寝心地は最低最悪。こんなところで眠れるはずがない、せめてモーラに敷布代わりになるものを探してやらないと、と思う暇に、かつて覚えのないほどの猛烈な眠気が襲ってくる。身体中が疲れ切っていることに今更ながら気付かされる。まるで地面と接しているところから徐々に融け出していくかのようだ。
 眠りに墜落する直前、ふとモーラが、
「違うんですよ」
 と言った。ように聞こえた。あるいは念波だったかもしれない。半ば夢の中で、本当に彼女が言ったのかどうかの判断もつかず、シュロは睡魔と格闘しながら長いこと返事をしないでいたが、
「……なにが?」
 ようやくこれだけ、口の中でもぐもぐ呟いた。
 聞こえなかったようで、モーラの返事はない。肩口に触手が這うのを感じる。もはやふたたび質すために唇を動かすことも、拒絶のために身じろぎひとつすることもできない。
 夢か現か、遠く雷鳴を聞いたような気がする。雨が降ったらどうしよう、と思ったところで、シュロの意識は完全に途切れた。






 夜明けまでは無窮の時間を閲するかのようだった。
 結論から言うと、シュロはほとんど眠れなかった。が、仮に朝まで逆立ちするはめになったとしても、モーラよりはどれほどましだったろう。
 当たり前の話ながら、モーラがいかに優秀な念術士であっても、意識のないときまで魔法を使うことはできない。眠ろうとすればどうあっても念術による感覚制御を解かなければならない。かといって解いてしまえば苦痛に阻まれて、眠るなど及びもつかない。彼女の様子が明らかにおかしいのを悟っては、シュロも安穏と眠ってはいられなかった。
 顎の位置まで水で満たされた部屋に一晩中立たされる拷問のように、モーラはささくれ果てた精神をすり減らしつつ必死に痛みを抑え、その力も尽いては苦痛に溺れて転げ回った。そして切実な休息の要求が責苦を上回ったほんの僅かな間だけ、失神するようにして眠りに落ちるのだった。
 うなされては短い悪夢から覚醒し、目覚めながらその続きを見る彼女を、シュロは身も細る思いで見つめていた。見つめながら、ときおり励ましたり撫でさすったりする以外なにもできない。一晩中これではどれだけ眠かろうが隣で高いびきなどかけようはずもない。
 夜闇の中ではひたすら朝日が待ち望まれたというのに、ようやくそれが昇るのを見ても、シュロの心は絶望に塞がれたままだった。もう身体のどこにも力は残っていない。からっぽなのに、これから重い荷を負い、人ひとりを支えて、今日中に終えられないということだけはわかっている険路を、片跛の靴で歩かねばならない。
 朝日の中で見るモーラは半死人さながらだった。加えて無理に食わせた朝食を吐き戻すのに最後の力を使ってしまったようで、出発を促す段になってはもはや息をする死人同然である。これでは歩くどころか立ち上がることすらおぼつくまい、と思いきや、
「シュロさん、行こう」
 彼女は不屈だった。その左足にはいつの間にそうしたものか、昨晩シュロが脱いで置いておいた靴が履かれていた。
 モーラの声は弱々しくも、内になにか曲げがたい芯のようなものが感じられる。まだ望みを捨てていない者の声だ。いったいあの野営地での騒動からこちら、彼女はしばしば思いもかけない気丈さを示してシュロを驚かせてきた。陽気で活発だった前任の念術士を知っているだけに、小隊が健在であったころなどは内心「陰気なくせにどこか厚かましいところのある愚図」くらいに思って侮っていたものだが……
(見ろよディジー、お前の言うとおりだ。モーラは確かに私みたいなのとは違った)
 真の強さとは思うに、こういう窮境でこそ発揮されるのだろう。モーラにあって自らに備わらなかったものは、強力な魔法だけではなかったということだ。相身互いだ、私は脚を借すかわりに、これを杖に借りればいい。
「行こう。馬の背中とまでは言わないけどさ、私の肩だって捨てたもんじゃないぞ――ほら、掴まれ」
 シュロはからっぽだった自身の内にほんの一掬、なにか熱いものが注がれるのを感じた。






 そしてそれが干上がるのに大した時間はかからなかった。
 人の肩に縋るのはもちろん、馬怪蟲の背に跨るのとはまったく違う。どれだけモーラがシュロに体重を預けたところで、負傷した右足そのものを持ってもらうことはできない。地面に引きずらないようにしようとするなら、モーラ自身が脚を上げ続けるしかない。しかも、彼女にはそうし続けるだけの余力がもうない。感覚制御のための魔力もまた同様だった。
 かくして夜通しの拷問はなおも続き、ただ小休止を挟んで趣向を変えただけに留まる。シュロはモーラが昨夜に倍して悶え苦しむのを、顔のすぐ横という特等席で観覧せざるを得ない。ただ肉体的な苦行の多大をだけ覚悟していた彼女にとって、この精神的な奇襲はもう二、三人も引き摺って歩かされるような重い負担になった。早い段階で竜が荷物を預かってくれたことも、これに引き比べてはあまり慰めにならなかった。
 這って進むようなものだと予想していたのが、今では実に甘い見通しであったと痛感される。ふたりで縺れつつ凭れつつ、ほんの少しの距離を進んでは立ち止まり、歩くのに費やした時間の倍も休んでから、再び呻きつつ苦行を再開する。これを何度も何度も繰り返して、少しは先に進んだろうかとふと背後を振り返ると、しかしゆうべ野宿した場所はまだほんの目と鼻の先なのである。これなら本当に匍匐したほうがまだしも速かったことだろう。
 魔力を尽いているのはモーラだけではない。ろくに食いも眠れもしていないことが如実に体調に現れているらしく、シュロには悪路で傷めた裸足を治療するための力がほとんど残っていなかった。徒歩行も一時間を過ぎると、傍目には彼女もモーラと選ぶところはない有様となった。もはやどちらがどちらを支えているのかも定かでなく、同じように呻き苦しみつつ、一対の血の轍を点々と残しながら、同じようによちよちと歩く。竜は大いにシュロの容態を心配し、それに比例していよいよモーラへの敵意を募らせる。「そいつを捨てて」と懇願してきたのも一度や二度のことではなかった。
 今まで遠目に望まれながらも明瞭ではなかった終局が、次第に具体的な形を持ち始めたような気がする。その近づいてくる足音を聞いたような気がする。シュロは喘ぎながら初めて「もうダメかもしれない」と思った。初めて、明日、生きている自分の姿を、モーラの姿を想像することに困難を感じた。現実が常に自分の予測を裏切るということを、この数日で痛いほど理解してきたつもりだったのだが、シュロにできたのはこの数日でうんざりするほど繰り返してきたとおり、その難しさを再認識することだけだった。
 歩き始めてどれほど経ったろう、と思うだけは思っても、顔を上げて太陽の位置を確認することすら難業である。こうべを垂れて目を落とす先には、いまいましい砂利と石と、折々に視界の端から登場しては去っていく、自らの血塗れた足とがあるだけ。先ほど転んだ拍子に足の爪を割ってしまい、血が滲んで歩くたびにたいそう痛むのだが、今ではもうあらゆる痛みが他人事のようである。ただ身体中をみっしりと満たす疲労と徒労感とだけがあって、もし隣のモーラがひと言でも「もうダメ」とか「もう歩けない」とか言いだしたら、そう聞こえるような声をひと声でも上げたら、喜んでこの苦行を中止してその場に大の字になってしまおう、そのことばかりをぐるぐると考えていた。なので彼女がふいに、
「あっ!」
 と声を上げて立ち止まったとき、シュロはその原因を確認するなどは思いもよらなかった。ただこれで休める、もう歩かなくていいという合図とだけ受け取って、喜び勇んで顔を上げた。
 隣のモーラはなにかを一心不乱に見つめていた。彼女の視線の先、二十メートルほど前方には、家くらいもある巨大な砂岩と、それに凭れかけるようにして置いてある、布らしきものに包まれたなにかがある。シュロたちの背嚢くらいの大きさがあって、見ようによってはボロを纏ってうずくまる人のように見えなくもない。
「アンダー!」
 と叫ぶなり、モーラはいきなりシュロをもぎ離して前のめりに転んだ。
 尻餅をついて驚きに目を瞠るシュロをよそに、彼女はアンダーの名を呼びながら、視線の先のものに向かって狂ったように這っていく。すっかり色あせた表面を所々砂塵が覆っていて、久しく以前からずっとそこにあったであろうことが、シュロの位置からでも容易に見て取れる、そのなにかに向かって。
 モーラがこの逃避行の間ずっと黙りこくっていた理由が、移動中は必要最低限のこと以外なにも話そうとしなかったその理由が、このときはっきりとわかってしまった。彼女は集中していたのだ。モーラは道中ずっとアンダーを捜していたのだった。
 彼女はそのなにかに辿り着くと、しばらく声をかけたりもたもたと布地を解いたりしていたが、じき力なく泣き始めた。それはもちろん岩陰に憩う不死者などではなかった。魔人か人間か、ここで行き倒れたかした者のなれの果てであろう、一体の古びた人骨だった。
 シュロは彼女に追いついて、ただ「今日はここで休まないか」とだけ言った。それ以上かける言葉が見つからない。驚きでもあり、不憫でもあった。モーラをここまで支えてきたその心の骨子が、なんと実に一日にも満たない交流の中で生まれた、あの不死者への淡い思慕に過ぎなかったということが。そしてついにそれも割れ挫けて、いままさに折れようとしていることが。
「モーラ、もう休もう、な? 今日はさ、ずいぶん頑張ったんだから」
 返事はない。彼女は完全に打ちのめされてしまった。ふたりがそれに縋ってなんとかここまで歩いてきたところのものは、モーラの杖はとうとう折れてしまった。なんだかここに亡骸が用意されていたことが、遠からぬ未来の暗示であるようにも思えてくる。きっと彼もなにかを頼りに必死に歩いてきて、ちょうどここでそれを折ってしまったのに違いない。
 まだ日は高かったが、とてもこののち再びモーラが奮起するとも思われない。シュロは彼女の返事を待たずに、竜にひと声かけて荷物を下ろさせた。白骨死体と一晩すごすのは少々気味が悪いが、いまのシュロとモーラが相手ならお互い様だろう。
「モーラ、足、大丈夫か? 横になってな。なんか食って薬飲まなきゃ――」
 竜から荷物を受け取ったとたん、シュロは凍りついた。
 異様に軽い。下半分がぐっしょりと濡れている。動悸が全身を揺るがすのを感じる。彼女の気配が激変したのを察して、竜がもの問いたげに顔を近づけてきた。
 背嚢を開けてみると、果たして中身はめちゃくちゃになっている。無論ならないはずがない。移動中ずっと竜が触肢にぶら下げて、身体中のどこと言わずぶつかるに任せていたのだから。携帯食料が多少砕けたくらいはまだいい、どうにでもして食える。が、底部をまるまる占有する貯水容器が破損しているのは致命的と言うほかない。
 水はそのほとんどが流れ出てしまっていた。これで数日以内の死は確定した。胃に氷が落ちてきたようだった。暗示どころの話ではない、どうやらあの骸骨こそが、明瞭に見え始めていた終局の姿であったらしい。彼はここで待っていたのではなく追いついたのだ。凭れている岩があんなに大きいのはつまるところ、三人用の墓標だからなのだろう。
 シュロは背嚢を抱いたまま、その場にへたり込んでしまった。






 モーラは骸骨の傍から動こうとしなかった。痛みを抑えるのに集中しているのか、ここに着いてからというもの彼女はこちらに一瞥もくれず、一言も口を利こうとしない。
 もっともシュロのほうからなにか話しかけたわけでもない。彼女もまた少し離れたところに座り込んだまま、黙然と即席スープを煮ていた。スープ一人前を煮る分と、ほかにカップに半杯ほど、容器の底に残っていた水はそれで全てである。この過酷な事実を伝えかねては、いっそモーラの沈黙もありがたいくらいだ。
 魔人ふたりが貝を決め込むのは今日に限ったことではないが、この逃避行中ずっと空気を読まずにあれこれと語りかけてきていた竜すら、今は陰気に黙っている。シュロの傍に犬が伏せるような恰好で蹲って、折々に低く唸りながら、おそらくは人で言うところの自責の念に苛まれているらしい。
 シュロは先の「重大事故」に際して、竜を非難するようなことは一切なかった。が、彼女の苦衷を読みでもしたのか、彼は結果的に自分が招いてしまったことをただちに理解したようだった。幾度か短く「ひどいことをした」とか「どうしよう」などと言ったきり、ずっと今の姿勢を保っている。この巨大な生き物が平素どれだけ賑やかで騒々しかったか、こんなふうに静かになってみると身にしみて実感される。
 シュロは真実、絶望していた。していたが、それは言わばようやく底に足が着いたような心地で、少なくとも以後は不意の滑落や自由落下の恐怖に怯えなくて済むのだと、なんとなく気楽な気分にもなっていた。これいじょう悪くなりようがない状況というのは、どうもある一定の揺るがしがたい安堵を生むものらしい。
 自分たちはじきここで渇いて死んで、骸骨の墓の居候になる。水を失うまでは心のどこかに「追いついてきたハイデラバード軍に命乞いすれば、ひょっとしたら命だけは助かるかもしれない」くらいの考えがあったのだが、今はもう念頭から消えた。どうせ思い通りになど行かないに決まっているのだ。ルビーの襲撃からこちら、なかんずくあの夜の偵察失敗から常に徹底してそうあったとおり、現実はやはりシュロの期待を裏切るはず。この最低のくそったれが約束してくれるのは、彼女のもっとも都合が悪いときに嘲りながら、思いも寄らない方法でそうするということだけ。
「お前のせいじゃないよ」
 と、シュロは竜に向かって言った。悪いのは現実か、さもなきゃ私の頭だ。お前は荷物を持ってくれたんじゃないか。そのおかげで少なくともここまでは来られたんだから。
 手を伸ばして、人で言う顔のあたりの外殻を撫でてみる。こんなふうに自分から望んで竜に触れるのはこれが初めてかもと、シュロはふと思った。
 竜の触手が伸びてくるのと同時に、頭の中に彼の声が流れ込んでくる。大きな感謝と、静かな非難と、暗い悲しみとが。彼はこう言っているのだ――慰めてくれてうれしい。でもそれは嘘だ、自分のせいだ。
 ゆうべモーラに謝罪しようとして止めて、鬱々と自己嫌悪に勤しんでいたことを、シュロは思い出した。なぜこの竜が自分などを選んだのか見当もつかなかったのだが、ひょっとしたら彼はシュロの中に、自らと似たところを見出したのかも知れない。
「嘘じゃない。お前、私の考えが読めるんだからわかるだろ。そういうわけでもないのか?」
 笑って、肩に這い上ってきた触手の一本を握ってみた。ぶよぶよと柔らかいかと思えば、人が腕に力を込めるような按配できゅっと締まったりもする、全く奇妙な手触りである。これを抱いたり枕にしたりできていれば、今までの野宿もいくらか快適だったかもしれない。もっともシュロにはともかく、モーラにまで提供してくれたとは思えないが。
(モーラ、今日はあのままずっとあそこにいるんだろうか……)
 促したとして、とてもこちらへ来そうには見えない。なんだかあの骸骨と添い寝しかねない雰囲気だ。どのみち彼女もシュロも望むと望まざるとに拘わらず、じきそうすることになるのだが――ぼんやりとモーラの様子を眺めているうちに、シュロは来たる死がふたりのどちらを先に訪なうか、ということにふと思い及んだ。そうして不可解なことに、自分でも驚くほど動揺した。
 モーラのほうが先に死ぬ! まるでその事実がいま初めて判明したかのようだった。もし死ぬなら自分が先に決まっていると、彼女は無意識のうちに思い込んでいたのだが、現状ではどう考慮してみてもモーラのほうがより危うい。今は落ち着いているように見えても、じき魔力を尽けば苦しみ始めるだろう。あれほどに衰弱しきった身体で、あの地獄のような拷問をもう一晩、とても耐えられるとは思えない。もしそうできなかったとき、モーラはどうなる? 死んでしまう? 死んでしまったとしたら、私はそのあとどうなるんだろう……
 シュロの思考に割り込むような形で、竜が「あいつが死んだら自分がお前を運ぶ」と言った。彼女の考えを読んだらしい。
「モーラは死なない。お前、二度とそんなこと言うな」
 とっさに叱声が出て、ために竜はあわれなほどしょげてしまった。シュロは彼の機嫌を取るために、もう何本か触手を撫でたり揉んだりしてやらねばならなかった。
 それにしても、モーラが死んだあとのことを全く考えていなかったというのは、顧みて奇妙ではある。彼女がいなくなれば竜の協力を得て、助かるすべが見つかるかもしれないというのは、確かに道理だった。先に考えてみたとおり、竜が結んだ両手の上に乗って、そのまま可能な限り揺らさないよう歩いてもらえばいい。彼はどうやら食事も睡眠も必要としないようだから、昼夜兼行で歩き続けることも可能だろう。脱水症状が深刻になる前になにか見つけられるかもしれない。
 が、他ならぬ竜自身から提案があった今でさえ、シュロには全くそういう気がなかった。それは情理的にあってはならない、道義的にあるべきでないというより、シュロの中では論理的、定理的にありえない話だった。一ひく一が零であるように、モーラが死ねばそれで終わり。考えるまでもない。そのあとのことなど、著者以外の誰かが背表紙に鉛筆でいたずら書きした、本の中身にまったく関係ない付け足しのように思われた。いかにも、この話はモーラの死によって終わるはずだった――シュロ自身のではなく。
 思えばハイデラバード軍の野営地でモーラを逃がそうとしたときから、一貫して自身の死はなにがなんでも避けられねばならない事柄ではなく、ただ浪費が憚られるというだけの、緊急時の非常手段のひとつであったように思われる。それは致命傷を防いで切り落とされる片腕のようなものだった。最後のページに記されている文末の結びではなかった。シュロは自分が死ぬ直前に見るであろう光景に、必ず生きたモーラの姿のあることを想定していた。それは終局の形ではなかった。
 自分があの骸骨の仲間になること、それは終わりではなかった。自身が本当に恐れて回避しようとしていたものに、シュロはこのときようやく気付いた。それは自分でなくモーラが、彼女が象徴するところのものが滅んでしまうことだったのだ。
 いや、自分だけではない。ひょっとしたらギンカとサウジーネもあのとき、シュロたちと道を別ってルビーに戦いを挑んでいったとき、同じ気持ちに駆り立てられたのではないか? ただ生還しても死ぬのと大して違わないから、あるいは老いが若きを生かすという単純な理由からそうしたのではなく、彼女らもまたシュロと同じく、他者に託して自身の命よりなお尊しとする、ある象徴のために命を捧げたのではないか……
 シュロはスープが煮えるのを待ってから、そろそろと立ち上がった。コッヘルと、水の入ったカップを持って、すっかり軽くなった背嚢を引き摺って、モーラの許へ向かう。足音が近づいてきても彼女は無反応で、ぼうっと地面の一点を見つめているだけだった。
「ほら、これ、食べな」
 向かいに座って、スープの入ったコッヘルと、半ば砕けた携帯糧食とを足許に置く。反応はない。
「水、飲むか」
 カップを顔の前に持っていっても無反応である。シュロはしばらく様子を窺って、彼女に両方とも手を付ける気配がないことを確認すると、持ってきた背嚢を引き寄せて言った。
「モーラ、切ろう」






 初めて反応があった。モーラがおもむろに顔を上げたが、そこにはなんの感情の反映をも読み取れない。なにについて言われたのかわかっていないのかもしれない。
「足、切ろう。切っちまおう」
 訂正。口も利けなくなるほど徹底的に痛めつけられた者が「今とどめを刺してやる」と言われたら、きっとこんな顔をするのだろう。さながら「絶望」という題で描かれた肖像画のようだ。
 今からすることがこれまででもっとも手痛い「再認識」の機会になるかもしれない、というのは百も承知だった。衰弱した身体で耐えられるかどうかという話なら、足の切断のほうがはるかに危険だということくらい、医者でなくてもわかる。比喩なしにとどめになる可能性は高い。
 それでもなにもせぬまま放置しておけば、モーラは夜の間に力尽きるかもしれない。仮に一晩なんとか耐えきったとしても、明日、そうでなくても明後日には死ぬだろう。いくばくかでもモーラを生かし続ける可能性があるとしたら、やはり足の切断しかない。そして体力、病態ともに刻々と悪化していく現状、やるならただちにやらなければ。いますぐ切らなければならない。
 モーラは長い間だまったあと「なんで?」と呟いた。
「どうせ死ぬのに」
「ほっとけばそれこそ、今夜にでも確実にそうなる。でも切れば、少なくとも今日、明日中は、生きていられるかもしれない」
「あさって死ぬために、切るんですか?」モーラの口の端が微かに持ち上がった。「そういうの、すっごく迷惑。イミわかんない」
「なあ、隊長とサウジーネにもらった命じゃないか。少しでも存えなきゃ……申し訳ないよ」
 論点を逸らしている自覚があるだけに、こんな科白は自身の耳にさえ虚しく響く。いかにも、実際に痛い思いをする当事者からすれば、シュロの提案など迷惑な独りよがりに違いはないのだ。
「あさって、なにか起きるんですか。わたしたち、助かるんですか」
 モーラに詰問するような調子はない。ただ淡々と無感情に、答えのわかりきっている質問を並べるだけ。
「あさっての朝には、竜に乗って、基地まで飛んで帰れるんですか。午後くらいには病院で治療してもらえて、夜はベッドで寝られるんですか、わたし」
「…………」
「違うんでしょ? バカみたい」
 反論のしようがない。モーラの言うとおりである。
 仮に足の切断がうまくいったとして、素人仕事ではとうぜん予後の保証などない。どのみち渇いて死ぬことに違いはなく、水があったとしても食料も乏しく、移動手段もない以前に靴すら欠いている。朝からしてきたように裸足で強引な徒歩行を続けたとしても、じきハイデラバード軍の追手に追いつかれるだろう。ここまでわかっていてなお、お互い覚悟を決めて足を切り落とそうと勧めているのだ。われながら生涯最後にして最大のバカをやろうとしている自信がある。
 しかしギンカとサウジーネだってあのとき、自分たちが捨て石になればシュロたちは必ず助かる、などと考えてはいなかったはず。あののちシュロたちがルビーに見つからずに済んだのも、ハイデラバード軍がちょうど救難要請の届く位置にいたのも、魔竜とデ・フェンテとの助けを得てここまで逃げて来られたのも、全てはひとえに幸運のなせるわざ。おそらくふたりには自覚があったはずだ。これほどの対価を支払ってまでしようとしていることも、しょせんは一時しのぎに過ぎないのだと。
 公平に言って、ギンカたちは犬死にする可能性のほうがずっと高かった。あのときモーラが「なんで? どうせ死ぬのに」と言ったとしたら、彼女らになにか説得力のある反論ができただろうか? いや、今のシュロみたいに答えあぐねて、黙ってしまったに違いない。あの人たちは嘘やごまかしが嫌いで、正直なたちだったから。
 ふたりは天上の存在ではなかった。あの不死者のような特別な力を持たない、どこにでもいる普通の、ただの善良な人でしかなかった。だから彼女らにできたのは、モーラの言う「バカみたい」なことだけだった。絶望の底の暗闇で血まみれの裸足を引き摺って、手探りで必死にあがき回って、黒々とそそり立つ絶壁を登るための、最初の足がかりを見つけること。それしかできなかった。
 それでもやったのだ。どうせ無駄だと諦めることはしなかった。シュロとモーラにほんの少しでも割のいい賭けをさせるために、自分たちの命と引き替えに、山札から血染めの一枚を配ってくれた。それで役が揃うかどうかは、もしそんなものがいるとするなら、神のみぞ知ること。そこから先はシュロたちの運命と努力とに属する事柄であり、ギンカたちの責の及ぶところではない。
(ギンカ小隊の隊士がギンカ小隊の流儀に従って、なにが悪い? できもしないことを思い煩う暇はない。私はこいつをあともう少しだけ、上に押し上げる、それだけ考えればいい!)
「なあ、モーラ」
 モーラがちらと顔を上げた。
「……私、バカだからさ、いろいろ考えてる間はそれで一杯になって、手も足も止まっちまうんだ。そうやって出した結論だって、いつもいつも間違ってる。だから」と言って、シュロは背嚢から件の箱を取り出した。「もう考えないことにした。すまん、もういちどお前を荷物あつかいする。抵抗するならしろ。恨め。もしできそうなら終わったあと、どこでも好きなところを好きなだけ殴れ。でも私は、お前の足を切る」
「…………」
「今すぐに。まだ手元が明るいうちに、日が落ちる前にやっちまいたいから」
「シュロさん」
 モーラの声は独り言のようだった。
「わたし、シュロさんのこと、どうでもいいんです」
 準備をする手が止まる。
「シュロさん、わたし、アンダーを探すために、あそこから出てきたんです。自分ひとりじゃ歩くことも、できなかったから、だから都合がよかったから、シュロさんについて来たんです。自分で、決めたんです」モーラは背を岩に預けて、虚空に向かって続ける。「シュロさんのことなんか、わたし、これっぽっちも、考えてませんでした。もし、アンダーに逢えたら、わたしきっと、シュロさんを放って、彼についていきます。シュロさんのこと、わたし、どうでもいいんです」
 あえて今このようなことを明かす彼女の底意はわからない。しかし内容とは裏腹に、少なくともそれは非難ではないようだった。
 ゆうべ寝入りしなにモーラの言葉を聞いた気がしたのを、シュロはふと思い出した。違うんですよと言っていたのを。自分は自らの意志でこの道を選んだのであって、シュロに引き摺られて嫌々従ったのではないと、彼女はそう言いたいのだろう。
「だからシュロさんも、わたしのことなんか、考えないで下さい。考えてるフリなんか、しないで下さい。わたしたち、利害が一致したから、協力してるんです。わたしはシュロさんの荷物じゃない」
 捉えようによっては「自分のことなど放っておいてくれ」とでも聞こえる科白だが、そうではない。モーラはいま自分がしたのと同じことをシュロにも要求している。今までしてきたこと、そしてこれからすることがなにに依拠しているのか、ごまかさずにはっきりさせろと。
 シュロはひとつ頷いてから、黙って準備を再開した。
 ひとしきり箱の中に眼を落として唸る。蓋裏のポケットに手術の手順を記した説明書きが入っていたのだが、その内容が医者の指示とは思えないほど粗放きわまるのである。急場の限られた時間で物したのであろうそれには、かろうじて足とわかる絵図と、これをこうしろ、そこはああするなといった程度の、簡素この上ない箇条書きが羅列してあるだけだ。かかる窮地にあってないよりはどれほどましか知れないが、こんなものを頼りに人の足を切断するはめになろうとは……
 注射器の包装を破りながら、シュロはようやく「わかったよ」と答えた。
「お前のためじゃない、私は私のために、お前にこうする」
 注意書きを流し読みした限り、二本ある注射は手術の最初と最後で使用することになっている。血流遮断の前に一本、創面焼灼の前に一本。おそらくこれは麻酔だ――安堵のあまり吐いた息が震えるほどだった。これで術中と術後数時間の激痛からは解放されるだろう。今のモーラの命を脅かすとしたら、出血よりもそちらのほうがずっと深刻だ。
 面を上げると、モーラの視線が待っていた。
 数日来のつらい逃避行になにもかもを削ぎ落とされてしまった中で、いまだに彼女の眼だけは、ある失われ難いなにかを堅持している。いまその中に見ているものを、モーラのほうでも私に認めてくれているだろうかと、シュロは思った。
 モーラは確かに絶望の底に立っていた。血を流し疲れ果てて支えも失い、明日の命も知れず、倒れないでいるだけで精一杯だった。しかしその右足は黒々とそそり立つ絶壁の、ひとつの岩の突起にかけられていた。彼女はもう地面を、足許に転がった骸骨を見つめてはいなかった。モーラは上を向いていた。ギンカとサウジーネがあの日、圧倒的な敵を前にしてきっとそうあったように。
「お前をなくしたらもう、私にはなんにも、残らない。私にとってお前は、ギンカ小隊そのものなんだ」シュロは涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。「お前は私なんだ、私たちなんだ。ルビーが、くそったれな現実が奪い損ねた、私の最後の一点なんだ。だからこうする」
「…………」
「……好き勝手言うなって、思ってるだろ。他人事だと思いやがって、痛い目見るのは誰だって」
「思ってます」モーラは力なく笑った。「ふざけんなバカって、思ってます」
「なんとでも言え」シュロもつられて笑った。「バカの一念だ、最後の最後まであがくぞ」
 モーラはシュロの持ってきたカップを取って、中身を飲み干した。そうして幾度か静かに深呼吸したあと、右足に巻き付けられた上着をゆっくりと解き始めた。
「借りを返してこいって、言ってましたね」
「え?」
「作ってばっかりだ、わたし……」
 シュロの前に見るも無惨な、かつて人の一部だったはずのものが差し伸べられる。目鼻から入ってくる強烈な印象を顔に出さないよう、シュロはそっと舌を嚙んだ。
 ややあってモーラが促すように「やって下さい」と言った。




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