カウンターに置かれ、今か今かと待ち続ける一杯の酒。
不意にそれを掴む右手、男の手だ。大きく広い、研磨された岩石を思わせる硬く鋭い、拳。
白いスーツを小粋に着こなし、僅かな隙すらみせず、唯々椅子に腰かけ、香りを楽しんでいる。
大人と見るには少々若く、青年と断定するには大人の老獪が滲み出る、隠された獣性が見え隠れする奇妙な男だ。
小刻みに揺れるグラスの水面に映る、緑の眼。何が見えるのだろう、その先には。
硝子の器を傾ける、流れ込む熟成された歴史。何よりも代えがたい一瞬の快楽。
喉を滑らかに滑り落ちていく命の水。まさに人生を生きてゆく上で、欠かせない人間の必需品だ。
グラスの内の黄金の海に漂うのは、純粋な水の結晶。それが緩やかに溶けてゆく様は、何とも言えぬ静粛な気分に浸れる。
俺はこれを飲むために生まれてきのだ、と言っても大袈裟じゃあない、至福の時間だ。
楽しき時は早く過ぎ去る、空になったグラスは氷を残しカウンターに置かれる。
店主はなにも言わず、沈黙ともに静かに酒を注いだ。
満たされた器に広がる小麦畑は香しい情景を思い浮かばせる。
ああ。最高だ。
俺の貧弱な感性じゃ、この感情を表す言葉が、見つからない。
無理矢理当てはめるならば『人生最高にして最良の日』とでも言わねばならん。
全く、全く、最高だ……………少し酔ったか。
ふと、店主を見た。何やら青い顔をしながら、電話に向かって叫んでいるようだ。
「強盗が入った」「六人」「全員殺された」「白服の男」「警察を呼んでくれ」「早く早く早く早く早く早くしてくれ!」「俺も殺されそうだ」「犯人? 今、酒飲んで今俺を見てるんだよ!」「次は俺の番だ」「殺さないでくれ!」「金はやる、命ばかりは助けてくれ!」「神よ」「俺はまだ死にたくない」「人生史上最低で最悪の日だ」「畜生」「最後に娘の顔を見ておくんだった…………」
馬鹿も休み休み言え。お前を殺す理由がどこにある、これっぽっちもないさ。
今はいい気分なんだ、邪魔してもらっちゃあ困るな親父。まだ二杯も飲んじゃいねぇのにこれだから堅気はいけねぇ、しゃあねェ面倒事は嫌だ。行くか。さらばだモーガン『また』来るぜ。
「親父」
ひぇ、と情けない声を上げ身を強張らせる店主。
「とっとけ」
カウンターに置かれる一万J札五枚。
男は急ぐ素振りは微塵も感じさせず、おもむろに席を立つと、悠々と出口に向かう。
急ぐ素振りもなく、歩む。邪魔をする者などなく、邪魔をするも者などいない。もしいたとしても、始末するだけだろう。
彼にとっては、それも楽しい楽しい暇潰しに過ぎないのだから。
足取りは軽く、今しがた6人の人間を撲殺とは思えず、口笛すら吹いている、歌うように、
「I'mThinker, Tur,Tur,Tur,Tur♪」
さァて、どこへ行こうか? 何処にでもいける。何処にだっていける。
道なき道を行き、おれが通る道が道となる。後悔? 躊躇? ないねそんなものは。
俺は好きな様に生きる、そうでなきゃ人生面白くも何ともない。
例え目の前で、幼い子供が餓死してようが、四肢を吹き飛ばされた兵士がのたうち回っていようが、愛国者が祖国を湛えていようが、癌に侵された重病人が世界の中心で愛を叫んでいようが、貧者の薔薇の毒に侵され腐って死のうがどうだって良い。
俺にとっちゃあ、それだけの事。
他人の不幸は、俺の幸福にはならないんだからな。
見る必要はない、聞く必要はない、感傷する必要もない。
お前らは、俺じゃあない。
俺は、お前らじゃあない。
感性も、感情も、理性も、本能も、思考も、趣味も、狂気も人によっては全く違う。
俺は好きな様に生きるのさ、人間はいつか死ぬんだ。面白おかしく笑って死ぬんだ。
そうとも、俺は俺だ、阻む者などなく、阻むものは、全員殺す。
男の手が扉のドアノブへ手を掛けた。彼は何処へ行くのか? それは彼にも分らない、狂気と理性をが望むままに。
「…………ま、待ちやがれ………………イカレ野郎」
あん?
首だけ振り向いた先に銃を手に,殺意を飛ばすは、怒れる男。
全身打撲を受けた痛みを身体の底から湧き出る激情で抑え込み、これ以上ないと思われるほどの握力を発揮し拳銃を握りめていた。
ドク・ランセルは良いやつだった。下品な洒落で場の空気を変える稀有な才能を持っていた。
ローランは昔ながらの喧嘩友達だ、俺より喧嘩が上手く、女に良くちょっかいを出して、追いかけられていた。
強盗計画の発案者、ロウ。俺の初めての友達だ。
ボン・ルーと共に酒飲んで夢を語り合った事は今でも鮮明に覚えている。
アルベルト。気弱だが気の利く、本来は巻き込むつもりはなかったが「自信を着けたい」と言って、俺に土下座までして仲間に入れてくれと頼みこんだ、すまない。
てめぇは。
てめぇだけは許さねぇ。
銃向けられてんのに、にたにた、けらけら、笑いやがって。
「殺してやる、ぶち殺してやらァ!」
声を荒げ、放つ咆哮。
白服の男は逃げる訳でもなく手を掛けたまま、笑う。唯々笑う。笑い続けた。
「最後に言い残すことはねぇか?」
男は言った。
お前は、俺を止められるのかい?
完全に閉められた扉は動くはずのないものだ、動くはずなどないのに。
みしり、と音がした。無理矢理こじ開けられた金属の悲鳴。
この扉は外側に開くのだ、内側に開かない、その筈だ。
強靭なフレームが捩じられる、純粋な力によって。
はじけ飛ぶ蝶番とネジ、金属疲労をおこしへし折れるドア枠、店主の悲鳴。
からん、と本来の役目を果たす事ができなくなった呼び鈴が落ちる。
逆光が眩しく顔は良く見えないが、おそらく笑っているのだろう。
彼は。
…………冗談……だろ?
完全に沸騰した頭が急速に冷却されていくのを、感じた。唖然とするしか彼にはできなかった。
男は歩む、扉を片手にさも軽々と、右手に鞄を鬻げる様にして歩む。
「おメェはさぁ、今こう思ってんだろ。この俺を殺せるッて……そうなんだろ?」
歩む。
「そりゃあ、そうだ。俺が持ってんのは唯の扉で、お前が構えてんのは銃だ」
歩む。
「普通に考えれりゃあ、俺は死ぬ。だが待てよ? 万が一俺がテメェを『コレ』でブチ殺すッてェ事もない事もないだろうなぁ……おメェさんはどう思うよ? 意見を聞かせて欲しいね」
歩む。
「なぁ」
歩む。
「聞いてんの?」
歩む。
歩みが止まる。眼前に立つ白服が悪魔に見えた。
かち、かちと歯の根が鳴る。手に持つ拳銃が玩具に見えるほどだ。目の前に立つ男は、一言でいうならば「異常」だろう。
ありえない。何故。何故。何故。
「人生は選択の連続だ、自分の命を賭けて決めなきゃならない事がある、今がその時さ、にィちゃん」
待て、来るな、寄るな、よせ。
「俺を殺して、生き延びるのか。それとも諦めるのか…………選びな……3秒やる」
「3」
此処で銃を捨てれば俺は生きられるのかも知れない、そう「かも」なんだ。こいつは選べと言った、諦めた所で俺を殺すのではなかろうかと言う思いが燻る。いや、待て待て待て、今ここで諦めてどうする? こいつは俺の友を全員殺しやがった、ここで殺してやった方が世の為になるってもんだ。だがこいつは素手で扉を引き剥がす様な化け物だ、おそらく、いや絶対に至近距離から銃を撃ちこんでもこいつは死なない様な気がする。死なねェな。どうするどうするどうする、時間はたったの三秒だ。俺の人生上最も頭が回転しているに違いない。やヴぇぞどうするんだよ俺。
「2」
とか何とか考えている内に一秒たったぜ、これが所謂走馬灯というものだろうか? 時間の流れが遅く感じるのは何故だろう? ああドク・ランセル、ローラン、ロウ、ボン・ルー、アルベルト、今俺もそっちに行くぜ?。こいつを殺してからな、はははははははっははははあはあっはは、もうどうにでもなれ、そういう事だイカレ野郎。死ね。
「1」
不意に、場違いな音が鳴り響く。それは男の白の上着から出ている。
男と白服は佇むばかり。動かず、動けない。シックな店内には場違いな携帯の着信音『ゴッドファーザー』だ。
酒場の店長モーガン氏はこれから起きる惨劇を見たくないのだろうか、カウンターの後ろに隠れてしまった。賢明な判断であろう。素人が手を出すには危険すぎる。
唯々、闇雲に時間が過ぎていく。ふと。
「少し、待った」
白服の制止、それは撃つなと言う事だろうか? それもそうか、電話にでなければいけないのだから。
左手を懐へ、弄り電話を取り出した。黒い棺に似た武骨な、飾り気のない電話だ。
通話ボタンを押し、耳へと中てる。
「ハロゥボス? あァ? なんだと妖怪ババア――――解ったよ、行きゃあいいんだろ、行きゃあ」
電話を切り懐へ、戻す。
「残念だがヤボ用できたんでだ、おれぁ帰る」
右手に持った扉を放り投げ、椅子と机を巻き込みばらばらに砕けた。男は至極残念そうに、息を吸い、大きく吐き出した。
何が不服なのか、ひどく納得しかねる態度で、扉へと歩み始めた。
俺は、助かったのか? 強盗犯は心底安心したかの様だ。だが未だに心底に残り続ける、憤怒の感情。今ならば殺せる、撃つべきだと思い、拳銃を白服へと向けた。
白服の歩みが止まり、男は言った。振り返らずに。
「続きがしたいのかい?」
低い声、だが確実に男の耳に届いたはずだ。勝てる気がしない、殺せる気がしない、がちがちと鳴る歯の根が止められずに男は、銃を構えたまま、立ち続けた。
油汗に滲む引き金が今にも滑り、今にも撃ってしまいそうだ。撃ってしまったならばそこでおれの人生は終わるのだろうか? そう考えた。死ぬのは嫌だ、と。
拳銃を放り捨てる、放物線を描き、重力に従い、二回三回と回転してやがて止まる。
銃のない手を見た、何もない手だ。銃を捨てたのだから在る訳がない。
死にたくない、だが許したくもない、だから。
何もない、だから拳を握る。硬く、硬く握り絞める。戦う為に。
「勝負だ、かかって来い!!!!!」
野犬の咆哮、何も持たぬ者の故の強さ、失った者の強さ、相手はバケモン、上等だ、一発入れてやる。
白服が振り返る、その顔はなぜか笑わずに何故か、引き絞られた弓の如く相手を見据える。
良い眼だと思った、戦士の眼、人間の眼、立ち向かう者の眼。久しく見ない良い眼だ。
男は何も言わず、佇むのみだ。それは了承したという事だろうか。
白服は佇み、男は拳を構える。
そして、始まり、終わった。一瞬の闘争劇。
強きは生き、弱きは死ぬ。これぞヨークシンの流儀。世の真理。勝者は大手を振って門を通り。空を見る。
ヨルビアン大陸最大、最高水準の世界都市にして金融、商業、文化、ファッション、エンターテインメント。様々な分野のトップをひた走る超国家サヘルタの中枢。
多国籍飛行船が飛び交い、あらゆる人、あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる主義が自分のエゴを貫く為に闘争を繰り広げる。運命がカードを撒いた、そして俺らが勝負する。
俺は傭われ、戦争、戦闘、近所の夫婦喧嘩から、国際紛争までなんでもござれの風来坊。
俺はフィンスキー。バウンサー〈用心棒〉フィンスキーだ。