「……うーん」
涼花さんの呼び出しを仰せ付けられた次の日の朝。
山百合会で交わされた会話の流れをざっくりと説明すると、涼花さんは少し難しい顔で唸っていた。
「やっぱり嫌?」
「別に嫌ではないんだけどね」
にべもなく断られずにすんで、菜々はとりあえずほっとしていた。
いくらお姉さま方の頼みとはいえ、『行きたくない』と言う人を無理に連れて行こうとは思っていなかった。
とはいえ、受験組のこの友人にとって、山百合会は特に憧れや羨望の場所という訳でもない。
涼花さんは「山百合会ねえ」と首を捻って呟く。どうやら答えを迷っているようだ。
「行ってお話すればいいの?」
「多分……」
正直、何をするかは菜々もあまり分かってない。
祐巳さまの言葉をそのまま受け取ると、ただ会ってみたいだけなのだろうけど。
「お話かあ」
何か思いついたように涼花さんはこっちを見る。
「粋な小噺は用意していくべきかな?」
涼花さんが小噺をした時は笑ってあげようと菜々は思った。
マリア様がみてる アフター 3話
「涼花さん、ミルクやお砂糖は?」
「えーと、砂糖一本とクリーム2つで」
涼花さんはそう言うと、菜々が持っている籠からひょいひょいと目当てのものを取っていく。
「甘党なもので」と一言添えて、砂糖とミルクを入れていく。
紅茶の色は、淡く透き通った茶色から、不鮮明なベージュ色へと変わっていた。
――――涼花さんに話をしてから3日後の放課後、薔薇の館には薔薇ファミリー全員が揃っていた。
どうぞどうぞ、と紅薔薇さま直々のエスコートでテーブル真ん中の席に案内された涼花さんは、ベージュ色になった紅茶を口にして「ああ、とてもおいしいです」と、笑顔を浮かべていた。
一般的には、見知らぬ上級生の集団に囲まれたら緊張の一つもするものだが、この友人にはそんな様子は全くない。
でもまあ自分もそうだったかな、などと思いつつ、菜々は涼花さんの右隣の椅子を引いて腰をかける。
全員着席したのを確認すると、「それでは」と祐巳さまが口を開いた。
「初めまして……かな。紅薔薇さまの福沢祐巳です。今日は来てくれてありがとう」
「天知涼花です。とても緊張していますがよろしくお願いします」
「とてもそうは見えないんだけど……。黄薔薇さまの島津由乃です。菜々の姉です、よろしくね」
「白薔薇さまの藤堂志摩子です。お呼び出てしてごめんなさいね」
薔薇さまの次は瞳子さま、乃梨子さまと自己紹介は淀みなく進んでいく。
「ご存じだとは思いますが、黄薔薇のつぼみの有馬菜々です」
最後に菜々が言い終えると、涼花さんは可笑しいようにフフッと笑う。
「ごめん、黄薔薇のつぼみはちょっと忘れてた」
「……」
何回か言っただろうに、と菜々は眉をひそめて恨めしい視線を送る。
「ふーん、山百合会には全然興味ないんだ」
お姉さまが突っかかるように口を尖らせる。
全く関心のない様子にカチンときてしまったのだろうか。
「ああ、いえいえ、物覚えが悪いもので」
少し焦った様子で否定する涼花さんに、「本当に~?」と絡みを続けるお姉さま。
菜々が諫めようとする前に、祐巳さまが「まあまあ」と涼花さんを助けに入る。
「涼花ちゃんは受験組なんだっけ? 学校はもう慣れた?」
「ええ、だいぶ慣れました。まだ勝手が分からない所もありますけど」
「勝手が分からなくて、マリア様へのお祈りも忘れちゃったり?」
「由乃さん、ちょっと……」
今度は志摩子さまがお姉さまを窘める。
「ハハハ、いやあうっかりしてました」
涼花さんは頭をポリポリとかくと、左隣に座っている瞳子さまへ「その節はすいません」と頭を下げた。
「堅苦しく感じても、しきたりは守った方があなたの為よ」
「仰る通り。でもあれのおかげで瞳子さまとお知り合いになれました」
「……反省していないようね」
やれやれ、と呆れた感じで瞳子さまは苦笑する。
「でも元々瞳子ちゃんと知り合いかだったかもしれないんでしょ?」
「私が一方的に知っているだけかもしれないですが……お姉さま?」
言葉の途中で、気付いたように瞳子さまは祐巳さまを見る。
菜々も反応して祐巳さまを目で追うと、神妙な面持ちで何か考えているように口を手にあてている。
図らず志摩子さまに視線を流すと、祐巳さまほど表情に出てはいないがこちらも思案中の様子だ。
「二人ともどうしたのよ」
「私も、なんか涼花ちゃんの事見たことある気が……」
「祐巳さんも? 実は私も」
薔薇さまの二人が瞳子さまと同じ事を言い出した。
志摩子さまは隣に座っている自身の妹へ聞いてみるが、乃梨子さまは「私は特に……」と答える。
これで祐巳さま、志摩子さま、瞳子さまの三人が既視感を感じた事になる。
三人に何か共通点はあるだろうかと菜々は思案するも、特に思い及ぶものはなかった。
そもそも2ヵ月弱のお付き合いでは、材料自体少ないのだけれど。
「3人に共通点とかあったっけ」
材料がたくさんあるお姉さまも何も浮かばないようだった。
「芸能人に似ている人がいるとかじゃない? 涼花ちゃん、誰かに似てるとかは言われない?」
「芸能人……うーん、ないですね」
確かに涼花さんは芸能人と言われても不思議でないほどには顔が綺麗に整っている。
しかし、誰かに似ているかと問われると、菜々にも特に思い当たる人物は出てこなかった。
「まあ、その件はいったん置いといて。涼花ちゃんは部活とかには入ってるの?」
「いえ。入る予定とかも特にないです」
「運動は好き? 剣道はどうかしら、絶賛募集中よ」
お姉さまはここぞとばかりに、自らが副部長を務める部活へと勧誘を行っている。
確かに剣道部に関してはそれほど人数が充足しているわけではない。
経験者とはいえ、新入生の菜々が団体戦に入れてしまうかもしれない程だ。
ただ、涼花さんが入るかどうかと言われれば、その可能性はほとんどない事を菜々は知っていた。
「いやあ、運動は嫌いじゃないのですが、ちょっと無理ですね」
「どうして? 経験が無いとかなら気にしなくていいのよ。私なんか未経験で2年生の途中で入ったんだから」
それは珍しいパターンだからあまり参考にはならないのでは、という意見は胸にしまっておく。
涼花さんは、いえ、と一言声を出すと、左手で持っていたティーカップを右手に持ち変える。
右手で宙に浮かせたカップは、僅かだけれど目に見えて分かるようにカタカタと震えていた。
「結構前に怪我をしまして、まだ完璧には動かないんです」
「あっ……ごめん」
「ああいえいえ。もう日常生活ならわりと不便はないんですよ」
涼花さんは、ほら、と手を回転させたり指を順々に曲げて見せたりする。
ぎこちなさは見えるものの、確かにそれだけ動けば大丈夫かなと思える動作ではある。
「治るのに時間はかかるの?」
心配げな表情で志摩子さまは誰もが思っていた疑問を口にする。
「時間というか……完全に元通りってのは、ちょっと難しいみたいですね」
涼花さんの言葉に空気が重くなるのを感じる。
シーンと会話が止まってしまう。みんな何を話せばいいか分からないようだ。
「カップ1つ持つのにこれだと、竹刀じゃ1分と持たないかも」
そんな中、涼花さんはこんな空気は慣れているかのように軽口を叩く。
こうなるまでまでがセットだと、分かっていたかのようにカラリと笑って。
「というわけで、タイが曲がっていたのもこれのせいなんです」
「まあ」
瞳子さまがクスッと笑うと、伝播するように雰囲気が和やかになる。
触れても問題ないと示唆する涼花さんと、それに応える瞳子さま。
この二人は合うかもしれないな、と菜々は思うようになっていた。
その後はしばらく涼花さんへの質問タイムが続いていた。
中学校はどちらに? 得意教科は? 趣味は? ご家族は? 等々等々。
表面上の会話ではあるけれど、涼花さんも薔薇さま達も楽しそうな顔をしている。
「それで祐巳さん、お願いしたいことがあるのでしょう」
あらかた質問が終わった所で、志摩子さまが祐巳さまへ促した。
菜々は知らないけれど、やっぱりお話以外にも目的があったようだ。
「あ、そうそう! ねえ涼花ちゃん、もし良ければ山百合会を手伝ってくれないかな」
「や、山百合会を?」
ずっと淀みなく質問に答えていた涼花さんが、今日初めて狼狽えていた。
「山百合会は人員不足でね」
ため息混じりにお姉さまが付け加える。
「私と菜々は剣道部で瞳子ちゃんは演劇部。只でさえ人数がいないのに人がとられちゃうのよ」
確かに、山百合会だけに力を注げられるのは祐巳さまと白薔薇姉妹だけだ。
「うーむ……」
涼花さんは腕を組んで唸っている。
YESかNOかで迷っているのか。NOありきでどのように断るかで迷っているのか。
菜々の予想だと完全に後者になるのだけど。
そんな様子をみて、祐巳さまは優しく笑う。
「気が進まない?」
「あ、いえ……。ちなみにそれって、山百合会の一員になるとかなんですか?」
「あ、ううん。そういう訳ではないよ。ボランティアって感じかな」
「お手伝いを通してそういう関係になってくれても構わないけどね」
お姉さまは悪戯心を表情に浮かべて瞳子さまへ顔を向ける。
何かしら反応を期待していたのだろうけど、瞳子さまは心ここにあらずといった感じで何のリアクションもない。
思い返すと、瞳子さまは途中から会話にほとんど参加していなかった。
「瞳子……?」
隣に座っている乃梨子さまが瞳子さまの肩に手をかけて軽く揺する。
それに気付くと瞳子さまは、「え、あ、はい?」と珍しく冷静さを欠いた声をあげていた。
「心がどこかにお散歩でもしてたのかな?」
「お姉さま……すみません」
瞳子さまは落ち込んでいるともまた違う、複雑な表情で謝罪する。
「……時間も時間だし、今日はもう帰ろうか。涼花ちゃん、良ければ考えてみてよ」
「あ、はい。考えておきます」
祐巳さまの言葉にめいめいが帰り支度を始める。
「小噺を披露できなかった……」
残念そうにボソッと呟く声が菜々の耳にギリギリ入ってきたけれど、聞こえないフリをした。
「あ、お姉さま!」
薔薇の館の片づけを済ませ、みんなで銀杏並木を下校していると、校門で佇んでいる人影にいち早く祐巳さまが反応した。
「あら、ごきげんよう、祐巳」
その人はまさしく、先代紅薔薇であり、祐巳さまのお姉さまである小笠原祥子さまであった。
姿を確認すると、他の皆さんもごきげんようと祥子さまへ挨拶をしていく。
最後に菜々がごきげんようと頭を下げると、みなさんごきげんようと祥子さまが微笑んだ。
ふと涼花さんを見てみると、後ろで立ち止まり顔を俯いて視線を祥子さまから逸らしている。
どうしたのだろうか、人見知りするようなキャラじゃないはずだけど。
「涼花ちゃん、きて!」
菜々が訝しんでいると、祐巳さまは涼花さんの手を取って前へと招いていった。
「紹介するね。こちら小笠原祥子さま。私のお姉さまです」
紹介されても涼花さんは変わらず俯いたままだ。
完全に様子がおかしい。いったいどんな表情をしているのだろうか。
「お姉さま、こちらが」
「まりあ……御園まりあよね?」
祐巳さまの言葉を遮って、祥子さまの口からいきなり別の名前が飛び出した。
菜々だけでなく、ここにいる全員が驚いていただろう。
なぜならその『御園まりあ』という人物を、皆知っていたのだから。
「……やっぱわかる?」
涼花さんはずっと俯いていた顔をあげ、祥子さまと目線を合わせる。
「久しぶり、さっちゃん」
涼花さんの笑顔は、これまでになく無理して笑っているように見えた。