三番街の東の通り。
ろくに日当たりを考えられず、ぎゅうぎゅう詰めで建てられた建物の密集地帯の、その中では比較的に日光の届く場所。
風が吹けば埃が舞う小汚ない道を、二人の少女が歩いていた。
一人は青みがかった黒髪を短く切り揃えた少女だった。
小柄で体の線は細いが、その歩みはしっかりとしていて、面立ちからは利発そうな印象を受ける。
方やもう一人の少女は黒髪の少女と対照的にすらりと身長が高く、シルエットは女性らしい柔らかな曲線をしていた。
金色をした髪は螺旋しており、とてもとは言えないが一人でセットするには困難そうな髪型だ。
黒髪の少女は、名をアネッタといった。
姓はコネロンといって、この国ではさして珍しくない名前であった。
彼女は時折目線だけを空にやって、気まずさをやり過ごしていた。
というのも、アネッタは隣を歩く金髪の少女に苦手意識を持っていたからだ。
エカテリーナという名の後にとてつもなく長いファミリーネームを持つ金髪の少女は、所謂貴族令嬢というやつで、アネッタにとってはここ半生以上もの間関わりのなかった人種だった。
「ただ街を歩くだけでも、爺ややメイド達に黙ってお忍びとなるとまるで冒険をしているみたい。ふふ、ドキドキしてしまいますわね?」
「ええ、はい。でも、私の家はそこまで厳しくはないので」
「あら、そう?」
歩いている途中、微笑みかけてきたり他愛のない言葉を投げ掛けるエカテリーナに、その都度アネッタはぎこちない笑みで返答した。
作り笑顔とは存外神経を使うものだとアネッタは辟易とする。
さて、アネッタが何故このような心労を味わうハメになったのかと言えば、単純に下町遊びに誘われたからだ。
彼女達はこの街にある魔法学院の生徒だった。
魔法学院がどのような場所であるか。というのはこの場においてさして重要ではないので割愛するとして、彼女達が通っている学院の生徒はそのほとんどが貴族の子息で構成されている。
アネッタはその中の少数にあたる一般家庭の出で、才能のある人間を特別入学させる数少ない特待生枠の人間だった。
『ああ、お腹が痛い』
少数派に属するアネッタはの肩身は狭いものだ。
勉学自体は好きな彼女であったから、学校生活そのものに不満はないのだが、いかんせん今まで接点のなかった貴族の人間たちとの共同生活は息苦しく、窮屈であった。
彼らの機嫌を悪くするわけにはいかない。
鶴の一声で簡単にアネッタの立場は揺らいでしまいかねないのだ。
そう考えると距離を置きたくなったり、苦手意識が芽生えてしまうのは、帰結の一つとして当然にあった。
「この服、この間こっそり買ってしまったの。どう? 上手く溶け込めているかしら?」
「いや、街を歩くのにその服は、あぁ〜‥‥‥いえ‥‥‥すごくお似合いです」
エカテリーナはその中でも、第一級の警戒対象だった。
彼女の位は学院にいる貴族達のなかで飛び抜けて高く、先輩達はおろか教師達であっても道を譲るほどだ。
そんなエカテリーナに目をつけられでもしたら、この先の学院生活はおろか人生が真っ暗になりかねない。
そのような危険人物から外出に誘われたのは今日の中天の頃であった。
アネッタは、意図はわからないものの、ただ首を縦にする以外何もできなかった。
しばらく歩いているうちに、二人は開けた道に出る。
「アネッタさん、そろそろでしてよ!」
まるでご機嫌なエカテリーナは、アネッタに弾んだ声をかけた。
何が愉快なのかわからないが、機嫌を悪くされるよりははるかにマシだなと割りきって曖昧な相槌をうつ。
家を出る前、呑気に服のお使いを頼んできた頼りにならない兄を一人呪いながら、アネッタはこの時間がはやく終わることを祈った。
二人がたどり着いたのは宿屋や酒屋が並ぶ通りで、中流家庭の出のアネッタはまだしても、エカテリーナには馴染みがないような場所だ。
特にここいらの人間層と言えば迷宮(ダンジョン)に潜るような探検者が生活拠点とするような地域だから、彼女のようないかにもなお嬢様な人間がいると、ちぐはぐな印象を強く感じた。
迷宮。
アネッタはその場所について詳しくは知らないが、この世界にいくつも点在する未踏の地帯というぼんやりとした知識はある。
ちなみに言えば、トレジャーハントに迷宮に踏み込む人間のおおよそは、その日暮らしの享楽者で粗野ながさつな人間というのが多くの人の共通認識であった。
こんな場所にどうして?
まるで田舎から出て来たおのぼりさんのように、周りをキョロキョロと警戒しながら歩く。
と、アネッタは道の隅に人だかりが出来ているのを見つけた。
好奇心で、目を凝らす。
そこには、一人の青年が立っていた。
黒い髪の中肉中背の青年で、白いシャツと藍色のパンツを身に付けており、その手にはその背丈の 3分の1程度の大きさの何かを持っている。
人混みの隙間から見えたそれは日の光を反射させており、黄金色をしていた。
複雑に婉曲した形。細かな装飾と仕掛けらしき金具。
よくよく見ると青年は紐で首からそれをぶら下げており、流石に黄金の塊を持っているわけではないとはわかるが、審美眼をもっていないアネッタでもそれが高価なものではあると見てとれる。
人混みは彼を囲むように弧を描いており、アネッタはそれを見て青年が探検者達に手に持っているものを、強請られているのだと思った。
こんな場所であんなものをこれ見よがしに持って何を考えているのだ、とあきれ混じりの怒りも覚えた。
「エカテリーナ様!」
アネッタが名前を呼ぶと、エカテリーナは力強く頷き、そして足を踏み出した。
アネッタは自分が助けに行くつもりで、いわば「私が行って止めてきます」といったニュアンスで言ったつもりだったので 、エカテリーナが動くことは誤算であった。
だが、正直なところ助かる。
アネッタには一人であの人だかりを全てどうにかできるほどの力はない。
しかし、エカテリーナにはできる。アネッタの学んでいる魔法より、ずっと先にある叡知を彼女は身に付けている。
戦力の話でいうなら、アネッタの知るなかでエカテリーナより頼りになる人間はいない。
「え? ちょっと、エカテリーナ様? 助けに行くんじゃ‥‥‥?」
その筈だった。
アネッタは情けない声をだして、エカテリーナの取った行動に目を疑った。
エカテリーナは近くにあった花壇の所まで行くと、何のつもりかそこにハンカチを敷いて座り込んでしまったのだ。
「さぁ、アネッタさんもどうぞこちらへ」
その上、甲斐甲斐しくも自分の隣にもう一枚ハンカチを敷いてアネッタを呼ぶ始末だ。
「嘘でしょう……?」
アネッタは頭痛がして、ふらりと立ちくらみを覚えた。
どうやらあのご令嬢様は見物を決め込むつもりらしい。
アネッタは眉間に皺を寄せた。
強い憤りを覚えた。そして同時に,裏切られたような暗い悲しみと失望を。
「ええ、いいです。わかりました。元々は私がやるつもりでしたから」
かくして、アネッタは歩き始めた。
彼女の感情を表すように、体から湯気が上がるようにマナの放出が始まる。
大きい火柱を出せば彼らは退くだろうか、いいやそれだったらいっそ火の玉をぶつけた方が脅しになるか。
剣呑な考えをしながらアネッタは歩みを進める。
歩みが止まったのは“その音”が聞こえた時だ。
“パー”
と、突然鳴り響いた音が彼女を止めた。
軽快で、それでいてとても透き通った、はじめて聞く音。
そしてその音は瞬く間に彼女の心を掌握する。
さて、音楽が始まった。
いくつもの音が連なり、メロディを作り上げる。
時に水面へ雫が落ちたように神妙に、時に馬が蹄を鳴らして駆けるように爽快に、そして時に大鷲が大空を飛ぶように雄大に。
音の連鎖は鼓膜からアネッタの心に容易く入り込むと、その感情を大きく揺さぶり続けた。
何度も何度も音は彼女の体を突き抜ける。
どれだけのメロディが走り抜けたのだろう。
音が鳴り止むと、アネッタは自分がずっと棒立ちだった事にようやく気がついた。
少しの間静寂があって、オオ、と歓声があがり、奇しくもそれがアネッタの体の硬直を解く事になった。
拍手が青年に向けられている。
「もしかして、あの人達って」
ここにきて、人だかりが青年が出す音色を求めて集まったものなのだったとアネッタは悟った。
よくよく注意して見ると、彼らの表情は一様に明るかった。
振りかえると、目を瞑っていたエカテリーナが瞼を開けるところだった。
二人の目が合うと、エカテリーナの瞳は自分の宝物を見せる子供のように輝いていた。
つまりエカテリーナは、アネッタにこの音を聞かせるためにここへ連れてきたのだ。
でも、どうして?
アネッタはエカテリーナの意図がわからず、ただただ戸惑った。
先程の余韻もあり、頭がふわふわとしているのもある。
「え~、さっきのは花のワルツって曲。出だしっから即興のアレンジがあったから、まぁぶっちゃけ原曲からけっこう離れてるけど」
例の青年が喋りだし、アネッタの意識は再び人だかりの中心へ向く。
首からぶら下げていた物の位置がかわっていて、今は頭の部分肩に乗せられてあった。
ああ、あれがあの’音’を奏でていたのだ。
青年を囲んでいた人々は”今までで一番好きかも”だとか”俺は前のほうが迫力があって好きだったけどな”だとか言って語り合っていた。
彼らは常連のようで、アネッタの知らない曲の話をしている。
そこに、青年が手のひらを向けた。
その瞬間。シンと静まり返る。
――次が始まる。
そう感じ取ってアネッタは身構えた。
自分を呼んだエカテリーナの意図はわからない。
けれど、ここでその理由を問うまい。
それよりも今はもっと聴きたいのだ。
あの、初めて聞く音の連鎖を。今度は全ての意識を傾けて、ただ無心に。
「以上」
しかし、その思いはたった一言で唐突に終わらせられてしまった。
「え?」
想定外の言葉に、アネッタは再度固まった。
たった一言言葉を理解するのに数十秒時間をかけ、ようやく思考が追い付くと、お預けを食らった犬みたいに情けない顔を作った。
「あ〜? つまらねぇ事言わねぇでくれよ。こっからだろ? なぁ?」
ガラの悪い男が青年に文句をつける。
アネッタはその言葉に全力で首肯した。
彼は、先程のアネッタが火の玉をぶつけようとした男だった。
「いや、俺今日忙しいから」
「なんの用事よ?」
「いや、あの‥‥‥宿で甘いジュース飲みながらバタークッキー食べるので忙しいから」
「ゆったりくつろいでるじゃねぇか!」
酷すぎる言い訳だった。
先程のまでの拍手はなんだったのか、一気にブーイングが始まる。
「もう一曲!」
「いや、だから……」
「減るもんじゃねぇし、いいじゃねぇかよう!」
「あの、だからさ」
モゴモゴと何か言い返そうとする青年の言葉に被せるようにブーイングが続く。
「ぶ、ぶーぶ~!」
アネッタもこっそりとのっかかった。
「ケチ!」
「無職の穀潰し!」
「文無し!」
もはやただの悪口になったブーイングを浴びせられ、ついには青年の顔が歪む。
嫌な予感がして、咄嗟にアネッタは口を一文字につぐんだ。
青年は方眉をあげると苛立たしげに舌打ちし、口を開けた。
「うるッせぇぞ! 今日はもう2曲演ったろうが! 俺は今日の演奏は2曲までって言ったじゃねぇか! 最初にそういったよなぁ!? あ゛あ!? 文句は駄賃寄越してから言えやこの、ボケェッ!」
ヒェッ、と情けない声を出して男がたじろぐ。
あんなにきれいな音色を奏でていた青年は、囲んでいる男たちか、それ以上にガラが悪かった。
青年は鼻を鳴らすと、その場にどっかりと座り込んだ。
「ど、どうしよう……」
このままでは本当に終わってしまう。
アネッタは縋るような気持ちでエカテリーナを見た。
彼女は、アネッタからの視線に気づくまでたじろいでいたが、それを認めると貴族の血がそうさせるのかは知らないが、任せろと言わんばかりに立ち上がった。
こんな形で終わってしまってはせっかく連れてきたアネッタに立つ瀬がない。
ヒールをカツカツ鳴らしながらエカテリーナが青年のもとに近付く。
野次馬達は近づいてくる足音に気がつくと、道を作るかのように真っ二つに別れた。
髪を縦巻きにカールさせた、これでもかというお嬢様然とした人物が一直線にやって来たのだから、無理からぬ話であった。
「もし。よろしくて?」そうエカテリーナが声をかけると青年がようやく顔を上げる。
「あ、今日もきてくれてたの?」
「え? ええ」
「いやぁ、いつも有り難う。美人さんに来てもらうとモチベーションがあがって助かるよ」
少年のような笑顔でそう言った。
先程まで悪鬼のような顔付きをしていたのにである。
思わぬ反応にエカテリーナは少し顔を紅潮させて、しかしかぶりをふった。
彼女は懐から硬貨を一枚取りだし、逆向きに置かれてあったハットの中にそれを置いた。
「こちらで足りるかしら?」
これはチップだ。
なるほど、青年は大道芸師と同じシステムを取り入れており、あの音色を披露して生活しているのだ。
アネッタが一人納得している一方で、エカテリーナは不安そうな顔を青年に向けていた。
「あの……足りま、せん?」
「え? ああ、いや。そうじゃない。逆だよ、駄賃にしちゃ多すぎる」
「でしたら、とっておいてくださいな」
「それは出来ない。こんなに多くもらっちゃ俺はきっと傲る。傲ると、音が濁るんだ。もっと軽いもの。銅貨だとかがあると助かるんだけど‥‥‥ああ、えっと、その反応を見ると持ってなさそうだな」
青年は腕を組んでううむと唸った。
しばらくそうしていると、また野次が出始めた。
青年は鬱陶しそうな目でそれらを見ていたが、何か閃いたようで急に拳で掌を叩いた。
「おい、ボンクラ共! このお方に釣り銭を用意して差し上げろ!」
そう言って裏返ったハットを指差した。
「これで俺は金が貰える。この美人さんは余計に多くの金を使わなくて済む! どうよ?」
美人と呼ばれたエカテリーナはまたも顔を赤くして俯く。
「うん? つまり俺たちが兄ちゃんに金を渡して、そちらのお方が集まった金を受けとる。そんで兄ちゃんは今そのハットの中にある金を受けとる。こういうことか?」
「そうそう。分かりやすくまとめてくれて有り難う」
「え? いやさっぱりわからんけど」
「わかれや! 9割9分の正解が出てたわ!」
やいのやいの。まるで商店街にいるみたいに言葉が飛び交う。
とはいえ、そのままいても仕方がないと、文句を言いながらもた彼らは最終的にはハットの前に並び、そしてぶつくさ小言を言いながら離れていった。
その光景を、さながら囚人を見張る監獄長な面持ちで青年が見送る。
そして一通りするとやれやれと首をふり、したり顔でハットを手元に寄せて中を覗き込んだ。
「ったくよぉ。わかってるんだぜこっちは? 何人か誤魔化して金を入れてない事ぐらい。まぁ、俺は寛容だからさ、許してやっても‥‥‥嘘だろ? 誰一人として入れてねぇ」
全員が素通りであった。
「ライアーゲームかよ‥‥‥」
青年の唇がわなわなと震えている時、彼らは顔を見合せ、はて? と首を傾げ合っていた。
「小芝居だけは熱心だなクソ共‥‥‥」
「いや、だってなぁ?」
「あんな一丁前のこと言っておきながら、ちゃっかり金貨一枚もらうつもりだったことだろ?」
「許せん許せん」
金貨3枚で大の大人が一月暮らせる価値がある。
彼らは自分たち以上の生活水準を与えることを、見事な連携で阻止してみせた。
「あ、あの!」
そんな中、手を上げる少女が一人。
アネッタは集まる視線から逃れるようにおずおずとハットの前まで行くと、そこに銀貨三枚を入れた。
「これで足りますか?」
ハットの中には三枚の銀貨、そして最初にエカテリーナが入れた1枚の金貨がある。
青年はそこから金貨1枚と銀貨2枚を取ると、アネッタの手にそれを握らせた。
キョトンとするアネッタに、はにかんで言う。
「だからさ、多いって」
どっこらせ、と青年は大仰な仕草で立ち上がり、金色のソレ“サックスフォン”構えた。
「それじゃあ、このお嬢さん方に一曲。その他有象無象は耳塞いで家でに帰って舌噛め。死ねっ。お嬢さん方、何かリクエストは? ‥‥‥ああ、なるほど。オッケーわかった」
そして、音楽が始まる。
緩やかに、ゆっくりと音色が紡がれていく。
それは次第にテンポをあげていき、しかしメロディは優しくのびやかなまま。
曲の間には寂しげなメロディや、時に激しさが挟まれいるものの、それでも主として基幹に組まれているのは穏やかな旋律で、どれだけ曲調が変化してもそこへ帰ってくる。
アネッタ達は、ただそれに耳を傾ける。
メロディは感情の波となって彼女達を揺さぶり、その世界に没入させ続けた。
佳境。
メロディは帰結するに至り、同じフレーズを繰り返す。
いつまでも、いつまでも終わらないことを示唆するかのように。
「ふぅ‥‥‥以上」
青年の言葉でアネッタの意識は帰ってくる。
ああ、終わってしまった。もう終わってしまった。まるで夢見心地だ。
今度の曲は、どうだっただろうか。
すぐ身近にあるものを想起させるような、それでいて遠くての届かないものを連想させるような‥‥‥寂しいような、暖かいような、腹立たしいような……放っておけないような。
なんとも言い表しづらい。
「なんつーか、楽しい気分になる曲だったな」
「俺は、こう郷愁心揺さぶられるような」
「嘘だろ? 俺には‥‥‥悲しい曲だったな」
他の人たちの意見もてんでバラバラであった。
そう言えば、と最初にエカテリーナが曲のリクエストをしていたのをアネッタは思い出した。
「え〜、さっきの曲。リクエストに合わせて、テーマは『友情』」
「‥‥‥え?」
アネッタはハッとして、エカテリーナに顔を向けた。
エカテリーナはイタズラのばれた子供みたいに、気恥ずかしげに髪を人差し指で弄った。
「あの、アネッタさん。学院でいつも一人でしょう? でも、座学でも実習でもすごく優秀で。私、いつもお声かけしたいと思っていたのですけれど、なかなか時間が合わなくて」
それはその筈だ、意図的に避けていたのだから。
「私、エカテリーナ様にそんな風に思われていたなんて知りませんでした。それに、私なんて全然大したことなくて‥‥‥皆さんが簡単にできている事も、必死に頑張ってようやく及第点程度で‥‥‥」
ずっとコンプレックスに思っていた。
貴族と平民。
持つものと持たざるものとして、自分達は見下されているものとばかりアネッタは思っていた。
「そ、そんな事ありませんわ! 私達は学院に入るずっと前から魔法の勉強をしているのですから。私が3年もかけてようやく覚えたことをアネッタさんはたったの2ヶ月で習得してしまって。ずっとすごいなって、話してみたいって思っていましたの」
でも、それは単なる被害妄想と僻みに過ぎなくて。
ああ、ここに来てようやくわかった。
単純な事だったのだ。
思い込みが過ぎて、きっと何か企んでいるのだろうと一人で勝手に警戒していただけだったのだ。
相手は、とっくに自分のことを認めてくれていたっていうのに。
つまりエカテリーナは、ただアネッタと友達になろうと今日ここへ誘ってくれた。ただそれだけの事だったのだ。
「あの、ですからアネッタさん。これから仲良くしてくださる?」
「ええ、ええ! こちらこそよろしくお願いします! エカテリーナ様!」
エカテリーナが差し出した手を、アネッタがしっかりと掴んだ。
二人はしばらく見つめあった後、わけもなくクスクスと笑いあった。
何が可笑しいのかわからなくて、それがまた可笑しくて笑った。
こんな風に笑ったのは,いつ以来だろうと アネッタは振り替える。
記憶では、学院に入ってからは、あまりこういう風に感情をだしていなかった。
いつも何かに焦っていて、怖がっていた。
アネッタは、見慣れない紙の筒に火をつけてえらくリラックスしている青年に目を向けた。
彼にお礼を言いたくなった。
青年のあの演奏がなければ、あの音色を聞いていなかったならば、きっと今日のこの結果はなかっただろうから。
「あ、そうだ。今日『猫の額』亭で何曲か演るからさ、10人ほど来てくれよ。じゃねぇとギャラもらえないから。あ、20人でもイイヨ?」
「あんな狭い店に20人も入るかよ!」
「今言った奴誰じゃあ! 誰が狭い店じゃい!」
「うわっ! なんで店主がいるんだよ! 店番しとけよ」
「悪口言ったのお前の倅だよばーか!」
喧騒はどんどんと大きくなっていって、これはもうどうにもお礼を言えるような雰囲気ははなくなってしまった。
それでもどうにか名前だけでも聞いておきたくて、アネッタはエカテリーナと共に青年のもとに向かう。
人混みなら大丈夫だ問題ない。エカテリーナが先行すると、道が開く。
「‥‥‥モーゼかよ」
「あの、今日は有り難うございました。おかげで、何か吹っ切れたような気がします」
「あ、そう? 別に何にもしてねーけどねー。お金も貰ったし」
近くで見ると、青年は思っていたより筋肉質な体をしており、目付きは鋭く顔は精悍であった。
青年は、火草の一種なのであろうものをくわえて紫煙を吐き出した。
「それで、こんなことを聞くのは失礼かも知れませんが、いったい何者なんですか? 自分で言うのもなんですけど、私結構知識がある方だと自負しています。でも、こんなの聞いたことありません」
「あー、そうか。こっちにはたぶん無いんだろうし」
「こっち?」
首を傾げるアネッタに、青年はケラケラ笑って言った。
「俺、異世界人だから。こっちでは流れ人っていうんだっけ? 名前は二位 一(ニイ ハジメ)。で、さっきのは『音楽』」
「流れ人。それと……おんがく」
「そう。それで俺が何者かって言うと……」
黒髪の青年、ハジメはすこし静かになって、ふふんと得意げに鼻を鳴らすと、意を決したように言った。
「俺は、音楽家だ」
アネッタはまるで発音を確かめるように「おんがくか」と呟き、エカテリーナはハジメの少年のような仕草にトキメキを覚え頬を朱にした。