辺り一面のモロコシ畑の中を、一台の自動車が東に向けて走り抜ける。朝日が差し込み清々しい光景の中、ナタリエは目を瞑りながら考えていた。結局アルベルトに対しても伝えていなかったことについてだ。袖を握ってくるだけなら、酔っぱらいの雑な絡みだと思うことだろう。だがユッタが――今こうして平静な姿を見せているが――あの時、夕方の風に当てられた時の表情は尋常なものではなかった。寒い、寒いと、酷く震える手に摑まれた際の感触は筆舌に尽くしがたいものだった。 しかしその思惟も、あらぬ方向からの轟音に掻き消されることとなった。その影は高速で車両の前を横切り、窓から見える角度まで遠ざかると左に旋回してこちらと並走し始めた。『あれは……飛行機?』『そうや。新しい飛行場がこの辺にできてな、見ての通りこうやって毎日飛んどる』 聞けばケルターニュ製のブロック25とかいう機体らしいが、その特徴を捉える間もなく、木立の裏に消えてしまった。『さあ、もう近いぞ!』 看板の地名はノーヴァ・ゼムリャを指し示す。先の大戦で最前線に位置した町だ。つまり、アルベルト達が戦火を交えた因縁の地である。カーレムグラードはネマナ川を挟んで対岸に位置するが……『……おいおっさん、前はあんな橋なかったよな?』 それはかつて見た景色とは大きく異なっているようだった。両岸を結ぶコンクリート製の橋は無骨だが確かに真新しい。長く隔絶の象徴だったネマナ川は、同じく市を取り囲んでいた大河ダニュープと合わせてその意味を失ってしまっていた。『そうや。アレが出来たせいで、もうノーヴァ・ゼムリャの河港もなくなってしもうた』 最後のスパートをかけるが如くアクセルをベタ踏みし、その橋――ラザル橋を駆け上がった。クラーニ地方から通算23か所目、この橋が戦略上最も重要だという認識を車内の誰もが持っていた。橋の上から彼方には、ネマナ川とダニュープ川の交わる合流地点と、それらによって削られた台地、その上に築かれた街――かつて異教の者達との境に位置したことから『門の鍵』と渾名された都――カーレムグラードの要塞群が見下ろしていた。 中心街に程近いクリューチヴァ広場でルドルフ氏とはお別れになった。後の道をどう進むかの判断は、三人に委ねられている。『それで……どこかあてはあるんですか?』 ナタリエが問いに対し、アルベルトは丘の上に建造途中の教会を指さした。氏から話によれば、数日中にあの教会がヘレネシアの聖地に巡礼団を派遣するとのことだった。しかも都合のいいことに、サウスラーヴァ内の予定行路と巡礼ルートが丸被りなんだという。彼らに便乗しようというのがアルベルトの案であった。『交渉は俺とユッタで行おう、ナタリエはどうする?』『それなら私もついていきます。他にできることもないので……』 ということで話は二人に任せ、工事用のバリケードに背を預けながら荷物番の地位に甘んじていた。真っ青な空に視線が向かうのは、周囲の地面が全く不毛なためだった。いずれ立派な広場として整備されていくのだろうが、今の時点ではどのように変わるのか想像だにできない。それにしても日差しが強い、この季節のベーアヴァルトでは考えられないくらいの猛りだが、それでも子供は元気よく走り回っている。暑いのによくやるものだと感心していたが、よく見ると様子がおかしい。彼は鞄いっぱいの紙束を乱雑に掴んでは、すれ違う人々にそれを押し付けていっている。その度に甲高い、変声期前特有の叫びに逸りや焦りといった気持ちを含蓄させているようだった。ついに彼はナタリエの方にも近付き、訳も分からぬままそれを押し付けてすぐに去ってしまった。 触った衝撃で皺んでしまったが、地元の号外誌のようだった。しかし何が書いてあるのかさっぱり分からない、一面に大きく写った肖像は大層な人物なのだろうが、彼女に思い当たる節はなかった。首を傾げているところにユッタたちが戻ってきた。どうやら話の段取りは付いたらしく、ご機嫌な調子だ。『いやーよかったです!司祭のおじさん、前にクレームリィに留学してたらしくて、おかげで会話も楽でしたよ』 満面の笑みで成果を誇る様子にナタリエも頼もしさを覚えたが、同時に引っかかる部分もある。クレームリィといえば世界地図を見たことあるものならだれでも知っている、世界最大の国家サヴェート連邦の首都だ。となると今までユッタが喋っていたのはアルーシャ語なのだろうが、なぜその言葉を話せるのだろか?不躾かもしれないが俄然彼女の過去が気になって仕方ない。『ところでナっちゃんの持ってるそれは?』『あー、さっき貰ったんです。ユッタさん読めますか?』 新聞を差し出すが、彼女の反応は微妙だった。辛うじて分かるのは、表紙の人物が亡くなったことだけ。アルーシャ語とイリューシン語は似ているものの、文に落とすと差異が際立つようだ。一旦その場はお預けとし、一行は旅の疲れを休めるために宿へ向かった。 しかしその報道のもたらした衝撃はかなりの物だった。誰も彼も、公園のベンチでもカフェでも広告塔の前であっても、人の集まる場所ではこの話題で持ちきりだった。その熱気は夕食を取るために入ったレストランでも冷めることはなく、心なしか顔色が悪いように見える。ついにユッタが彼らの会話に割り込むと、事の重大さが明瞭となった。『殺されたんだよ、白昼堂々と』『それは……この方が?』『そうだ。俺たちの国王が、だ』『なっ……』 いったい誰が?と問うと、彼らは口を揃えてこう言った。『分離主義者だ』と。 カーレムグラード逗留から3日経ったが、その間に状況は完全に停滞してしまった。国葬の準備のために市中経済は機能不全に陥り、当然巡礼も取りやめとなった。この日ようやく、サウスラーヴァ国王の遺体が首都に帰還したが、現場は緊迫した様子に覆われていた。事件によって分離運動が地方で散発したという報も入ってきている。そのエリアは、ナタリエたちの通るCルートに重なっていた。 もちろん、状況が打開されるまでただ手をこまねいていた訳ではない。アルベルトが伝手を辿っている間に、二人も要塞や橋梁、鉄道の調査を進めていた。戒厳状態の只中で、しかも警官に見つからないよう深夜での行動を余儀なくされたが、河床の浅深や戦時の砲門や司令所の位置など、報告するに足る情報を首尾よく収集していった。しかしそうこうしているうちに、後から出発していたD・Eルートの調査員が追いついてきた。『災難だったな、こんなことになるなんて』 と慰めの言葉をアルベルトに送る。出発は彼らの方が早かった。というのも、DもEも危険地帯をギリギリ逸れていたからだ。さすがにアルベルトにも焦りが見え始めてきた。時間が経っても先が見えず、だからと言って経てば経つほど旅券の期限や金銭面からも不都合が生じていくからだ。しかし、そうした会話が終わって彼の隣に移り座った者は、一行に予想だにない光明をもたらした。『アンタら南に行くんだって?なら今回は諦めた方がいいぜ。なんたってあの辺は山賊の住処だから、バスもなんも通っちゃいねえ』 彼はロイテ語で話かけてきたが、アルベルトはそのことを気にしない。 『だからといっておめおめと引き返すわけにもいかないさ。危険かもしれないが、承知の上だ』 その男はその言に口角を上げ、『なら俺に一つ噛ませてくれよ。方法ならある』『……何が望みだ?』『なに、道中必要になるモノがあるから、終わったらそれをくれ』 彼の話によれば、その“モノ”はサウスラーヴァ内で販売されているが、国外に持ち出せるものではないという。それとロイテに比べると遥に安い日給を要求してきた。『いいだろう、よろしく頼む。と、名前は?』『ペータルだ。ペータル・アレクシイェーヴィチ。準備が出来たらまたここで呼んでくれ』 そういって彼は去っていった。 翌日、一行がペータルのもとを訪ねると、彼は幌付きの荷台を持ったトラックを停めていた。そこにカーペットが敷かれ、座れるようになっている。『では、よろしくお願いします』 挨拶もそこそこに、荷物とその後に入れるモノのスペースを空け、3人が乗り込んだ。運転のペータルはサイドミラー越しに彼らを視認すると、親指を立てて出発を合図した。――『で、これがその“モノ”だって?』 途中の都市に立ち寄った一行は、ペータルの案内に従ってある店の前に来ていた。そこは表通りから少し入った入り組んだ小道沿い、大工場地帯の裏にひっそりと暖簾を掲げられている。取り扱っているのは銃、砲、弾丸等々……軍隊からの放出品に溢れている。『その通りさ!山賊に対処するには武装するのが一番だからな。ここは狩猟具から鹵獲品まで色んな種類の武器がそろってる。ほら、これなんか見たことあるんじゃないか?』 ペータルが指し示したライフルはハウプトハウゼン帝国軍制式の一品である。なるほど確かに、大戦に従軍したアルベルトにとっては使い慣れたものだ。『よくわかったな、俺がエスタートの出は云わなかったろ?』『そりゃ、周りのロイテ人はエスタート出身ばっかりだったからな、おっさんの言葉付きでわかるぜ』 購入した帝国制式ライフルは2丁、アルベルトとナタリエが担当し、拳銃はユッタに委ねられた。ライフルの扱いは移動中にアルベルトがレクチャーしていたが、悪路の上、幌付きとは言え剥き出しの荷台に乗りながらとあって難儀した。カーレムグラードからブラガイシュチ、そしてナイッソスまで順調に進んでいたが、問題となるのはその先である。 道の真ん中に検問が敷かれ、警官がその前後を見張っている。しかしその重点は後者に偏っているようで、こちらから先に進むには免許証とナンバープレートを控えるだけで済んだが、反対車線では荷物検査まで行われていたことから大渋滞が起きていた。この先の区域の住民への警戒は並大抵でないことが容易に読み取れる。 この地点から国境まで約200km、国王殺しを輩出したこの曰くつきの大地に進入した。不安を抱きながら、ナタリエの目は後方の縦列を見据えていた。