狒々の攻撃は禍々しい爪と鋸のような歯だ。
妖怪の並はずれた筋力から繰り出される爪撃はパンダを切り裂き、絶命させる。
また身軽に動き回って一方的に殺戮を繰り返していた。
他愛もなく、天狗面が連れてきたパンダは既に8割以上が地に伏せている。
しかし狒々にとっても鬱陶しい蠅が一匹飛んでいた。
「やってやるよコンチクショウ!!」
裕輔は泣き叫び、覚悟を決めて狒々の周りを走り回る。
覚悟を決めたというよりも自棄になったという表現が正しいかもしれない。
目から滝のような涙が流れ、口からは常に悲鳴が漏れていた。
驚くことに、裕輔の移動スピードは身軽な狒々を上回っていた。
動物の身のこなしに慣れないため若干裕輔が早い程度ではあるが、その若干は時がたつ毎に差は広がっていく。
裕輔に速さの面において有利に状況は傾いて行く。
スピードで上回る裕輔なのだから、ちくっと刺すぐらいは可能。
発禁堕山からすれば十分に刺せる場面もあるのだが、中々裕輔は攻撃に移らない。
「ひぃ、死ぬ!」
それは裕輔に度々放たれる凶爪による一撃のせいだった。
裕輔は避ける事が出来るのだから、反撃も理論上は可能なのだ。
しかしその威力と絶命していくパンダの凄惨さを目の当たりにしてしまうと、体が縮こまってしまい攻撃できない。
当たらないという絶対の保障がないという事は、死ぬという危険と同義なのだから。
「―――――あ、れ?」
あんな攻撃を受けたら死んでしまう。
だが、何故自分は死をこんなにも恐れているのだろう。
確かに痛いのは嫌だが、腕を切り落とされた時より痛いという事はないだろうに。
死を恐れるのは失う物があるという事。
しかし、裕輔はこの世界で失うような物があるのだろうか。
両親はおろか肉親も一人もいない。
太郎は弟分で可愛い奴だが、まだ会って半年もたっていない。
裕輔の背中にある物は太郎くらいで、太郎の事も浅井朝倉にいれば悪い事にはならないだろう。男だし。
ランスは女にとっては危険だが、男にとっては基本的に無害である。
また織田のトップ達、3Gや香姫達は人道的であり悪い人ではない。
仮に戦に負けたとしても、太郎は生きていける。
「ああ、そうだよな」
ある答えに行きつくと、裕輔は今までの怯えが嘘のように落ちつきを取り戻す。
かろうじて持っていた錐を順手にしっかり持ち、狒々の死角に回るように移動した。
裕輔にはこれから得る物はあったとしても、失う物は余りに少ない。
失う恐れに怯える必要はない。なら、これからは得るだけなのだから。
裕輔が狒々の左側面に回り込み、迅速に距離をつめていく。
発禁堕山は今までと違う裕輔の面構えを感じ取り、すぐさまパンダを使役した。
意図的にパンダを右側面から襲いかからせ、狒々の注意を右側に引きつけたのである。
「ヒイイイイヒヒッヒャハハッハハーー!!!」
「怖くない! 怖くない! ぶっちゃけ漏らしそうだけど怖くねぇぞ!」
あらゆる意味で裕輔はここで吹っ切れた。
死という概念があるこの世界で死を忌避し、免疫がないに等しかった裕輔。
だが裕輔はここに来て初めて、生きるために他の命を奪う覚悟と選択をしたのである。
「ッづあ!?」
裕輔の突撃を察知した狒々が無造作に左腕を振う。
裕輔を見もせずにふるわれた一撃だが、裕輔にとっては死神の鎌も同然。
吹っ切れたもののまだ硬さを残す裕輔の腹から血飛沫が舞い、苦痛に顔を歪める。
「――――だらっしゃあ!」
しかし、それは薄皮一枚を切り裂いただけ。
裕輔はその身を弾丸として狒々に吶喊する。
「ひゃひ!?」
裕輔の狙いは狒々の戦闘の基盤となっている脚。
本当は心臓や顔面を狙いたかったのだが、身長の差から裕輔の手は届かない。
ならば手が届き筋肉も薄い膝関節に鋭い錐を突き刺そうと、体ごと突撃して接触の瞬間腕を伸ばす。
<グサリ!!>
「ぎぃ…!? ギヒャァァアアアアア!?」
裕輔の神速の逃足の脚力で、後先を考えずに我武者羅に吶喊したのだ。
それが命中しなければ嘘というもの。
吶喊の際に生じた運動エネルギーそのままに突き刺さった錐は根本の柄の部分まで刺さっている。
しかも使われたのは錐であり、狒々が被ったダメージは甚大で深刻。
激痛に苛まれ、狂ったように腕を振り回して暴れる狒々。
裕輔もはっと我に返って錐を抜こうとするが、ふかぶかと刺さっているため抜けない。
仕方なく裕輔は持ち前の逃げ足で腕が届かない範囲まで後退する。
狒々にとって、錐による攻撃は未知だった。
今まで狒々の弱点を突いてくる人間などいなく、また彼が今まで戦ってきた人間とは餌に過ぎない。
それ故目の前の裕輔は途轍もない恐怖の対象に狒々は映ったのだ。
たった一本の細い武器を刺すだけで、尋常ではない痛みを植え付けられた。
また狒々に裕輔の動きとはかろうじて視界に映るレベルで、とてもではないが攻撃が当たるとも思えない。
しかも激痛の元となる錐を膝さから抜こうとしても、溶ける寸前の鉄のように熱く感じて掴むことすら出来ない。
狒々は妖怪として、初めて命の危機を感じた。
だから彼が自分の力を削ってでも、『その力』を行使するのは自然な流れ。
狒々は滔々と膝から流れ出る血を手につけ、裕輔に自らの血を弾いて飛ばす。
裕輔は咄嗟に顔に飛んできた血を肘までしかない腕で庇ったため血が目に入る事はなかったが、腕に血が付着する。
狒々はそれを見るとニタリと顔を歪め、『その力』を行使した。
「ぁ…あぁぁぁあああ!!!!!?」
「む…始まったか」
どろりと腕から何かが入りこんでくる感触を感じた裕輔は次に全身に焼けるような熱を感じた。
まるで焼きゴテを体に突っ込まれたかのような感覚に身を捩り、裕輔は地面を転がりまわる。
発禁堕山は目的であった儀式が始まった事を悟り、裕輔を守るようにパンダを配置した。
そう――――呪いが始まったのだ。
まるでドロリと得体の知れない何かが腕を介して裕輔の体を侵食していく。
燃え盛るように熱いのに、背骨に凍柱を突き刺されたような悪寒も感じる。
全身を苛む異物感に裕輔は耐えられず、地面をのたうち回る。
そんな責苦が一分か二分か。
裕輔から永遠にも感じた感覚は徐々に収まり始め、全身に汗をびっしょりと掻いた。
だがその衝動もやっと収まり、裕輔の目の焦点が定まった。
「がっは…ふぅ、は………」
喉がカラカラに乾いている。
誰かに助けを求めるように差し出した裕輔の手に、発禁堕山は竹筒に入った水を渡す。
それを一気に飲み込むと、裕輔はようやく正気に戻った。
「終わった、んですよね?」
「ああ、終わった。これでお前は今日から忌み嫌われる『呪い付き』だ」
「…イジメないでくださいよ。今は余裕がないですので。
それよりあの狒々? でしたっけ。あの妖怪は?」
「あやつなら、ホレ。お前が苦しんでいる間に逃げよったわ」
洞窟の地面には点々と血だまりが出来ており、おそらく狒々が逃げだした後なのだろう。
狒々の姿は既に消えていた。しかし、当初から仕留めるつもりはない。
呪い付きの呪いは、呪いをかけた妖怪が死ぬと解けてしまう。
つまり狒々をここで仕留めるという事は今までを無意味にするという事。
全てが終わり、一応は成功したと理解が及ぶと、安堵してへなへなと裕輔は脱力した。
「もう動けません。お願いですから、上まで連れて行ってくれませんか?」
「断る…と言いたい所だが、まぁよかろう。
体力を使い果たしていることだろうしな。それより」
一頭のパンダに命じ、裕輔を背に乗せる。
う…と意識が遠くなり呻く裕輔を余所に、発禁堕山は確信をつく質問をした。
「自分の能力を理解したか? それに伴う代償も」
疲れ果てながらも裕輔はこくりと頷く。
そうか、と発禁堕山はそれ以降何も話さず、迷宮の上層を目指して脱出した。
その時裕輔は発禁堕山の顔が天狗の面に阻まれ見えなかったが、何処か遠い目をしていたような気がした。
■
迷宮の外に運ばれた裕輔は木にもたれかかり、体力の回復に努めていた。
心身ともに疲れ果てているが、口は動く。ならば協力してくれた発禁堕山に話さねばならない。
ここまで何もかもお膳立てしてくれた発禁堕山に。
「…今回はありがとうございました。
お陰さまで俺は何らかの能力を得られましたよ」
「して、その能力とは? そしてそれに伴う代償とは」
「簡単に説明します」
あの永遠にも似た責苦の中、裕輔の脳裏には何かが強く刻みつけられた。
裕輔にかけらえた『呪い』についての力と、その代償。
裕輔はもう発禁堕山は気付いているだろうと思ったが、肘から先がなかったはずの左手を掲げた。
「代償ですが、左腕と時間がたつごとに少しずつ妖怪化します。
さっきまでは肘まではあったのですけど、見事に侵食されていますね」
それは人の腕というにはあまりに異形だった。
五本の指はあるものの指先まで濃い体毛に包まれ、爪はあまりにも長い。
その濃い体毛は肘と無事だった肩の中間の部分まで異形と化している。
「猿の手、と言ったところか。狒々の影響が色濃く出たな。動くのか?」
「いえ、ピクリとも。
どうやらコレは俺の腕じゃないみたいです」
それはまさしく猿の手だった。
だが伝承とは違い、この猿の手には願いを3つ叶える力なんて大層な物はない。
ただ裕輔の体を蝕むだけの呪いだった。
「時間がたつごとに侵食していって、最後には猿になる。
なんとか呪いが体を乗っ取る前に狒々を殺さないといけませんね」
「…他には、あるのか?」
事実のみを裕輔は発禁堕山に伝える。
しかし裕輔自身の感覚からしても、侵食スピードはかなり遅そうなのであまり焦ってはいない。
いざとなったら3Gがいるので、場所さえわかればお人よしに頼んでなんとかしてもらえばいい。
具体的に日光とか日光とは日光とか日光を持った奴に。
「あとは…言いたくありません」
今度は悲壮感たっぷりに呟いた裕輔に発禁堕山はたじろいだ。
「うむ、その、なんだ。それで能力とはどういったものだ?」
あまりに裕輔が落ち込んでいるので、発禁堕山は居た堪れなくなった。
話題を逸らすために、裕輔の利となる部分について訊ねる。
「あ、そうでした。詳しくは俺もわかりませんが…何かを呼び出し、使役する能力のようです」
「ほう。ワシと同じか」
使ってみますね、と裕輔は意識を集中する。
何が呼び出され、従わせる事が出来るかまでは裕輔もまだわかっていない。
そのため裕輔自身もドキドキしながら念じたのだが―――――――――
<チュン、チュン…>
「…………」
「…………」
<チュン、チュンチュ、チュン!>
「久々にクソワロタ」
言葉とは裏腹に裕輔は絶望に沈んだ。
裕輔の呼びかけに応じて馳せ参じたのは、数十匹の雀(すずめ)だった。
しかもこんな夜中に呼び出されて不満なのか、裕輔の頭をつついている奴もいる。
続いて念じるも来るものは雀ばかりで、他には何もこなかった。
これには発禁堕山も絶句するしかない。
下手したら死にかねない呪いを受け、代償として得る力は雀を使役する能力。
笑う事しかできないを通り越し、黙りこくる事しか出来なかった。
しかし、何故に雀? 普通は狒々の呪いからして、猿ではないだろうか?
「す、雀だって使いようによってはどうにかなるのではないか?」
「例えば何です? 相手の頭にフンでも降らせるんですか?
わー、凄いや。フンの絨毯爆撃で相手を真っ白に染めてやる!!
あーっはっはっはっはっはっは!!!! 殺せ! いっそ俺を殺せー!」
「ええい、正気に戻らんか馬鹿ものめ!!」
■
「すみません、取り乱しました」
「うむ…まぁ、無理もないだろうが」
その後十分は壊れたかのように笑っていた裕輔。
今では大分落ち着いたが、それでも大分気落ちしている。
「それじゃあ。俺は行きます」
しかし、まぁやりようによっては役立つかもしれない。
裕輔はそう強く自分に言い聞かし、よっこらせと立ちあがる。
少しの休息を取り、歩いて移動できるほどには回復した。
「行くのか?」
「無論です。それにもう夜明けですしね。
そろそろ戻らないと、織田との戦の準備が間に合わないかもしれません」
太郎の件、鉄砲隊の件と色々しなければならない事が沢山ある。
裕輔はもう一度発禁堕山に礼を言って戻ろうとしたのだが――――
「パンダに乗って行け。帰り道わからんだろう」
それもそうだった。
発禁堕山の申し出を受け、裕輔は有難く甘える事にした。
パンダの背に乗り、裕輔は今度こそ発禁堕山と別れて浅井朝倉の城へと戻る。
「………」
それを発禁堕山は黙って見送っていた。
城には戻らず、ここで暮したらどうかという言葉は喉を通る事はなかった。
今は呪い付きに自分からなったと裕輔が思っているから大丈夫だが、お膳立てしたのは自分。
呪い付きになった事を後悔しないものはいない。
少なくても発禁堕山はそう思っていたし、例外は毛利元就くらいなものだろう。
ここまでお膳立てした裕輔が自分を何時恨むかと思うと、とてもではないがいい出せなかった発禁堕山だった。
「……それにしても、もう一つの代償とはなんだったのだろうか?」
次々と自分の体ではなくなっていく恐怖よりも深刻そうな顔をした裕輔。
それは一体何なのだろうか、と発禁堕山は不思議に思った。
■
「嘘だ…嘘だと言ってくれよ…今までずっと一緒だったじゃないか!」
一方裕輔はパンダの背に揺られながら、悲壮感を滲ませて呼びかけていた。
頭では理解出来ているが、心では納得など出来ようはずがない。
「ちくしょう…ちくしょう!」
いくら妄想を爆発させようと、彼の分身はうんともすんとも言わなかった。
彼の失った物、それは――――――男として大事な物だった。
「認めたくない。認めたくないぃぃぃィィィィイイイイイ!!!!」
不能、いんぽっしぶる。END。
生活する上で支障はないが、男としては余りに辛い現実。
裕輔は人知れず、パンダの背の上で泣いた。
あとがき
本当は髪の毛も抜けて、永久禿げになるところでした。
しかしそれは余りに可哀そうだという事で、作中だけの呪いの代償に。
ちなみに呪いの代償は呪いが解けると、以前の通り元通りに戻ります。