自分が生まれた瞬間というものを知っている人がいるのだろうか?
少なくとも俺は、自分が“人”として生まれた瞬間なんてまったく憶えていない。というか、俺の記憶は、三、四歳くらいから始まっている。
自他をはっきりと認識できるようになるのが、だいたいそのくらいの年なのだろう。まあ、他の人に聞いたこともないけどな。
ともかくだ。
自分が“生まれた”ことを瞬時に理解できる人間は居ない……はずだ。
「で、あるのなら、今の“俺”はなんだ?」
それは忽然と俺の人生の途中に発生した現象だった。
闇に溺れし影法師
第零話 忘却の果てに生まれし影
暗く深い絶望にも似た闇の中で“俺”は生まれた。
誰にも求められず、誰にも知らされず、誰にも祝福されず、誰にも呪われずに、ただ忽然と自分が生まれたことを理解した。
産声などない。もとより、それを発する器官が“俺”には備わっているのかさえ定かではない。
しかし、それでもハッキリしている事があった。
生物の誕生としては程遠い現象において発生した“俺”は、意識と離れたところにある器だけが、歓びに満ち溢れ、歓喜に打ち震えている。
己を存在させんがために世界の法則さえ歪め、偶然という名の奇跡を幾千も纏め上げて誕生したのだ。これ以上の幸福はない、と。
星のない、宇宙のような暗闇の中を漂っていた“俺”は、闇雲に手足を伸ばした。いや、今の“俺”に手足があるかどうか定かではないのだが。
とにかく、視覚から得られる情報が圧倒的に少ないのだ。
五感そのものが備わっているかさえも判然としないかったが、手を伸ばせば「何も掴めず」、足を伸ばせば「何処にも着かない」――という感覚があった。
しばらく手足を動かす感覚を存分に揮って状況の把握に努めたが、何の収穫もなかった。
何も捉えられないということは、五感そのものが機能していないのか、それとも捉えるべき世界が存在しないのか、もしくはその両方か。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
一日か、それとも一時間か、まさかとは思うが、五分と経っていないのだろうか?
五感を通じて、“他”を捉えるという当たり前のことがこれほど大事なものなのだと、今差ながらに痛感する。
完全な暗闇の中では、人の精神は容易く磨耗するとかなんとか。
確かに、この状況は精神的にクるものがある。
こういう時は、眠れば良いのか? もしかしたら、そのまま昨日?と同じように自室で朝日を拝んで、七つの目覚まし時計を止めることができるかもしれない。
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹……」
ユメから目覚めるために眠るというみょうちくりんな試みを開始したものの――。
「羊が五百二十七匹、羊が五百二十八匹、羊が五百二十九ひ――あ、メェ~ちゃんコケた」
とりあえず、三、四百を越えた辺りからイメージの中の羊たちが疲労困憊になっていき、五百二十九匹目の羊が、ファイヤーリングに蹴躓いた。
「というか、ローテーション組んでたのかお前ら」
などと自分のイメージが生み出した羊の群れに軽くツッコミを入れてみる。
すると九匹の羊たちが、ぜぇぜぇ呼吸を乱しながら恨めしげに睨んできた。因みに、一匹は丸焦げになっていた。
「羊の肉って美味しいのかな……」
おっといけない。イメージの中なので、小声で言ったつもりのセリフが、羊たちにも伝わってしまったようだ。皆一斉に逃亡を開始した。
「あ、牧羊犬だ」
どうも“俺”の心の中には、羊の逃げる姿=それを追う牧羊犬、という図式が成り立っていたらしい。
逃げ惑う羊たちが次々とファイヤーリングの前へと追い立てられている。
「というか、十匹でローテしてたのか。……ガンバ」
とりあえず、火の輪の前で押し合いながら怯える羊たちにエールを送った。
“俺”の覚醒の為と、いらん思いつきのせいで、罪も無い羊たちが次々と炎の中へと――
「いーーーー加減に、しろーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
「べふぉばァッ!!?」
突然のツッコミに対処する間もなく、羊たちが飛び込まされていたファイヤーリングへとダイビングすることになった。
火の輪潜りなどしたこともない俺は、あえなく失敗。
しばらくの間、灼熱の炎に懐かれて悶え苦しんだ。
わずかに残った視界の端では、生き残った羊たちが、シニカルな笑みと共に「シッシッシッシッシッ」という失笑を奏でていた。
「というか、誰だ? 俺の妄想の住獣たるメェ~さんたちを丸焼きにしようとしたヤツは?」
「そりゃ、テメェだろっ!?」
「む、それは心外だな。俺のメェ~さんたちのお肉は、最高品質だ」
「意味不ッ!!」
「ぐふぉあッ!?」
一体何者かは知らんが、姿形のない今の“俺”にツッコミというなのアクションを実行するとはな。
「ふっ……さてはお主、漫ざ――」
セリフの途中だが、『スコーーーーーーーンッッ!!!!』という擬音を何とも小気味良いツッコミ音と共に“俺”はフェードアウト。
「なるほど。俺のメェ~さんたちを美味しく頂こうというわけだな、赤玉よ」
「だから、それはテメェだよっ! というか、赤玉言うな、この白玉!」
主観時間において、約十分間の休憩を挟んで帰還した“俺”を待ち受けていたのは、赤い光の玉だった。
さきほど“俺”に鋭いツッコミを入れたのは、この赤玉らしい。
この赤玉の言によると、“俺”が今いる場所は、『闇の書』とかいう本の中?らしい。
現在、この『闇の書』は封印状態にあり、そこに宿る?赤玉も眠った状態にあるはずが、『闇の書』のプログラム?になんらかの異常が発生した為、精神のみを急遽覚醒させられ、その異常への対処を実行しに来たらしい。因みに、他に三人の同僚とやらもくるとのこと。
ということは、赤玉の役目は、先行調査とか威力偵察ってとこかな?
「ん~で? 結局、その異常ってのは“俺”のこと?」
「当たり前だ。お前みたいなヤツは、これまで“此処”に存在しなかったんだからな」
「うむ。了解した」
「なんだ? やけに物分りが」
「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹――」
「おい! こら! 現実逃避すんな!」
何をおっしゃる赤玉さん。現実逃避なんて人聞きの悪い。
ただ“俺”がユメから目覚める為、メェ~さんたちに尊い犠牲になってもらおうとしているだけだ。
妄想の中まで、ツッコミを入れる無粋な真似は止めていただきたいもんだ。
大体、この羊たちは、“俺”の妄想が生み出した毛獣だ。別に赤玉に迷惑掛けているわけでもあるまいし。
「全力で迷惑なんだよ! テメェの思考は、リアルタイムで駄々洩れなんだよ!」
「羊が七匹、羊が――何? 羊が八匹、羊が九匹、真っ黒焦げのメェ~さんが「人の話を聞け!」――ダッガーーーン!?」
どういうわけか、この赤玉のツッコミは、言葉だけにも関わらず、“俺”のブレインのサイドにブレイクショットを打ち込むハンマーのような衝撃だ。
これほど強力なツッコミ役を『俺』は知らない。
「ま、まさか……これは現実なのか!?」
此処に来てようやく、“俺”も赤玉の言葉を信じるしかないと思った。
こうもすばらしいツッコミを“俺”の夢や妄想が生み出せるはずがない。
「どういう納得の仕方だ!」
「まあ、落ち着け」
「お前が言うな!!」
赤玉が声?を張り上げ、明滅を繰り返す。
「そうカリカリしなさんな赤玉。カルシウムが不足してるんじゃないか?」
「こ、こいつ……ッ!」
赤玉の明滅がさらに激しくなって来ている。
どうやら“俺”の細やかな気遣いに感動して、敬服したに違いない!
「んなわけねぇーだろ!」
再び、何某かの衝撃により、“此処”の彼方へとフェードアウトする“俺”。
さらにしばしの休憩を挟んで帰還?した“俺”を待っていたのは、癇癪持ちの赤玉だけではなかった。
若紫というか菖蒲色というかピンクっぽいというか、まあそんな色合いの玉が一つ。
青緑というか翡翠色というか、いや、やっぱ普通に緑か、まあそんな色合いの玉が一つ。
水色というか瑠璃色というか、いや、やっぱ普通に青か、まあそんな色合いの玉が一つ。
「うむ。皆のものよぞくぞまいった。くるしゅうない、面をあげい」
「単刀直入に聞く。貴様、何者だ」
また赤玉が寿命の近付いた蛍光灯みたく明滅しようとするのを遮って、ピンクっぽいのが冷静に質問してきた。
「まあ……、アレだ。無視されると辛いから、せめて叱って」
「もう一度聞く。貴様は、何者だ」
先ほどまでの赤玉と違ってこのピンクは、冷たい。
「え~っと、『俺』は……日本のS県M市で暮らしていた、暮らしていた、暮らしていた……」
あれ? どこに住んでたんだっけ?
ちょっとリアルな夢世界に混乱してしまったのか、『俺』の記憶をうまく思い出せない。
「ニッポン? ということは、現在の世界の住人という事か?」
「そんなのあり得ないわ。“此処”に人間が入ってこれるはずないもの」
「ということは、我らと同じく、『闇の書』のプログラムということか?」
「さあ、“あの子”なら何か知っているかもしれないけど……。もしかしたら、守護プログラムに新しく組み込まれたのかも」
「はぁ? こんなヤツが、守護騎士だってのか!? はっ、それは、絶対ない。てか、認めねー」
何やら、仲間内?で論議しているようだが、“俺”もちょっとばかり脳内会議を開かなくてはならない。
論議を続けながらもなんだか、レッドを筆頭にピンクもグリーンもブルーも訝しげな視線(イメージ)を“俺”に向けてくる。
「あ~っと、ちょっと待って、マジで思い出すから。え~っとね、『俺』が生まれたのは、日本で、日本で、日本の……ってか、『俺』って……?」
ストップ、ストップ、ストップ・ザ・○ールド!
なんだかおかしいですよ。
イメージは浮かんでくるような気がしないでもないが、言語化できる“現実”が見えない。
確か、“俺”は自分が“此処”に“生まれた”瞬間をはっきりと認識できた。
しかし、その前に『俺』がいたことも確かであるし、つまり『俺』の生活も記憶にあるはずなのだが……。
「………ぐすん」
「おわっ!? 何、泣き出してんだ! 気持ち悪ぃな」
これは俗に言う記憶喪失ということなのか?
いや、『俺』の記憶がどんどん抜け落ちているような感覚があるような、ないような。
「どっちやねん!」
自分の思考にツッコミを入れる。これは、『俺』の癖……だったっけ?
本当に“俺”が“生まれ”る前には、『俺』が在ったのか?
いや、地球の日本という国、とかそんな大雑把な記憶はある。しかし、『俺』がどんな“人間”だったかということが思い出せない。
「な、なあ、コイツ。めちゃくちゃ変じゃねぇか?」
「ああ。『闇の書』にハッキングしてきた魔導師――というわけでもないようだな」
「そうね。これまでのことを考えれば、新規に守護プログラムを構築する必要性も高いとはいえないから」
「ならば、単なるバグということか?」
自分のことが分からなくなっている“俺”なのだが、レッドとピンク、グリーン、ブルーの会話内容を“俺”は当たり前のように受け入れる事ができるような気がする。その代わり、心のどこかで『俺』の常識が全力で現状を否定している……ような気がする。
この『俺』のものだったと思われる違和感こそ、“俺”が“生まれ”る前に『俺』が存在した証……のはず。
「よぉし! “俺”は――にょぎょ!?」
それは、“俺”が“生まれた”時と同様に突然だった。
四つの色玉以外に何も見えなかった暗闇が、本のページを捲るようにはためいて光が差し込んできた。
「どうやら『闇の書』の封印が解けたようだぜ」
「ああ。また、始まったな」
「今代の主は、どのような方かしら?」
「どのような主であれ、我らは剣となり、盾となって、主の願いを成就させるのみ」
「……そうね」
なにやら四玉四兄弟が、感傷に浸っているようだ。
彼らが言う主とやらは、光の向こうで、ポカーンと口をおっぴろげて唖然とする女の子のことだろう。
というか何? この女の子が主って、この子どっかの姫様なん?
いや、というより四玉たちが光の向こうに吸い込まれていくのは別にいいんだけどさ。
「な、ちょ、事前の説明を要求する! ま、まて、何!? いったい何やのこれ!?」
「げ、コイツ、マジで新しい守護騎士なのかよ?」
「どうもそうらしいな。“あれ”もたまには酔狂なことをする」
“俺”が光に吸い込まれていくのが心底気に入らないらしいレッドだが、それはこっちのセリフだと言いたい。
「だ~れ~か~、た~す~け~ろ~~~~~~~~!」
こうして、光に吸い込まれた“俺”は、『俺』の知らない『日本』へと吐き出されることになった。
あとがき
どうもはじめまして、三千春という駆け出しの若輩者です。
いろいろ至らない部分も多々ありますが、指摘・感想等いただけたら嬉しいです。