「今こそ全面攻勢に打って出るべきだっ!」 この異常の重大さも理解できず、頭のおかしいガキのような奴が、王宮にて声高に出征を主張している。 もちろん、正式な軍議の場ではない。公会議にせよ小会議にせよ、網草英悟などという一農民のネームプレートは用意されていない。 もっと救いがたいのは、こんな馬鹿げた論に一部藩の主および評定衆が同調の意を示していることだ。先の戦で義弟を喪った令料寺長範などは、報復戦を強く望んでいるという。 何度書簡でもってたしなめても聞かぬゆえに、本来であれば一笑に付して取り合わぬはずのカミンレイが、わざわざ出てきて制肘しなければならないということになる。 というよりも、呼び出すよりも先に廊下にて待ち構えていた網草に引っ掴まれるや、そう提言してきたのだ。「真竜種がまともに動けない今こそが機なんだ! 人間には効かないんだろう!? 僕に兵を貸し与えてくれれば、たちまちのうちに失地を回復してやるっ!」「網草殿、謹慎かつ療養中のはずですが?」 カミンレイは書面に目を通しながら、冷たく声を発した。 眼下にあるのは、地下牢の被害報告書だ。雨水など入る余地のない環境であったにも関わらず、残りの実験体……もとい真竜の虜囚が一匹余さず全滅したと。 これでは実際にあの雨と疾病の因果関係が立証されない。人体に影響が及ぶかという点においても同様である。「療養なんて」 腕を吊り下げる少年は、吐き捨てるように言った。「そんなことを気にしている場合じゃない! 今が千載一遇だとなぜ分からない!?」「別に貴方の傷の具合など気にしていませんよ。わたくしが気にしているのは、兵たちの士気と病の実態です」 冷然とした眼と語をもって、楽師は答える。「そもそも、発症する可能性が十分に残されている疾病を放置して、病に冒された国へ攻め込むなど……世の謗りや蔑みは免れますまい。諸外国より白眼視されるようなこととなれば、今後の貿易にも影響が」「こんな事をしてるヤツが道徳を説くな!」 英悟はか細い手をはたいて書類を剥ぎ落した。 返すその腕が、カミンレイの襟髪をつかみ上げて軋む歯を剥いた。「そんなに僕を成功者にしたくないのなら素直にそう言えっ! お前だろう、あの方にあることないこと吹き込んで遠ざけたのは!? 彼女は僕を悪しざまに罵るような人じゃなかった! お前が異国の地で何かを吹き込んで変えちまったんだそうに違いない!」 普段、カミンレイ・ソーリンクルは過大に評価することも過少に侮ることもない。少なくとも、表情に出すことはしない。 が、今回網草英悟に対する評価はこの一挙一動をもって底値を更新した。 八十鶴……否、五十鶴川で夏山との戦い以降、どういう心境の変化があったのかなどカミンレイには知る由もないし、元より知りたいと思えるような人間性でもない。 ただ、何かが彼の内で何かが壊れたのだと思う。 ある程度の情状の斟酌はするが、それをもって公を枉げようとは思わない。 その彼の横っ面に、強烈な負荷が加わり大きく歪んだ。 そして次の瞬間、網草英悟の肉体は横に傾き、地を滑っていった。「悪ぃな、見ていて美しい光景じゃなかった」 握り拳を回しながらそう言うのは、海軍総元締めの日ノ子開悦であった。 正規軍というよりかは海賊の大親分といった塩梅の体つきと性分と持ち主ではあったが、そこに大した差異はあるまい。荒くれ者どもを指揮するに、内外の面において十分すぎるほどの資質を持っていた。「くそっ」 毒づき、少年は去っていく。激発のせいか、指の傷口が開いて、包帯より滲む血の雫が、床に点々と滴下していた。「お手間を取らせまして、申し訳ありません」 英悟の分も含めた語感の重さをもって、カミンレイは開悦に詫びた。 本来であればヴェイチェルあたりの仕事だろうが、彼もまたダローガとともに、状況の把握と祖国への連絡網の強化に奔走している。「なァに、楽師殿とお父上には結構な船を頂いたんです。その支払い分ってことでどうです?」「そちらの支払いは、戦働きでのみ受け付けておりますわ」「手厳しいですが、軍艦もその方が冥利に尽きるでしょうな。……もっとも、しばらくは救援物資の受け渡しに国内を往来することになりましょうがね。では」 書類を拾いなおして手渡し、嫌味も卑しさも感じさせない、堂々たる海軍式の敬礼とともに、彼もまた去っていった。 これでようやく解放され、ひとりに……というわけにもいかなかった。「実のところ、御身にご助勢を賜りたかったのですが? 陛下」 背を向けた一室に声を投げると、その戸口が開く。顔の半分を覗かせて、赤国流花は悪戯っぽく目を細めた。「余が出ると余計にカドが立つだろう」 というのが彼女の弁。「あえて申し上げます。網草殿の越権、命令無視、増長はもはや譴責で済むような域を超えております。恐れながら、一切の権益と領地の没収の後、一庶民に戻すべきかと存じますが」 順不同となった資料をまとめ直しながら、カミンレイは苦々しさを抑えて上申した。 だが、返って来たのは困ったような苦笑だけだった。「勝敗は兵家の常。たしかにあの時は腹を立てたが、そこまで大それた罪を犯したわけでもあるまい」「その采配にしても、いささか器量不足が目立ちます。何故あのような者を見込まれま、簪などを渡されたのですか」「……見込んだわけではないよ」 答えは、意外なものだった。「あのな、いくら余とて、幼少のみぎりに人材収拾をしているわけがなかろう。本当に、ほんの他愛ない礼と、約束、そして今に続く夢だ」 なるほど、と抑揚なくカミンレイは頷いた。 無感情かつ適当に捉えられるかもしれないが、一応の理解はしている。 幼き日の他愛ない約束。その時点ではここまで時代が転回するとは知らず、絵空事以前の状態だった気宇。おそらくそれを初めて口にしたのが、網草英悟だったのだろう。そして、約束の品を渡すというのはむしろ彼の方が原型と言うべきだろう。 今に続く夢。彼女の原点。その象徴であるがゆえに、網草英悟はまがりなりにも特殊な立ち位置であり、女王にとっては切り離せない存在なのだろう。「……ですが、その夢はすでに遠きものとなりました。重ねてお諫めいたしますが、あの少年は命のやりとりに耐えうる精神の骨格を持ち合わせていなかったのです」 カミン。愛称で呼ばれ、背筋を正す。 全身を表した赤国流花は、覇気に満ちた眼を細めて言った。「いやにあいつを拒むではないか。……そこまで余に直属の兵を持たせたくないか?」 背を向けてすれ違い、女王は去っていく。 その足音が遠のくのを瞑目して楽師は聞いていたが、その優れた聴覚からも足音が消えた時、ようやく振り返ってその残影に望む。「……たしかに、その方が都合が良いのですがね。これはあくまで、友誼からの忠告ですよ。『お姫様』」 彼女は、そして彼女の祖国にとっては、ただ現地人と竜双方を噛み合わせていれば良いのだから、本来であれば無用の諫言だ。別にそのことをどう解釈されようと、知ったことではないが。 それから数歩歩いて、窓べりを叩く。 ふっと音もなく沸いて出た気配と影に、カミンレイは窓越しに、ひとつの決断とともにある指示を飛ばした。