「そういえば、お前が拾われて十年か」 庭の様子を一望できるバルコニーに肘を置きながら、その男は言った。 妹も先ほど似たようなことを言ったが、彼女との十年とこの男、サガラ・トゥーチとの十年は、まるで意味合いが違っている。「……あの頃は」 言いよどんで、口をつぐむ。「色々とひどいことやっちゃったよな!? 悪かった! 謝る!」 くるりと向き直った男は、パンと下げた頭の前で両手を合わせた。 顔を上げる。 五年前までは険のある、凶暴性むき出しの顔つきだったのが、今では爽やかな好青年のそれだった。 目にはあの頃のギラつきが和らいで、父譲りの優しみに満ちて、鼻筋がすっきりして整った造形の顔はなるほど、母親こそ違えどあのシャロンの兄である。「あの時分は、俺も色々あったんだ。許してくれ、とは言わない。だがそれでも、今この時勢には、胸の内におさめて欲しい」 虚を突かれたように右眼を見開いた星舟だったが、微笑して首を振った。「恨むなどと……自分の如きものを、この家に受け入れてくださっただけでも感謝しています。特に、サガラ閣下においては夏山の養子入りまで手配していただき、何とお礼を申し上げれば良いものか」「硬い!」 途中で礼を遮られて、「は?」と聞き返す。「硬いよ星舟。言っただろ、お前がこっちに来て十年。そこまで長く付き合えば家族も同然。人でなければトゥーチの名を与えても良いと親父殿はおっしゃっていたが、俺も……本当に色々とひどいことをしたが、今では兄弟や対等の友のように思っている。それともこれは俺だけの話か?」 と、星舟の右眼を不安げに覗き込んでくる。 星舟は、表情を明るくしてサガラを見つめ返した。「いえ、自分……オレも! サガラ様のことは兄と慕っています。過去のことなど、水に流しました」 そう答えた。 そうか、とサガラも表情を崩し星舟の肩を気軽に叩いた。「今回の戦も活躍したと聞いた。これからもトゥーチのため、竜のため、その才智を貸してくれ」「もちろんです。特に知恵においては、人より一つ空洞が多いもんで。その分詰め込んでおきますよ」 サガラの肩を掴んだ手に力が入る。 笑顔が一瞬引いて、真顔になった。「お前」 と低い声になったのも一瞬、ふたたび端正な顔立ちが華やいだ。 腕に星舟の頭を抱え、グリグリと拳を押し当てたじゃれついてくる。「ちょっとは冗談が言えるようになったじゃないか! シャレまで学んでいたとは思いもしなかった!」「ハハハ! これもサガラ様の教導の賜物ですよ!」 そんな談笑の時間だったが、ひとつの咳払いが彼らに割って入った。 リィミィだった。 例の白衣を引きずらないよう背を伸ばしながら、もう一度軽く喉を鳴らすと、解放された星舟にあらためて接近した。「お楽しみのところ、申し訳ありません。隊長、少々よろしいですか」 少々、という程度のことであればわざわざ副官自身が告げにくることはない。 彼女の登場が、無視できない問題の発生を意味していた。「それでは、任務に戻ります」 と礼をすれば「あぁ、落ち着いたらあらためて飲もうぜ」 サガラは、杯を捧げもつ手真似とともに微笑を浮かべた。 それに満面の笑みで応えると、リィミィに先導されて足早にその場を離れた。 やや距離を置いてから ーー水に流してやるともさ。今はな。 と、内心で毒づき、鼻で嗤った。「いずれあの頃受けた礼を、倍にして返してやるんだからな」 〜〜〜「……ハッ! 実際のところ、あの片目に何を詰め込んでいるもんだか」 自身の護衛として控えていた鳥竜グルルガンよりナプキンを受け取り、サガラは手から腕にかけてを拭き取った。「……え、仲直りしたんじゃないんスか」 朴訥な南方訛りでそう言う矮躯の護衛に、サガラは肩をすくめた。「いや本当にヒドイことしたと思ってるよ。正直、あそこまでしたのは若気の至りってやつさ。でも……あいつを見てると虫酸がはしるってのとはまた、別問題なんだなー」 あの頃は、本当に色々とあった。そのせいで荒んでいた。それは事実だ。 何より、すぐにも死にそうなあの餓鬼が長じてここまでの逸材になるとは、さすがに読めなかった。 それを予期できていれば、今頃もっと自然な友好関係を構築していたことだろう。 と同時にこうも考える。 ーーあぁまでひどい仕打ちをされもなお、勉学や家にしがみつき、物欲も見せない。そんな都合の良い人間、いるはずもない。「けど今のところ、始末する理由もないし、あいつはそれ自体が有用だ」「有用? 有能でなく」「そう、有用。一応体裁上は人間も用いるというのが統治のうえでは必要だけど、あの『相談役』とかいう置物に権限を与えてもロクなことはしない」 どうせその場の感情や目先の損得に揺れて即物的に兵や土地ごと裏切る。 だがあの『片目』には目的がある。それを達成するまで、奴はこちらを裏切らない。 トゥーチ家が東方の雄であり続ける限りは。「加えて言えば、星舟は防波堤だ。あんな素性もしれないガキが自分たちより重用されれば、『相談役』たちには面白かろうはずはない。自然、その怨嗟は竜にではなく奴自身に向く。そうやって食い合わしとけば良い。奴なら、あの程度の連中は造作もなくひねるだろうけどな」「……割と評価してるふうに聞こえますけど、やっぱり」「あぁ、大嫌いだねぇ」 ですよねー、というグルルガンのつぶやきが、風に流れていった。「まぁ星舟が才気走って失敗するならそれでも良いさ。その時はやっぱり人間なんかは用いるに値しない劣等種っていう証左にもなる。生かさず殺さず飼い慣らす。それがあいつへの対処さ。来たるべき時が来るまでは、あの感性の欠片もないシャレも我慢しておいてやるとも」 はぁ、とグルルガンは理解しているのかどうか分からない生返事をした。「ですが、それで良いんスか?」「ん? 何がよ」「だって、サガラ閣下も半分はに」 瞬間、グルルガンの口をサガラの腕が押さえつけた。 その速度と……黒髪の下からのぞく真紅の瞳に宿った殺意に比して、さほど力は入っていない。 だからこそ、声も出ないほどに恐ろしかった。「……なぁグルルガン……お前さぁ、今なにかとんでもないこと、口走らなかった?」 押さえたその手が、汗の吹き出すアゴへと移った。指先が立てられて喉元をなぞり、鎖骨の間に爪が食い込んだ。「す、すんません! 勘違いでしたッ」 肌に粟を作りながら、グルルガンは悲鳴じみた詫びを入れた。「そっか」 手を戻したときには、サガラの顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。 霧散した殺気に、鳥竜は胸中で安堵の息をこぼした。 この誇りと力の圧は間違いなく、自分たち鳥竜獣竜のような半端者とは違う。正真正銘の竜のものだった。 たとえそこに、何者の血が混ざっていようとも。 サガラはバルコニーの下を覗き込んだ。 その眼下の庭を、早歩きで当の隻眼の人間が通り過ぎていった。「ハッ、走れ走れ。せいぜい足掻くが良いさ」 サガラは低く呟いた。 その横顔には、他の竜にはない、闇深さのようなものを見た気がした。