英悟が入都すると、そこはすでに戦の様相だった。 物の喩だ。まさか竜軍に攻め込まれたわけではないが、次なる戦の予感を察知して、人が、物が、車が、船が、官が民が流動していた。 とりわけよく動いていたのは、皮革である。 白刃を打ち合い、衣に色づけしてその武と功を誇る時代が終わったといえ、いまだ動物由来の資材は重宝がられていた。 いや、銃の発達により弾薬の消耗は加速した。したがってそれを容れる胴乱やそれをくくりつけるズボンのベルトなどでさらに需要が増した。 対尾の時もそうだった。 単なる商戦ではない。実際に、血を流す戦が起きる。 革細工を二次的な収入源にしてきた村の倅である英悟は、磯と獣の臭気の複合体を嗅いで、それを読み取っていた。 〜〜〜 例のごとく、赤国流花の私室へ招かれると、そこにはすでに先客がいた。 精悍さと、幽鬼のような陰鬱が同居した風貌の彼は、戦装束である大頭巾をかぶっていなくとも、誰かはすぐに分かった。 霜月直冬。 追撃戦における共闘相手。ともに竜軍の本陣に斬り込んだ同胞。この世で唯一無二、利器に頼らず真竜を殺せる男。「っへへ、どうも……」 愛想笑いで彼への萎縮と、そして招かれていたのが自身のみではなかった落胆を隠し、英悟は頭を下げた。 直冬は目礼したのみだった。必要以上に偉ぶらないが、かと言って彼に親しみを見せるわけでもない。 当然の道理だった。自分は一村の成り上がり。彼はかつてはこの大陸で覇を唱えた七尾藩の現当主。年功も家格も、天と地ほどの差がある。 だが、英悟にはそれでもかすかな反発を抱いた。それでも自分たちは、この場では、『彼女』の前では対等の、いずれも欠けてはならない、彼女が王道を疾るための車輪のはずだと。「この間は、助かりました」 英悟はあえて気を奮い立たせ、ことさら明るく話しかけた。「いやー、本当に生身で竜と戦える人間がいるとは思いませんでしたよ。実際に目にするまで、何やらそういう特殊な兵器かと思っていました」 返ってきたものは、沈黙だった。 一瞥を与えてくれもしない。まるで自分が存在しないように、まるで英悟が存在しないように。 ようしそれならと、ますます自身を鼓舞し、あえて過剰に踏み込む。「なんか、秘密があるんですかね」 探るような問いかけにも、直冬は反応しない。 軽い落胆や諦めとともに向き直った英悟だったが、「波を、見ている」 ふいに横合いから、声がかかった。「ナミ?」 思いもかけない返答に、聞き返した声音は上ずっていた。「奴らの『鱗』を打つと、波が生じる。綻びが出る。そこを狙い撃って、斬る」 それは途方にくれるほどに抽象的な説明だった。おそらく、それ以上の説明は当人にさえ困難なことなのだろう。 砲弾さえ跳ね除ける未知の金属にまつわる摂理など今まで誰も確かめたことがなく、ましてそれを切断できる極致に達した人間など今までいようはずもなく。 その技術や原理はたしかに存在するかもしれないが、表すに妥当な言葉は今日に至るまで成立していなかったのだろう。 もっとも、それが具体的に明らかになったとして、それを実証できるのはこの直冬のみのような気もするが。 女王と異国の腹心が入室してくるまで、それ以上の話の広がりはなかった。 〜〜〜 気難しい顔で入ってきた流花とカミンレイは、むっつり黙ったまま、先に待たせていたふたりにさえ気づかない風であった。 声をかけるべきか、否か。そう迷いさえする英悟だったが、彼女たちのうち、流花が腕組みし、瞑目するように睫を伏せたまま、おもむろに口を開いた。「嫌がらせだな」「えぇ、嫌がらせでしょうね」 カミンレイがそれに応じた。なんのことだか分からず、逆に押し黙って対応を待っていたのは英悟たちの方だった。「先ごろ、カミンが忍ばせていた内間から報がもたらされた。竜どもが比良坂への侵攻を企てているとのことだ」「領有している中遠藩よりも援軍の要請が来ています」「比良坂ですか」 英悟が口を挟んだ。 海に通じてこそすれ、それ自体からはやや離れた、不毛な丘陵地帯である。 海沿いでの迫合いが続いていたが、ここにきての陸地である。「兵の規模はせいぜい一五〇〇程度とのことだ。名のある真竜に動きはない。いずれも無名若手の輩で編成されている」「夏山星舟の名があります」「誰だそれは」「過日に難癖をつけてきた男です」「あぁ、あれか。だがお前の言うところ、戦の腕は二流ではなかったかな」 質も量も、彼女たちは問題としていないようであった。土地の問題ではない。軍事力の問題でもない。であれば、何をもって顔をしかめているのか。「人数や地理が微妙であればこそ、扱いに困っているのですよ」 カミンレイが王に代わって答えた。 英悟は、視線で女王に具体的な説明を求めた。「我らが動けば追い返すのは容易いだろう。だが、この程度で出兵の前例を作れば、前線の諸藩の要請にことごとく応じなければならなくなる」「しかし芽は早々に潰すべきでは?」 そこで初めて直冬はこの密議に加わった。 流花はしっかりと彼に向き直って薄く笑った。「それでも良いが、行っていただけるのかな?」「出来ればお断りしたい」 えっ、と少年士官は思わず声をあげた。 女王の命は最大級の栄誉であるはずである。藩王国とそれに属する民草が、将士が、後の世のため全霊で当たらねばならない事業であるはずではないのか。「先の戦、我らにも少なからず被害は出ている。どうしてもというのであれば是非もないが、後々のことを考えれば下らん戦は避けて温存はしておきたい」 彼の言い分はわかる。 だがそれをはっきりと物申して拒絶するということは、英悟にとっては脳裏をかすめたことさえない、ありえない受け答えだった。「そうだな。余としても、一杯の水を大盃に注ぐがごときせせこましいことは、したくない」 そして彼の直言に流花が理解を示し、かつ遠慮を示したことが何より意外だった。 だが同時に、ここまで説明や彼女たちの思惑を聞かされれば、先の渋面の意味も理解できた。 敵も半端、得られる利害も半端。 となれば応ずる側も微妙な均衡感覚でもって応じなければならない。 ただ相手を面倒がらせるだけの、実益のない軍事行動。 ゆえに流花たちはそれを嫌がらせと評したのだ。「おそらく敵の狙いは」 楽師は語る。「かくも無意味な出兵の目論見としては、表向きはこちらの経済活動の妨害」「どうかな、案外下らん功名目当てで下郎が名乗り出たものかもしれんぞ」「その可能性もありますが、それを採り上げた者の思惑がございましょう」「我らがそうしたように、その侵攻軍で我らを釣り出し、決戦に及ぶとかか?」「そこまではしないでしょう。ただ、状況に応じた我らの攻め方、守り方。その情報を引き出したいというのが狙いかと。ここまでの機動戦も、おそらくはその研究の一環」 なるほどなぁ、と。 自身の寝台に胡座をかきながら、女王は納得の相槌を打った。 だがその双眸は、灼熱を保って煌めいている。「であれば二度とそんな舐めた真似が出来ぬよう、ことごとく刈り取る必要があるな。それこそ、その研究成果とやらをひとつたりとも、持ち帰らせぬように」「であれば、一撃の破壊力を有し、あらゆる状況に柔軟に対応ができ、かつ進退の切り替えの速い人物が適役でしょう」 カミンレイは王の意向に寄り添う形で建言した。 あぁ、と若き士官は内心で感嘆する。 これは、芝居だ。茶番とまでいかないが、彼女たちの麾下において、そんな条件に当てはまる人材は数少ない。 英悟はようやく、自分がここに呼ばれた理由を察した。おそらく彼女たちは、最初からこの自分を必要と、「ヴァイチェルが適役でしょう。ダローガに補佐をさせます」 されている、はず、だった。「え?」 思わず聞き返す英悟をよそに、流花は悩ましげに腕をかき抱き、首を傾げた。「あの男かぁ……? 追撃戦では例の片目にしてやられたのだろう?」「えぇ。しかし今回は内部より子雲が陰助します。ダローガも彼に無茶はさせないでしょう。何より彼の抱く深い屈辱と怒りが、先の条件である破壊力となりましょう」「手綱が握れるのか。今回は」「ウクジットが武運拙く死したことは不幸なことながら、それによって指揮系統が整理されました。先のような不協和音を出しはしません」「ふん、よく言う。あれはお前らしからぬ手落ちだった。間引き目的で見殺しにしたのだろう?」「我らが軍神スヴォートヌイの御名に誓い、そのようなことは決して。それに彼も覚悟のうえで異国の地を踏んだのです。その士魂に、わたくしがとやかく言うことはできません」 話は進んでいく。英悟の名が、一度ものぼることなく。 流れが脱線しかけた間に彼は、自身の戸惑いをある程度収拾させることに成功した。だが、未だ鼓動は不規則に打っている。それを落ち着かせるには、彼にとってただひとつしかなかった。 越権、不遜を承知で、少年は憧れた女性に向けて半身を乗り出し、声をあげた。「僕を……僕を使ってください!」