夏山星舟は、縛られていた。 どこぞの家屋の三和土で、柱に、さんざんになぶられながら。 浴びせかけられるぬるま湯のごとき水は、時折垣間見える外の田園から適当に汲み上げたものなのだろう。閉じた唇の隙間からじんわりと侵入し、切った口腔をさらに痛めつける。鼻からも入ってくる腐った藻の悪臭が、夏山星舟に意識を手離すことを許さない。 だが今はそれで良い。一瞬たりとも気を絶やすなと、我が身に命ずる。「くそっ! 此奴め、面の皮の厚い!」 散々に殴りつけたあと、比喩なのか本当の意味でなのか、老人が言った。 痛む手の甲をかき抱くようにするさまを、星舟は嗤った。 何が武士か。何が面の皮の厚いものか。老人の私刑も、尋問も、戦い慣れていない人間のそれだった。 どこを殴れば効率よく痛めつけられるのか。そこに考えが至っていない。ただ目に見える暴力と権威でもって脅せば、いずれは屈服するものと思っている。実際のところ、かつてはそれで大概おのれらの意のままにしてきたのだろう。 だが、もはや自分たちの力も衰え技巧も通用しなくなったことに気づいていない。かえって痛んでいるのは、自身のろくすっぽ鍛えていない筋骨だという自覚がない。けって自分たちの今後の立場を貶めていることに思い及んでいない。もはやそれは自傷にして自殺だ。 ――自分ならもっと上手くやる。 そのいろはでも教えてやろうかという親切心が、他人事のように浮かぶ。だが、無意味だと考えやめておいた。「……何が、おかしい」 だが、恩知らずにも彼らは星舟の顔に張り付いた嘲笑に、目をいからせた。刀を抜かんと柄に手をかけた。「おやめなさい」 制止の声がかかった。例の、御者に扮していた男だった。すでにみすぼらしい装束は脱ぎ捨てて、長袴に半マンテルという、軍人めいた格好をよく着こなしていた。 歳は経堂と同じぐらいか。だがどこか虚無的で荒廃している彼とは対照的に、生やした口髭を綺麗に切り整えた、物腰に品のある優男だった。「その男はどうやら、生半の精神力ではないようです。力づくでは、かえって恨まれるだけ。我らの正義と道理を説き、心腹させるべきかと」 だがその指先の動きは精妙かつ繊細そのもので、一本の医刀と並の医師も顔負けの手腕でもって、リィミィも放った刃を老人の腕から取り除いた。 からんと、適当な机に転がされたその異物を見た瞬間、治療を受けていた老人にあらゆる感情が蘇ってきたようだ。縫合を受けながら恐怖と怒りがないまぜになった顔を、強張らせる。「貴様っ、何故さっさと助けなかったのだ!」「領主館より逃げ帰った同志曰く、夏山星舟は死角であるはずの左側への不意打ちも捌いたとか。拙者も、この者はひとかどの武人と見ました。あの瞬間、乾坤一擲の奇襲を仕掛けるまで隙などなかった。これも我らに使命にため。何卒ご容赦いただきたい」 などとつらつらと正論をば並べられては、年長者として立つ瀬がない。 痛みか悔しさか。老人らは奥歯を噛み締めた。「……お前、やっぱり見たことあるな」 星舟は『相談役』を介さず、直接その男に語りかけた。「汐津軍にいただろ」「……元、汐津藩徒士組頭、恒常子雲。あの戦の後責任の所在を問われ放逐された」「それはそれは」 令料寺長範ら当時軍を率いていた主だった者らがあの後罷免されたとは聞いていない。要するに、そのシワ寄せが下々の者へと回ってきた、というわけだ。「だからといって勘違いしないでもらいたいが、貴殿を憎んでこの謀に加わったわけではない。ただ純粋に、この義挙に人類解放の風を感じてのこと」「義挙、ね」 そこであらためて、今この状況に立ち戻る。 誰がこの絵図を描いているのか、と。 この老いぼれどもに、それを画策できるとも思えない。だが直接動いているのは紛れもなく老人たちで、しかも細かな行動の調整が取れていない。そもそも自分の説得などに時を費やすより、領主館を急襲するなり被害を承知で脱出して自領に籠るほうがよっぽど筋の通った判断だ。 察するにこの連中は、計画通りに動いた結果、戦局全体にどういう影響を及ぼすのか、どういう意味があるのかさえ理解していない。その結果自分たちがどういう結末を迎えるのかさえも。 ただ目先の欲に溺れているだけ。微細な帳尻合わせや尻拭いは遠方にいる誰かに丸投げし、責任の所在は自分たちにはないと信じて疑わない。言われたこと以外のことをすることへの、忌避。保身。甘え。 このまま彼らは、反省とは無縁の精神性でい続けるだろう。 誰かを妬みながら生き、誰かを憎みながら死ぬだろう。 それらが頼みにしている、裏方はどうか。 星舟はおのが想像の中に、音曲を奏でる女楽師の姿を視た。 どこまで彼女が関与しているかは知らないが、この糸の最奥にいるのがカミンレイに違いない。 だがそうなると、別の疑問が生じる。 この彼女らしからぬ雑さはどうだ? 余念無い下準備の末に大包囲を完成させた女が、こんな連中を頼みとするだろうか。 そこに対する解は、すぐに出た。 頼みとする必要など、あろうか。 そもそもカミンレイにしてみれば、扇動はすれども、同調する必要は微塵もない。竜国内を荒らしてくれればそれで良いのだ。いまだ生乾きの新国家を固めるまでの、時間稼ぎとして。そのために何千人死のうとも、あの異邦人に憐憫の情など沸きはすまい。 今回の件は、すべて竜軍の敗北から端を発している。いや、厳密に言えばその敗走と、無謀ともいえる七尾藩単軍による、本陣突撃。 それらは衆目にさらされながら行われた。いや、おそらくはそこまで計算に入れてあの女は根回しを続けてきたのだ。「竜は殺せる」「竜が絶対だった時代は終わった」「この波に乗り遅れるなかれ」 時の目撃者たちにそう示唆し、喧伝するために。 結果として、その事実は風聞というかたちで流行病のように国内外に過剰に広まり、人々は浮足立った。 そしてその背を、カミンレイは突きとばした。 いまだ帝国内でくすぶる不穏分子に今回のように甘い言葉で囁きかけ、目に見える形の報償をちらつかせたりもしただろう。あるいは、七尾藩の合力の可能性をほのめかしたか。 あとは転がる先がどこであれ、彼女にとっては知ったことではなかっただろうし、その程度で動くような軽率な輩に、それ以上の用などなかったはずだ。 あの女宰相からしてみれば、反竜の土壌こそ重視すべき事柄であって、その中で芽吹く雑草そのものには、さして興味などない。「……アホくさ」 泥と血が過剰に分泌された唾液に混じる。そんな口は、動かすのも億劫だった。だが、それでも思わず声がこぼれた。 どんな大計が待っているのかと思えばなんのことはない。自分は遠く離れた幹を追いかけようとして、偶さか足下に生えた蔦にけつまずいただけなのだ。 そしてその蔦と成った種の正体にも、おおよその見当がついた。 占拠した農家とおぼしきその家屋。その出入り口を封鎖するムシロの帳が開き、光が差し込んだ。黒い人影がぬぼっと伸びたかと思えば、それは白皙の少年のものへと変化した。「謹んで言葉を賜るが良い。斉場家が後裔、斉場繁久(しげひさ)様であらせられる」 ――あぁ、やっぱり。 果たして星舟の予想は当たった。だが、ここまで歓喜も痛快もない的中もないものだと内心で毒づいた。