先を行く老竜の広い背が、星舟の視界から都の姿を覆い隠していた。「どうした? 帝都の光景より、見慣れた者の背が希少ということもあるまい」 そう言って、星舟を含めた五名ばかりの供回りをからかう。これはアルジュナらしからぬ軽口であった。それは、今まで背負ってきた荷が下りたことへの安堵から生じたものか。あるいは突如に浮足立ったおのれに、彼が一番動揺しているのか。 たしかに横に目を移せば、帝都の街並みがそこにはある。 踏み込むうちにどの方角が東西かわからなくなるような升目状の区画は、童謡などで若い時分に頭に覚え込まさなければ、生まれ育った者でさえ迷うという。 これは、先史以前、竜たちがおおよそ文明というものを成立させる前に整備されていたものだとされている。 廃墟、遺跡、あるいは古城同然だったその場所が人と争い、交わるうちに再び流用され、生活環境が整えられた。 とはいえ、立地的には最適とは言い難い。 四方は山で囲まれていて、弓矢で争っていた時代には難攻不落であったことだろうが、大砲が登場した今なら、帝都が射程に収められる。 近くに金山があるわけでもなし、経済的にも便利とは言えない。 ――まぁ、金山ならぬ禁山ならあるわけだが。 自分たちを見下ろす山に、一瞬だけ意識が向いた。 あるいは、あそこに湯水のように湧き出る鉱脈が本当にあるのかもしれないが、この苦境においてもあの場所から何かが運び出された形跡はない。 そこに通じる道だってもはや整備されているかわからない。 正真正銘の、不可侵の聖域だ。 鬱蒼と伸び茂る山の木々から脇目を外し、人間は咳払いした。「しかし、今の自分の興味は御身の進退にこそありますので」「言ったことが全てだ。戻り次第、領内にあらためて布告する」「ですが、この状況下で唐突な代替わりなどすれば、さらに混乱が広まりましょう。さらに言えば」 そこまで口にして、星舟は言葉の結びを呑み込んだ。「さらに言えば、なんだ」 アルジュナは静かに追及した。「……帝のおこぼしになられた不安も、道理かと」 ――こやつ、ついに言いおった。 周りの護衛は星舟の他はすべて真竜で、宝石質の瞳をそう咎めるように向けてきた。 だが、そのいずれにも気丈に振る舞おうとも動揺の色が濃い。おそらくは彼らとて、聞きたかったことは引退がらみのことばかりのはずだ。 星舟は思った。 自分は彼らの無言の圧力に押されて、問いを投げたのだと。 私情を差し引いても、近頃のサガラの動向は派手に過ぎる。 近衛を率いての反攻作戦はまだ良い。だがその苛烈さは内にも向けられている。 事前に父より通達があったこともあるのだろうが、アルジュナの頭を飛び越えて竜たちを差配している。それも、東方領の直轄にさえ入っていない与力衆や小領主にさえ。 特に派手に動いているのが領土問題の口出しだ。 自分たちが切り取り返した旧領はまだしも、あの大敗によって浮き上がった管理者不在の領内にさえ東方領の連隊や特使を派してその代行として居直らせている。 また後継者がいたとしても、その遺産の整理と称して乗り込み、少しの不正や過失が見つかれば、それを出汁にまた自分たちがその領地の管理を名乗り出る。 よもや竜が人に寝返ることはあるまいが、周囲の不満は確実に積もり始めている。 明らかに咎に対する罰が大きすぎる。公平さに欠けていた。それでもなお、サガラは直轄領を増やし、自分の手を拡げようとしていた。 そのことを説いたが、「あれも張り切っているのだろう。じきに落ち着きを取り戻し、対応も緩和される」 とアルジュナは、それを黙認するかのような受け答えだった。 そこには、いまいち煮え切らないような余韻があった。 ――ひょっとしたら、引退はサガラの野郎に勧め、いや責任を問われて強制されたのか? 星舟はその背に探るような目を向けた。 アルジュナはそれを承服したかもしれないが、星舟にとってはたまったものではない。 いずれアゴでこき使われることになるのは自明の理であったとしても、こんな混沌極まる戦況で、恣意的に矢面に立たされるのは勘弁してもらいたい。 まして、七尾藩に対するのは、もう御免だ。「しかし」 食い下がろうとする星舟の言葉を、「では、お前がやってみるか」 と、試すような主の問いかけが遮った。 は? と乾いた声で思わず聞き返す彼の頬を、うすら寒い風が撫でた。 唖然とする星舟に合わせる形で、先行していた真竜たちは足を止めていた。「実のところ、早急に領内の事情に片をつけたいのは私も同意見だ。長引けば長引くほどに、住民の反乱や再侵攻を誘発する可能性は高くなる。が、いかんせん内外に目を向けなければならぬサガラのみでは、どうしても足りぬ。……よって、『人手』が要る」「それで、自分に遺産遺領の調停や整理を代行せよ、と」 話が早い、と老竜は頷いた。「しかし、サガラ様がご自分の任を取られることを良しとしましょうか」「引退の前に、私から辞令を正式に出す。よもや先代最後の指示を直後に撤回することはあるまい。揃わぬ足並みを外部に見せるようなものだ。何より、手が足りぬのはあの者とてわかっているはずだ。表立って拒みはせぬ。いや、拒めはせぬ、といった方が正しいか」 そういって、かすかにアルジュナは笑った。だが、その笑いには攻撃性も伴っていた。 理解した。敗戦の責があるゆえ口を挟む資格がないものの、現状に忸怩たる思いを抱えているのは当のアルジュナなのだ。「どうする? お前の言うところの公平さと、サガラの厳格さ、領主たちがいずれを受け入れるのか、勝負してみるかね」「勝負……というのはやや恐れ多いことですが、片や閣下の名代とは言えただの人間。片や間もなく当主となられる竜。果たして論をぶつけ合うことができましょうか。そもそも何故自分なのです?」 しばらく、沈黙があった。アルジュナはあらためて夏山に向き直った。「ひとつは、お前の言うところの公平さ。我らが直接身内を洗えば、それこそ派閥や種族、家名に偏る。だがお前は人であり、特定の派閥に拠らぬ」「なるほど」「第二に……実のところ、かつてほどお前は毛嫌いや過小評価されておるわけではない」 では『かつて』は客観的に見てもそうだったのか。 星舟はそう言いたかったが、話を円滑に進めるべく唇を閉じた。「お前は誰もが死ぬと思っていた退却戦から見事生還した。単身逃げてきたのであればまた違ったであろうが、被害を最小限に減らし、多くの竜を救った」「ブラジオ様は、死なせてしまいました」「皆意地があるし負け戦ゆえに大っぴらに褒めるわけにもいくまいが、内心お前を見直しておる」 そうですか。星舟は乾いた相槌を打った。だが、なんの感慨も湧かなかった。 力量、格、経験、実績。自分の中であらゆるものが不足しているのを知ったのは、他ならぬ星舟自身だ。「むろん、今なおお前に含む者も少なくないのは事実だ」 星舟が脳裏に浮かべたには、カルラディオ・ガールィエの、雨に濡れた痩躯と憎悪の形相だった。 あの彼が「ハイお勤め御苦労様です」と、倉を開いて自分たちの台所事情を教えてくれるとは思えない。「そこで、先にお前には別の任を与える。それをもって、功とし格とし、説得力とせよ」 窪んだ眼窩の下、瞳を閃かせて主は命じる。「藩王国と話をつけ、捕虜の返還を要求すべし」 と。 あの大戦の後、行方不明者に比して回収できた死体の数が著しく違うということは、領国においても沙汰されてきたことだ。藩王国側がひそかに捕虜をとっているのではないか、ということも」 知らず、星舟の口端には笑いがのぼっていた。 皮肉と乾きが多分を占める、暗い笑みだった。「……後に控えている仕事より、よほど難しいですな」 というのが、星舟の忌憚ない見解だった。 敵は、捕虜を十中八九捕らえている。そして今までついぞ捕らえることのできなかった竜が相手だ。自分たちも、そして彼ら自身とて知り得ない奇跡を持つ種だ。 どのような目に遭っているか想像するだにぞっとしない。 だが、だからこそ彼らは手放すまい。どんな交渉材料を持ち出そうとも……いやそもそも……「交渉するための駒が、足らないかと」 そう切り出した青年の前に、アルジュナは歩を進めた。 衰えたとしても巨躯である。一歩進むだけでその歩幅は大きく、眼前に山がせり上がったかのような迫力がある。「星舟」 この日はじめて、主は彼の名を呼んだ。「ただ実績を積み上げることだけが、格か? 成功を続けることだけが、皆に認めてもらう術か?」 星舟は、すぐには答えなかった。答えられなかった。「そうではあるまい。お前は過日、あの地獄を切り抜けた。それこそが、今のお前を再評価する契機となった。違うか?」「それは……」「少なくとも、出来る仕事のみ得意げに切り回すよりは、よほど良い」 アルジュナの指摘は、今までの彼の指針を否定するものだった。「お前は難局にあって全身全霊を傾ける時こそ輝き、そして伸びる質の男だ。失敗しても、そこから何かを得られれば良い。すべての責任は引退とともに私が負う。だから、存分にやれ」 そうアルジュナは励ましたが、星舟の目には殿軍を半強制した時のサガラと重なった。 ――親子揃って狸だな。 内心で苦笑をこぼす。 体良くおだて上げているが、なんのことはない。要するに、サガラと自分を噛み合わせ、その倅への牽制に当てる胆なのだろう。 だがそれほど悪い気はしない。 つまりそれは夏山星舟がサガラ・トゥーチの対抗馬たりえる存在だと認められたという証だ。少なくとも、現惣領の進退を賭けるに値する程度には。 ふぅ、という一呼吸の間に、感情と打算を整理する。 思考のために一度沈みかけた顔を上げた時には、いつものふてぶてしい執事の顔に戻っていた。「承知しました。それでは成否に関わらず、この身の全てをもって、事に当たらせていただきます」 先ほどまでの弱音は何処へやら。ぬけぬけとそう宣言する青年に、うむ、とアルジュナは短く返す。 だがその唇には、微妙な安堵の緩みがあった。「それで、このままお帰りになりますか」「うむ……あぁいや、せめてシャロンらの土産でも、な。色々と案内を頼みたい」「……なぜ自分に?」「近頃妓楼に足繁く通っていると聞く。女の扱いには慣れていよう」「……遊女とご息女をひとくくりにするのはどうかと思います」 先ほどの剣呑なやりとりなどすっかり忘れたように、一団は他愛ないやりとりとともに都を巡った。 だが東方領主の言葉は一時の座興や気まぐれではなく、まして夢でもない。 帰郷するやすぐに、アルジュナ・トゥーチの名の下に辞令が下され、星舟はもう一方の都へと向かうことになる。