今年に入って初の雪が降った。 大雪や吹雪と呼べるたぐいのものではないが、周囲の友軍がうすく白く、冷気でかすむ。 港の抑えとして、そして有事の際には東西いずれかを援護する遊撃部隊として中央の丘陵に展開するトゥーチ家の第二連隊は、俯瞰すれば乳の海に浮かぶ孤島か巌のように見えただろう。 星舟は手袋をはめた両手を擦り合わせて、じっと目を凝らす。 堪え難い冷え込みというわけではないものの、焦燥感がそうさせた。 港の敵が薄まった包囲を突破しようとすることは予想されたが、消耗しているがゆえか、主力たる令料寺隊が抜けたがゆえか、あるいは水軍に背後を刺されることを恐れてか、討って出る気配はない。 気を配るべきこと、その上で対処しなければならないことは山ほどあるのに、それを成すだけの兵力もツテもない。 ゆえに宙吊りになったような状態で、示威行動的な進退と牽制を繰り返すほかすることがない。危機は、今すぐそこに迫っている。そんな予感があるのに。 何度目かの舌打ちが傍らのリィミィにも漏れ聞こえたようだ。「東へ物見に遣ったシェントゥはまだ帰ってこない。が、西にあてがったキララもな」「わかってる」「今はおとなしく彼らを待て。待つ姿勢も、大将としての器量が問われるぞ」「だから、わかってるって」 忌憚ない副官の直言に手を払いつつ答える。 手持ち無沙汰なせいもあって、一挙一動が大げさになっているという自覚があった。 そんな星舟をなごますように、クララボンが明るい笑い声をあげた。「まー、真竜を殺せる人間がいたってたって、たかが一人でしょ? あんだけの真竜が鎮圧に出たら、それで終い。明日にでも凱旋してくるでしょうよ」 そこから落とすか退くか選べば良い、と鳥竜は言う。 だが、それを嗤ったのは、経堂だった。「あれを、あれらを、一個の人間として見ちゃいけない。もはや一種の新兵器だ」「怯えすぎじゃない? 何見たか知んないけど、誇張しすぎでしょ」「あぁ、俺の妄想なら良かったんだがね。お前ら鳥竜が飛び立てもせず地面に引き倒されて撃ち殺されていくのを見たら、お前さんもその主張を改めるぜ」 第二連隊の中でも年齢と種族間の意識差が顕著なふたりが、その確執を再燃させる。 リィミィのちいさな咳が、それを収めた。 いずれにも肩入れせず静観していた星舟だったが、心は経堂に寄せている。皮肉と苦味の混在する彼の言葉には、その殺戮の場を見てきたという重みがある。 いや、それを否定したクララボンも、たしなめたリィミィも、そして胸をざわつかせている星舟自身もまた、本当は気づいている。 この戦は、普段のそれとは違う。 いや、この戦を機として、何か根底から覆ろうとしているということに。 潮風の向きが、一度おおきく渦を巻いてから変わった。 氷のつぶてでもぶつけられているかのような、冷たい風。 港越しに、水平線の向こうに、巨影が見えた。 たとえ見えているのが輪郭だけでも、その威容にはおぼえがある。 長さおよそ五十五目取の、鉄板張りの巨大な軍船。方形の船体に、大名屋敷でもそのまま取り付けたかのようなその帆船は、南方は碧浜の総領、ラグナグムス家の母船である。洋上の敵が動いたと知り、当主自ら迎撃に当たっていた。「……どうやら、あちらは蹴散らしたみたいだな」 冬風をはらんだ帆がなびくさまを見て、クララボンが安堵の息を漏らした。 それから肩をすくめながら経堂をおちょくるかのごとく、腰をかがめて上目遣いに見た。「なぁおっさん、目がまだ達者か試してあげるよ。帆の耀紋がいくつに見える?」 そういって持ち上げた指の先、来着した帆船の違和感に、星舟は気がついた。 随行しているはずの麾下の͡小早船の姿がない。こころなしか、クララボンの示した帆は、傾いている気がした。 ……遠く、半鐘が鳴り響く音がする。「リィミィ、遠眼鏡よこせ」 硬い声で命じて差し出した手に、手早く取り出された筒が落とされる。 のぞき込んでもその全容までは掴めなかったが、明らかに異質な状態だった。 ……甲板が、出火をしていた。 そして直後に、レンズ越しに黒煙と橙色のひらめきが、星舟の視界を焼いた。 目を離せば、爆発音が遅れて聞こえた。 もはや肉眼でも把握できる。船影が、おおきく傾いていた。 船員たちが海にいやおうなく投げ出されているのも目撃したし、その水音や断末魔もかすかに漏れてきた、ような気もする。 上下ひっくりかえり、船骨を外気にさらしながら座礁する軍船の姿は、あたかも猛禽に無残に腹を食い破られた畜生のような印象を与えた。 たしかあれには当主が総大将として乗船していたはずだが、どうなったのか。 かつて生誕の祝賀の際、使者として謁見したときにあったのは海の男という表現の似つかわしくない、書生じみた線の細い青年だったが、まぎれもなく真竜だった。 その『鱗』であれば艦砲射撃にも耐えうるかもしれないが、問題は水に落ちた後だ。戦国の甲冑を着ているようなものだ。重みで沈みゆくから、一度解除せざるを得ない。だが、素体をさらしながら海面に浮上した彼を待っているのは、おそらく……「……ラグナグムス家の象徴が、沈む……」「は、ハハ……自分が何かしたわけじゃないよね」「お前さんが指を突きつけただけで船を吹っ飛ばす妖術でも持ってない限りな」 狼狽ぶりも三者三様といったところだが、彼らの上司たる星舟の精神状態はもっとひどい。 気づいた。気づいてしまった。敵の狙いが、戦略が、意図していたところが。 今の砲声と、巨鯨のごとき敵艦隊の威容によって脳は揺さぶられ、その中に点在していた情報の断片たちは、数珠つなぎに連鎖し、直結する。「……退くぞ……」 自分でも聞き取れないほどの声量で命じた彼に、リィミィは怪訝そうな目を向けた。彼女が悪いわけではないが、自身に対する憤りを乗せて、彼は声を荒げた。「退けっ! 北の間道口まで後退だッ!」「退く? んなことすれば港の連中が出てきちまいますよ!?」「どのみちもう抑えきれねぇよ! このままだと敗残兵に押しつぶされるぞ、早くしろ!」 部下たちには当惑もあったが、まず身体が彼の号令に反応した。そうするように仕込まれてきた。 それからいくばくもしないうちに、最低限の撤収準備を終えた彼らの下に凶報が矢継ぎ早にもたらされた。「七尾藩および港の脱出部隊、西の防衛線を突破! そのままこちらへ進軍中ッ、もう間もなく来ます!」「ひ、東の戦線が……谷参で壊滅……騎馬隊が先陣切って逃げ散るみんなを、追ってます!」「騎馬隊!? 嘘をつくな! そんなモン、この戦場で使い物になるはずがないっ」「ほ、ほんとうです! 真っ黒な大男が先陣切って、真っ黒な馬にまたがって……ッ」 錯綜する戦況、いや一方的な敗報。 陣を移し、戦場よりいったん離れた第二連隊の中でさえそうなのだから、敗兵、死者、虚報、凶報の渦中はいかばかりか。 星舟は笑った。笑うほかなかった。 タガの外れたようなその声に、周囲の者が足を止め、一様に振り返った。「最初から、和浦を焼いたときから……これが狙いか」 一部派閥の独断専行と見せかけた、露骨な蛮行。それによってトゥーチ家を挑発し、負けたと見せかけ対尾港を攻めさせるべくこの死地に誘い込んだ竜軍を、逆に三方から包囲する。 未知の軍事力をもってして、力づくでねじ伏せ、この袋小路に押し込める。 不意打ちじみた正攻法、という矛盾した表現が、脳裏をかすめた。 最初からそのつもりだった。いや誘いであることは察していたが、ここまで大規模な包囲まで展開されるとは、星舟さえも読み切れなかった。「そんなことが、あるわけがない」 呆然とつぶやいたリィミィと、かつての彼の目算は合致している。 ありえるはずがない。一度でも戦場の混沌に身を投じた者であれば、ほぼ必ずそう言うだろう。 三手に分けた大軍を各方面から差し向け、同時期に勝利せしめ、同日に同じ戦場に参集させる? そんなあまりに壮大すぎる戦略は、兵法を聞きかじったような前線知らずの青二才が、いかにも机上で空想しそうなことである。が、通信手段さえまともに確保できない現実において、容易にできることではないのだ。 まして、新政権を樹立したばかりの、混成軍をおのれの手足のごとく統御することなど。「けど、実際やられちまったもんをどうこう言ったってしょうがねぇだろ!」 リィミィを、そして己自身を怒鳴りつけた。 振り返る。よほどひどい形相だったのか、シェントゥがちいさく悲鳴をあげた。 少年の華奢な肩を掴むや、早口で、だが確かに聞き取れる滑舌で、彼は少年に言った。「帰ってきてすぐ動かして悪いが、使いっ走りを頼む。後方の本隊に行って今から言うことをシャロン様かサガラ様に確実に伝えろ。『我が方敵に包囲されつつありこのままでは全滅必至。急援求む』と」「わ、分かりました!」「さっきみたいな調子じゃ困るぞ! 一言一句違えず伝えてくれりゃ良い。それと、役目を果たしたらもう戻ってこなくていい」 それ以上言う気は無かった。 行けと細腰を叩いて追い遣ると、経堂がその頼りない背を見送った。「自分が行きましょうか」と目配せする年上の部下に、星舟は首を振った。「お前は二〇〇率いて麓につけ。野戦砲も持ってって良い」 熟練の射手はそれだけで、自らに課せられた役目を察した。 二方の陸路と海から、続々敵が来着する。 彼らは白兵戦を挑むことはしない。 ただ、次第に中央へと東方領軍を追いやりながら、的確に射撃し数を減らしていく。敏捷に動ける獣竜も鳥竜も、そも素早く動けるだけの場所の余地がなければ、恰好の的と化す。人と等しく撃ち抜かれていく。 艦砲が火を吹いた。本来の射程よりかはやや遠いようだが、狙いを正確に定める必要はない。一箇所にまとめられ味方の兵が、その砲火に呑まれた。そして岸に近づくたび、その狙いはより巧妙に、より狡猾に、執拗に、残虐になっていく。 窮地を脱した港の兵が討って出た。 今まで追い詰められていた彼らは今までの千載一遇の機を得て雄飛する。 決死の脱出軍は、抜刀と同時に突っ込み、竜陣営にさらなる恐慌をもたらした。「……援護はしなくても良いのか?」 間道に拠ったままに動かない星舟に、リィミィは一応念を押す形で問うた。「あの有様に六〇〇投じたところでどうにかなるかよ」 星舟はそう吐き捨てた。 部下たちからはさすがに真意を問うかのごとき目を向けられていたが、彼は自分たちの保身のために何もそこに陣替えしたわけではなかった。そうであったなら物資も投げ捨てとうに本隊と合流している。 その大規模な攻勢の裏、敵陣の一部が後方から土煙を吹き上げ、大きく迂回してきた。 規則正しい人以外の足音が近づいてくる。シェントゥの報告を信じていなかったわけではないが、やはり騎馬だ。 自身の予測が当たったとき、星舟は奇妙な安堵を覚えた。「な、なぜ近づいて来る!?」「我らの位置を知っていたとでも!?」 戦場を占める大音量に対し、自然陣内の声も大きくなる。星舟もまた、声を大にして答えた。「知ってたんじゃねぇ。この場所が狙いなんだ。だからオレらはここに来たんだ」 馬蹄が黒煙を巻き上げる。 即席の塁壁は寸前に仕上げたが、果たしてどこまで通用するか。 敵の顔の輪郭が、おぼろげに見えた。不遜に笑う、異国の巨人。鉞の類を掲げて突っ込んでくるのを睨み返し、隻眼の男は無理矢理に口端を吊り上げた。「奴ら、袋の口を閉じる気だ」