振り返りざま、トゥーチ家令嬢に頬を刺されたという自覚をした瞬間から、痒みとも痛みともつかない感覚が静かに寄せる。 呆れたように遠のく経堂たちをよそに、しばらく両者は固まったままその間に微妙な空気を流していた。「……あの、そろそろ離してほしいんですけど」 そう懇願する星舟を、シャロンはつんと鼻を逸らして無視した。あからさまにふてくされた、小娘のそれだ。本当に、長じてもそのあどけなさばかりはどうしようもならなかった。 仕方なしにやや強引に腕を取り除き、正しい位置に戻そうとする。 こんなところをシオグゥになど見られたら、それこそ進路を冥府の底へと切り替えられてしまう。「お見送りはありがたいのですが、このようなところを誰ぞに見られたら」「今日はお忍びでーす。というか、もうトゥーチ家とは関係ない人だから別に良いんです」 唇を尖らせながらの論調は、正直に言えば支離滅裂だ。 すでに無関係の者がこれからのトゥーチ家を支えて立つ者に触れているなど、なおさらに誰ぞ……というかかの侍女長殿に粛清の格好の口実を与えることになるではないか。「シャロン様」と呼ぶ声は、我ながらにどこか情けない。 その言外の訴えを無視して、シャロンはみずからくるりと背を翻してみせた。「いやになっちゃった? トゥーチ家と、私たちと一緒にいることが」 いかにもシャロンらしい、率直な問いかけとそれに追従するかのごとき、寂しげな声調だ。「兄上だって、態度には見せないけど、きっと悲しんでる」 ――ねーよ。 そこにはすかさず否定を入れる星舟だった。結局この認識の誤りは、最後まで訂正する機会がなかったが、兄と星舟とが実のところ犬猿の仲だと知らずに済んだのは、彼女にとって幸福であったのかもしれない。「それについては先に説明したとおりり南部自体の強化ならびに東部との連携は不可欠であり、そのために微力なりとも協力できればと考えた次第で」 星舟の口に、胃液のごとき苦酸が混じる。 そう、先にサガラに説明したのとまったく同じ言いぐさではないか。 この世でもっとも嫌いな男と、この世でもっとも尊き娘とに、何故通り一遍の言い繕いをしなければならないのか。『だったらその薄気味悪くて白々しい敬語はやめろって。お前はトゥーチ家とは関係のない人間になるんだからな』 その際に言われた一言一句、星舟の耳に今もまとわりついている。 顔を伏せる星舟に、さらなる問いが覆いかぶさる。「それは、ここじゃできないことなの?」 星舟は言葉もなく首肯した。他は曖昧でも、たとえシャロンたちと袂を別つことになったとしても、今のトゥーチ家では自分の道は辿れない。たちの悪いことにそれだけは判然としている。 そう、と乾いた笑いと声が、胸を苛んでくる。「じゃあ、仕方ないね」 と、むしろシャロンの方が申し訳なさそうに眉根を下げる。「私が何か言うまでもなく、いっぱい悩んだよね。よく分からないことに、苦しんで決めたんだよね……ごめんね、何もしてあげられなくて」 という詫びの言葉を耳にした瞬間、奥底に秘めた火が彼の内で爆ぜた。 衝き動かされて、本能のままにその手を掴む。「違い……違う、それは」 本当は抱きしめたかった。もっと早くにそうすべきだった。言葉にして伝えるべきだったと思う。 しかしままならぬ。ままならぬものをすべて受け入れて、進み続ける。「きっと名前のなかった時のオレのままでいたら、他者からただ物足りないと求め続け、奪い続けるだけだったと思う。あるいは何もできずに死んでいたと思う」「セイちゃん……?」「君が、教えてくれたんだ。誰かに生きる力を、名を、血を、命を……与えることの意味を。伸ばされたその手を掴み返すことの意義を! だから、今度はオレが誰かに与えるんだ!」 一度とて吐くことはあるまいと思っていた、青臭い少年じみた科白。 これが今生の別れか。風前の灯火にも似た自身の人生にも夢にも見切りをつけた。それゆえの、この大胆さか。 その自問に否を叩きつけるがごとく、星舟はさらに強く掴み、右眼を輝かせて咽頭を震わせる。「だから君にも、いつか与える。オレがもらったものも、これから手にするものも、あげられるだけの力を手に入れて必ず戻って来る。だから、それまで待っていてほしい」 あるいはそれは、分不相応な願いなのかもしれない。漠然に過ぎる不安に、今でさえ押しつぶされそうになる。 それでも星舟は表情を強く保ったままに、シャロンに誓った。 一度は敬語をかなぐり捨てて感情を吐露した星舟に、驚きによって、シャロンはその宝珠の瞳を瞬かせた。 時と共にそれは柔らかいものへと変じていく。「しょうがないなぁ」 と唇が綻ぶ。「それじゃあ、待っていてあげる。君が追い求めるその答えの先で」 手の内の細腕が、そろりと滑る。それだけで強烈な印象を星舟の触感に焼きつけつつも、指を絡ませ、その胸板に頬を寄せる。早鐘ながらも確かに動く、彼の鼓動を聞く、浅く息を吸う。「だからちゃんと、辿りついてきてよね……星舟」「あぁ、絶対に」 それ以上の言葉も、接触も要らない。 守るべき居場所へ。進むべき道へ。 それぞれに託されたもののために。 彼と彼女は歩み始める。 ――生きよう。 星舟は足を速めながら、強く心に誓う。 竜は人が手を下すまでもなく滅ぶかもしれない。あるいは自分の方が先に命運に追いつかれるのかもしれない。 だがそれがなんだというのだ。この野望の道へ足を踏み入れた時から、すでに決めていた。竜と、シャロンたちと心中する覚悟を。彼女らが滅ぶ時は自分もまた滅ぶ時だと。 もう迷わない。闇の中だろうとおそらくその道は一筋に絞られた。 そしてその道を、きっと彼女が照らしてくれる。先に答えとともに待っていてくれる。 あの星の宵のように、手を差し伸ばして。 だから自分も一生懸命に進み続ける。身も心も朽ち果てようと、彼女の手に届くその刻まで。 夏山星舟と名付けられたかつての少年は、蒼穹へと手を伸ばす。 太陽に透かされた掌。そこに交ざって流れる竜の血を見つめ。やや苦みばしった微笑を浮かべて。 広げた五指が、虚空をつかむ。 彼らの影を乗り越え、彼らの放っていた栄光の輝きを辿り、ただ一筋に目指す。 むろん、それを視るべくもない。烈しく燃える陽光の前にかすみ、分厚い雲に覆われてどこまでも遠い。 ――それでも、きっと。 その星は必ず、伸ばしたこの手の先にある。 竜星の宰相……第一季;完