そして、星舟の出立の刻が来た。 その日の中天に陽光が持ち上がった時にはすでに、引き継ぎそれ自体は他愛もなく終わっていた。 紋付の陣羽織をはじめ、トゥーチ家ゆかりの物品はすべて返還し、残ったのは外洋式の行李に収まる程度の私物とライデン一頭。 そのあまりの少なさと、さしたる手続きも必要としなかったことが、夏山星舟がこの家でしたことの乏しさ、その半生の薄っぺらさを物語っているかのようでもあった。 だがそれでも、確かに残したものはある。 碧納の館を出た星舟。その敷地の先に、見慣れた面々が立っている。 すでに指揮権は返上したが、第二連隊の部下たちと、そしてグエンギィである。「よう、見送りか? それともついて来てくれるのか? あるいはついてきてくれるのか?」 特定の誰かに向けた問いではなかったが、代表的に答えたのは、ルル姉弟であった。「いや、冷やかしです」「貴方に惜しむような信望や器量があるわけないですよ」「……鬼か、お前ら」「鳥竜です、ルル家の」 ――自分が何者か迷いなく答えられる奴らは良いよな。 皮肉な呟きを胸中に落とした星舟だったがしかし、リィミィにはあえてそのことを尋ねなかった。 聞くまでもなかった。繰り上げ的に彼女が後釜となり、星舟去りし後の連隊を指揮することになる。戦局的にも政治的にも苦しい立場になるであろう部下たちの面倒や夏山の家のことを一切引き受けてくれるという。 そして責任があるのは、憎まれ口を叩いた姉弟を始め多くの者とて同じだ。「というか、行こうにも行けませんて。三流一家と言っても、ララ家の家名は東方領あってのものでしょうよ」 とのクララボンの言のとおり、いかに外れ者の集団とは言っても守るべき家がある、血統がある、肉親がいる。財産がある。 今の自分のごとく、身軽になれる者など居はしないのだ。 そしてこの場に、シェントゥはいない。あの私室での暴露以降、サガラの間諜は姿を見せなくなった。 そのことを不思議がっている元部下たちに、星舟は彼女が内通者であったことも、そして役目を果たして去ったことも告げてはいなかった。当然、ここに戻って来る道理はない。「お前の腹心の面倒は私がしっかり見てやるよヌヘヘヘ」「……せめてお前がいなくなってから感傷的になるべきだったよ、第一連隊長」 とは言え、このグエンギィの第一連隊とは一蓮托生となった。梯子を外され、星舟の協力者と見做されサガラにそっぽをむかれている以上、今後も何かとその肩を持ってくれるだろう。 そもそも、今こうして見送りに出ていること自体が、変わってゆくであろうトゥーチ家に対する反逆行為ではないか。あえてそれをしたということは、その覚悟と友好を彼女なりに表したことに他ならない。 とは言え今のサガラは中央に意識が向いている。自分から歯牙にもかけぬ相手、という態度を取った星舟の、そのまた残滓のごとき一集団に嫌がらせをすることもないとは思うが。「……じゃあ、世話になったし、面倒もかけたな」 やり残したことはあるような気もするがが、それでも彼らのためにしてやれることは、もはやない。 星舟はきびすを返し、彼らに背を向けた。 二人分の足音が、その星舟の背に追従した。 しっかりと地を踏みしめた、いずれもそれなりの身の丈と重みを有する男のもの。星舟は見切りをつけて進みだしたばかりの足を止めて、ため息をついた。「ついて来ないんじゃなかったのか?」「訊く相手が悪いでしょう」「そうそう、我ら両名、郷里を捨て妻子さえ持たぬ持たぬ天下の漂泊者。一度貴方に賭けた以上は、その七転八倒ぶりを特等席にて見物させてくださいな」 ――八面六臂と言え。 得意げにうそぶく恒常子雲と、その彼の『妻子』なる単語に反応して暗い音調で舌を打つ経堂。 確かに彼らの言う通りなのだが、その力量は竜に退けをとるものではない。ないがゆえに自分と共に竜と功を競っていた。その抜けた穴は大きかろう。 星舟は一語も発さず、リィミィを見た。「連れていけ」 次期連隊長は間を置かず星舟の意を汲んで答えた。「金にうるさい陰気者に、面従腹背の卑劣漢なんて、どうせ私の手には余る。あんたにしか扱えない」「……すまん」「良いさ。私が言ったことさえ、脳の一片にでも焼き付けていてくれたらな」 そう言って、任官中にはついぞ見せなかった、やわらかな苦笑を浮かべている。 それ以上の言葉は、この男女の間には発生しなかった。 両者の間に醸される微妙な空気感に、若者たちは顔を見合わせるばかり、生の経験の豊富な者は何事かを察して、肩をすくめた。 ~~~ というわけでちゃっかり旅支度を整えていた二人の年長者を馬丁として、館を出た。 昼下がりの街道筋は、むろん人どおりが少ないわけではなく、傍目には区別がつかないが獣竜も鳥竜も、そしてそれに従属しつつも本心では見切りをつけて逃散の算段でもしているであろう人間も、用向きに合わせて各々の旅装をしつらえて慌ただしく往来している。病という堰によって留められていた流通という波が、一気にあふれ出したかのように。 ただそれでも、先までの喧しさには勝るものではない。「思えば、あいつらとの馬鹿騒ぎも、あれで終いなんだなぁ」 星舟が独りごちた。だが、反応はと言えば ――何を今になって。 だとか、 ――そんな生娘めいた感想を。 だとかそう言いたげな男どもの視線である。「まぁ」 頭の上にあった雲が後ろへ流れていく頃合いに、経堂が言った。「今から行く南方領もあったかくて酒肴も旨い、良い場所だって聞きます。住民もおおらかで豪放……ってありがちな感じらしいですから、寂しい思いなんざ忘れるでしょう」「それに、病気から快復したナテオ様が、先の手柄と引き換えにラグナグムス家への帰参を許されたとの由。いやぁ、知己もちゃんといらっしゃるじゃありませんか」「知らん、二度と会いたくもねぇ」 星舟、己が何者か分からなくなれども、ナテオ・ツキシナルレへの辛辣さは不変のものであった。「あ」 ふいに行き先に目を向けた子雲が、声をあげた。 それに釣られて見れば、その地点に覚えのある小柄な影があった。 星舟にはそれが誰だか分かったが、経堂も子雲も、一瞬それが誰か分からなかったようだ。 無理もない。彼女の立ち振る舞いも腰回りも、それが分かる上下一対の服も、もはや女性のそれであった。見せかけの男装をしていた頃とは、がらりと雰囲気が一変している。「よう」 その少女……のごときシェントゥ……と名乗っていた女に、星舟はぶっきらぼうに声をかけて下馬した。「髪、伸びたな」 手綱を経堂に握らせつつ零した星舟に、「えぇ」と彼女は耳元をかき分ける仕草を見せる。「で、サガラに言われて最後の経過観察ってところか?」「そんなわけがないでしょう。貴方はもはやトゥーチ家にとってもサガラにとっても用済み。見届ける価値などない」 そのあまりに『シェントゥ』らしからぬ剣呑な返しに、男二人も何事かを察したようだった。彼女から間合いをとり、それとなく遠回りに背後に出んとする。 だがその女は、見れば自分たちと同じく旅荷を提げている。 経堂らの動きをけん制していた女狐の眼は、ふと自嘲めいた感じに歪められる。「そしてわたしもそれは同じ。暇を出されました。まるで貴方という毒に汚染された部分を切り捨てるように、ね。でもいいんです。そういう竜だって、よく分かってますから」「家族はどうするんだ?」「意地の悪い質問をするんですね。すでにそこまで調べはついてるでしょう? 兄は対尾以降の戦いで討たれました。今は独り身です」 それは過大評価というものだ。兄がいたことまでは追跡できたが、それが死んだことまでは、その直後のごたつきで踏み込めてはいなかった。「悪かったよ、その詫びと言っちゃなんだが」 と、星舟は通り過ぎようとする女に向けて言った。「もし行く宛もないなら、オレらと来るか?」 ……当然というか、返事はなかった。 まぁ即答などは難しかろうと、星舟自身も軽い気持ちで誘ってからあらためて思った。 何しろ自分を少年とも年下とも信じてまんまと騙されているような、内心では無能者と嘲笑っていたような男がなお懲りずにその相手を引き込もうとしているのだから、間抜け以外の何者でもなかろう。 刹那で断らないあたり、まだ温情というものだ。「許すというのですか? わたしを」 笑いもせず、女は言った。 笑いもせず、男は持ち上げた。「許すもなにもねーだろ。お前は仕事をしてただけだ。そしてその時の腕を、今度はオレが買い直す。何か問題があるか」「貴方に、今更就くような利得があるとでも?」「ないな。微塵もない」 背中合わせに問答の末、「でも」 と星舟は逆に問い返した。「楽しかったろ。一緒にいて」 少なくとも、自分はそうだったと、別れた今となっては思う。 寄せ集めたる第二連隊たちにもし、他の連隊や、あるいはサガラの近衛トルバ隊に勝るものがあるとすれば、隊長相手にも忌憚なく文句を言い合ったり下手すれば組み合って罵り合ったりできる、その空気の軽さ、居心地の良さだったろう。 加わってくれるかどうか、彼女にとって……シェントゥにとってその偽りの日々は充足したものであったのか。その答えをもらえないまま、「本当に、どこまでも……」 わずかに息を呑む音ともに、彼女は呟いて、そして声音を変えて続けた。「まぁ、気が向いたら行きますよ。……その賑やかさに当てられて、今は一人旅を楽しみたい気分なので」「それで構わん」 星舟としても強いては求めない。何しろ先が読めないのは星舟も同じだ。 刹那的に生きてるような男衆はともかく、本来関わりのないシェントゥまで、無理にこの暗夜行路に同行はさせられなかった。「では、用事も済みましたのでこれで」「ん? お前オレに用だったのか?」「用がなければわざわざこんなところで待ち受けていませんよ」「見送りにでも来たのか?」「そんなわけないでしょう。出立する直前に捕まって、引き合わせてくれと頼まれたんですよ」 いまいち要領を得ないやりとりに星舟が苦心するなか、従者たちは彼よりも先に察知したことがあるらしい。 まず経堂がその目付きの良さでもって何かを見出し、そして子雲に耳打ちして肩を押して距離を置こうとする。 そんな彼らの様子に訝っているうちに、まともな別辞もなくシェントゥが去っていき、取り残されたのは星舟のみである。 ……否、誰かが背に気配を忍ばせている。 その気配がふいに浮き上がって、すぐ間近にまで身を寄せている。 近頃鋭敏になっている星舟がここまで接近を許すとは、只者ではない。 やはり明確に害になる自分という禍根を絶つべく、サガラが刺客なりとも遣わしたとでも言うのか。 もはやここに来たら、逃避は能うまい。顧みてその正体を暴く以外の手はあるまい。 意を決し、思い切って首を後ろへと捻ると、「やっと見てくれた」 シャロン・トゥーチの突き出した指が、星舟の頬へとめり込んだ。