涼を得るための噴水が配置された王宮の中庭に、大将軍ヴァフリーズとふたりの女官をお供に歩く少年がいる。
パルス広しと言えども、このようなことができるのは、王を除けば王太子アルスラーンただ一人である。
王族の前をさえぎったり、許しもなく見下ろすような者があれば、罪に問われることであろう。
ただし、それは人の世においてのみ成立する約束事で、人ならぬ、翼のある友人を持つアルスラーンは、空から見下ろす鷹の前に、足を止めることとなった。
羽音に気づいたアルスラーンは目を輝かせ、右腕に手甲代わりの布を巻くと、空を飛ぶ二羽の鷹に声をかけた。
「告死天使、告命天使、元気だったかい、ここにおいで」
「ほう、こやつらがいるということは、万騎長キシュワードが近くに来ておりますな」
一羽はアルスラーンの腕に降りて、その体重と勢いで少年を転ばせることに成功し、先を越されたもう一羽は、噴水のふちに降り立った。
「おかえり、告死天使!大きくなったなあ」
アルスラーンはこの二羽とひな鳥のころからつきあいがあった。その飼い主とも、個人的な交流を持っていたのである。
腕に止まった鷹をねぎらうアルスラーンに声をかける者があり、アルスラーンは思わず彼の名を呼んだ。
「殿下!、ヴァフリーズ殿もお変わりありませんか!」
「キシュワード!」
甲冑を身につけた黒い美髯の男が中庭に入って来るところであった。
二十六歳にして万騎長に叙任されている、二刀を使いこなす変幻の剣技と用兵と優れ、西方国境の守りについていた軍人である。
大将軍や王太子の前でもかしこまることなく、気さくな態度で相対している。
「スルーシ、アズライール、飼い主より先に殿下に帰還のあいさつとは、生意気な奴らめ」
「ははは、なめられておるようじゃな、キシュワード」
「なめられているのではござりませぬ、こやつらが心底殿下を慕っておるのです。鳥や獣は地位や財産にはなびきませぬ。殿下の心の健やかさを映しておるのです」
「ご苦労であった。遠征はどうであった?」
ヴァフリーズの質問に対し、キシュワードはアルスラーンの前で臣下の礼をとり、ひざまずいて答えた。
「はい、当方の損害は軽微。パルス、マルヤム連合軍の総指揮をアンドラゴラス陛下が執り、ルシタニア軍を撃退いたしました。陛下のご帰還の先触れとして、ただいま戻りましてございます」
アンドラゴラス王の凱旋を迎えるため、エクバターナの市民たちが、城門から王宮までの街路に動員された。
アンドラゴラス王は四十一歳、即位以来十三年にわたって不敗をほこる武人でもあり、立派な体格にみごとな黒いひげをはやし、鋭い眼光は王者の風格にあふれている。
慎重で堅実なカーラーン、片目で酒飲みのクバードといった万騎長も王に続いて行進の中にいる。
市民たちはアンドラゴラス王や万騎長たちについて噂話に花を咲かせ、少年たちは勇壮な軍隊への憧憬から、将来は騎士になるんだと語り合った。
また、戦利品として連行されてきた、少年兵を含むルシタニア人捕虜の姿に、彼らの「異教徒」に対する所業や宗教について言葉を交わしあい、眉をひそめあったのである。
城門からそれほど進まない場所にて、アルスラーンとヴァフリーズは馬上でアンドラゴラス王を出迎えた。
「父上、ご無事で何よりです。遠い地での戦で心配しておりました」
「おぬし程度に心配されるまでもない。ヴァフリーズ、留守の間の報告をせよ」
アルスラーンの出迎えの言葉を全部聞くまえに、アンドラゴラス王は大将軍ヴァフリーズに報告を求めた。
ひとりおいて行かれたアルスラーンは市民たちの目からも頼りなく見え、年の近い子供たちからは「俺たちが軍に入って守らなくては」と思われるほどであった。
決して嫌われているわけではないのだが、いまいち頼りないというのが、エクバターナ市民からのアルスラーンの評価であった。
王の凱旋により宮中の大人たちはにわかに忙しくなり、それほど公務に関わっていないアルスラーンにはぽっかりと暇な時間ができた。
アルスラーンはお忍びで王都を出歩くことが好きなのだが、まれに、王宮の大人たちが仕事にかかりきりになって、アルスラーンを気に掛ける暇がないときなど、女装して出かけることがあるのだ。
女装しているときのアルスラーンは、タハミーネ王妃が娘に与えたかった名前「エレナヴァーク」を名乗るようにしている。
性別の秘密を知る女官をひとり従えて、「エレナヴァーク」は王の凱旋のにぎやかさが残るエクバターナにささやかな冒険に出かけた。