怒られることは怖いことだ。 怒られることは痛いことだ。 痛いと思うと涙が出る。 涙が出ると、さらに叩かれる。 苦しくなっていく。 何度も何度も繰り返されて、何度も何度も同じことになる。 だけど、それは嫌だから。 痛いことはもう、嫌だったから。 何かを感じる、ということをやめた。 心を止めて、止めて、止めて。 凍らせて、凍らせて、凍らせて。 何も感じなければいい。 そうすれば、心に届く前に全てが終わる。 叩かれた、殴られた、怒鳴られたとしても。 それはただ単純に“そういった事実”があるだけで、それで終わり。 痛みを痛みと思わなければ涙は出ない。 それが幼い愛奈にできる、たった一つの対処法だった。 誰であろうと、どこにいようと、どの世界だろうと愛奈にとっては全てが関係なかった。 小さな部屋の隅であろうと、格子にに囲まれた場所であろうと、ジャルの隣であろうと。 淡い期待は一瞬にして瓦解して、全てが無意味になってしまう。 だから何も感じなければいい。 そうやって我慢すればいい。 そうすれば全てがどうでもよくなった。 けれど、ある時だ。 「僕達の他にも誰かが『助けたい』って言ってくれて、その時に助けてほしいって思ったら……その時は勇気を出して『助けて』って言ってほしい」 止めていた心に、響く声があった。 凍らせていた心に、伝わる手の温かさがあった。 他の誰かでは無理で、その人にしか持ってない響きと温かさ。 「一緒にいる人が怖いかもしれないけど、それでも立ち向かって『嫌だ』って言えるくらいに『頑張る』って約束してほしい」 どうしてだろう、と思った。 それは再び痛いことを感じてしまうのに。 怖い、ということを感じてしまうなのに。 止めていたものが、凍らせていたものが、僅かでも溶けていく。 けれど、どうしてそうしたのかは心が分からなくても“何か”が識っていたこと。『おにーちゃん』 歳上の人達などたくさんいる中で、優斗だけに使った呼び方。 何一つ飾りがない、単純明快で唯一の呼び名。 愛奈にとって、無意識のうちに存在した特別。 その日から全てが変わった。 触れ合いがなかったからこそ、たくさんの温もりを与えてくれる母。 たくさんの包み込むような愛情を与えてくれる父。 自分という妹ができたことを誰よりも喜んでくれた姉。 他にもたくさんの兄と呼べる人が、姉と呼べる人ができた。 初めて『幸せ』を知った。 初めての家族に心が止まることはなくなった。 心を凍らせることもなくなった。 だから。 だからこそ――正の感情を知ったからこそ、余計に負の感情の怖さを実感する。 より大きく、より深く、より強く。 幸せを得た幼い少女が、本当の意味での恐怖を知ることになる。 ◇ ◇ フィオナが愛奈の異常に気付いて抱きしめると同時、二人の近衛騎士も愛奈の下へと飛び出てきた。 そして前後を守るように立って何が起こったのかを訊く。「フィオナ様! アイナ様はどうされたのですか!?」「分かりません! だけどあーちゃんが気付いてしまった“何か”があるはずなんです!」 三人は注意深く周囲を見回す。 騒ぎがあるわけではない。 異変が聞こえるわけでもない。 ただ当たり前のように日常の風景の中に、「……? 他国の……騎士?」 護衛の女性騎士の目に、ふと付いた者達がいた。 ただただ、自然に踵を返して後方に存在する馬車へと歩いていく他国の騎士。 それは別におかしな光景ではない。 騎士が危険を察知するため先行し歩くことはよくあることで、馬車の中にいるのが位の高い貴族であれば尚更だ。 だが、「戻ったあと、散開した?」 しかも数名の騎士が馬車から出てきたと思ったら、路地の方へとバラバラに歩みを進めた。 中にある人物から、指示があって買い物に出た可能性もある。 けれど現状、愛奈の様子から甘い考えでいるのは厳禁だ。 たまたまであれば問題ないし、気にすることではない。 とはいえ引っ掛かったのであれば、確認する必要がある。「フィオナ様。念のため、私が彼らの動向を探ってきま――」「――風の精霊。私の指定する騎士達がどのように移動しているか、教えてもらえますか?」 しかしフィオナの判断は早かった。 女性騎士が気に掛けると、すぐに精霊の使役を始める。「移動速度は……早足ですね。立ち止まることもしていないことから、どうやら買い物をするつもりではないようです」 しかも自分達の進行方向を塞ぎにいくかのように、両サイドの路地から追い抜こうとしている。「皆さん。取り囲むつもりだと断定して、我々も動きましょう」 フィオナは妹を抱き上げて歩き出す。 他の出来事で愛奈が震えている可能性もあるが、まず最初に目に付いた可能性を潰す。 違ったとしても構わないし、警戒を怠るつもりもない。 「もし襲われた場合、打倒し逃げることは可能ですか?」「可能かもしれませんが、この場で戦闘となれば民への危険が及びます」 フィオナの問い掛けに男性騎士は周囲を見回す。 ここは普通の大通りで、そこらかしこに人がいる。「ですがこのような場所で戦闘を始めるような、あまりに馬鹿な考えを持つ者は相手にもいないと思われますが……」 例え誰であれ、暴れるようなバカはいないだろう。 他国であれば尚更だ。 けれど絶対にないと言い切れないのであれば、「フィオナ様。近くに騎士の派出所がありますから、そこへ向かいましょう」「分かりました」 頷き、三人は早足で派出所を目指す。 女性騎士は先ほどの連中がどのように出てくるかを注意し、男性騎士はそれ以外の可能性を探し始める。 フィオナも異変があれば知らせてくれるよう精霊にお願いしているが、三人とも一番気に掛けているのはやはり愛奈のこと。 未だ身体は震え、視線が定まっていない。 抱き上げているフィオナは、妹の身体が強張っていることも感じ取っていた。 だから温かい声音で、優しい響きをもって妹に声を掛ける。「あーちゃん。今、貴女の前にいるのは誰ですか?」 頭を撫で頬を寄せ、温もりが伝わるように願いながら、「もう一度、訊きますよ。あーちゃん、貴女を抱っこしてるのは誰ですか?」 再び話し掛ける。 すると震えながらも、愛奈は僅かな反応を示した。「……おねー……ちゃん」 視点はまだ定まっていないようだが、それでも愛奈は言葉を返した。 フィオナは満面の笑みを浮かべ、「はい、あーちゃんのお姉ちゃんです。そしてあーちゃんは私の妹です」 一人っ子だった自分に出来た愛すべき妹。 心から大切だと断言できる愛しい妹。「お姉ちゃんは今、あーちゃんが何に怖がっているのかを知りません。けれど怖いなら一人で耐える必要はありません。少しでも安心できるように、お姉ちゃんに抱きついていいんです」 何のために自分が先に産まれたのか。 どうして自分が愛奈の姉なのか。 答えなど、問われずとも分かっている。「お姉ちゃんが絶対に守りますから」 愛奈を守る。 天才だからといって関係ない。 いずれ自分を越える才能を持っているとしても、どうでもいい。 愛すべき妹を守らずして、姉だと名乗る気は毛頭ない。「だからあーちゃん。ぎゅっと抱きついてください」 フィオナは愛奈の腕を自分の肩に掛ける。「あーちゃんのことが大好きなお姉ちゃんに守らせてください」 抱き上げているから、どのような表情をしたところで愛奈は分からない。 けれど慈しみ、誓いを立てた言葉と想いは届くとフィオナは信じている。 だから震える手が首の後ろに回された時、再び笑みを零して妹の頭を撫でた。 その姿に男性騎士が周囲を警戒しながらも驚嘆の意を示す。「ずいぶんと落ち着いていらっしゃいますね」 トラスティ公爵家の長女、フィオナ=アイン=トラスティ。 貴族でありながらリライト王国最強の精霊術士と呼ばれているのは男性騎士とて知っている。 むしろ愛奈の護衛をすることもあり、周囲の状況がどうなっているのかも知らされているが……この冷静さは驚嘆の一言だ。 フィオナも自分の態度と動き方を鑑みれば、普通の貴族令嬢とは違うと理解している。「これでも大変なことが多かったですから」 仲間が無駄にアクティブなので魔物退治は平然とするし、娘は龍神なので誘拐されかけたりする。 挙げ句、旦那は蘇った伝説と呼ばれる大魔法士。 さすがにフィオナだっていつまでも慌てるだけではいられない。「それに私がいて、貴方達がいて、この国にいる。だから大丈夫だと信じているんです」 他国ならいざ知らず、ここはリライト。 不安などいらない。 そして話している間に四人は騎士の派出所まで辿り着く。 「フィオナ様、どうぞこちらへ」 扉を開けて二人を中へ促す女性騎士。 派出所内にいた幾人かの騎士達がフィオナの登場に驚きを示すが、男性騎士はすぐに声を発する。「非常事態だ! 手の空いている者はアイナ様とフィオナ様の護衛に回ってくれ!」 すると他の騎士達の行動は早かった。 すぐさまフィオナ達のところへと向かい、二人を室内の奥へと迎える。 次いで椅子に座ってもらったところで、ようやく状況の確認を始めた。「何が起こっているのですか?」「私達も正確なところは分かっていません。ですが――」 首に回っている愛奈の震えが増して、さらに強く抱きついてくる。 フィオナも風の精霊からの情報で緊張感を増した。「――私の妹が恐怖している理由が、ここに来ます」 他国の騎士に誘われ、扉の前に止まる馬車。 中からは煌びやかな服装をした壮年の男性と若い女性が現れる。 愛奈の護衛をしている近衛騎士達は扉の前に立ち、剣の柄に手を掛けた。 しかし壮年の男性は二人の騎士の行動にやれやれとばかりに首を振る。「いやいや、我々は戦闘という野蛮な行為をするつもりでは来ていません」 全く分かっていない。 そう言っているかのように嫌な笑みを浮かべる。「ただただ、話し合いをしようと思っているのですよ」「……何のために? 理由がなければ我々は応対する理由がありません。どうぞお帰りを」 取り付く島もなく、男性騎士は現れた他国の貴族を追い返そうとする。 だが壮年の男性は笑みを崩すこともなく、「ではでは、これを聞いても無視することが出来るでしょうか」 まるで演説するかのように声を発する。 だが視線は目の前に立ちはだかる騎士ではなく、派出所の中に向けられていた。「そうですよね?」 つまり壮年の男性が語りかけているのは扉で閉ざされた先にいる一人の少女。 恐怖で震えている幼い子に向かって、「我がゲイル王国の異世界人である――アイナ様」 男性は一つの言葉を伝えた。