フィオナはゆっくりとドアを閉めて、優斗に近付く。 「…………」 やはり疲れているのだろう。 眠ったまま、彼は微動だにしない。 ソファーの前でしゃがみ、目を瞑っている優斗の頬を摩る。 「私は貴方が傷つく方が辛いんです」 そして気持ちを吐露する。 「どっちかを選べと言われたら、私は間違いなく優斗さんが傷つかない方を選びます」 ウィルが死ぬのは悲しい。 でも優斗と比べられない。 「……もっと自分を大事にして下さいよ」 優斗はフィオナを悲しませないために馬鹿なことをした。 無駄に動き、無駄に傷つき、無駄に後悔した。 それが、本当に悔しい。 “宮川優斗の歪み”が未だ直っていないことを思い知らされる。 『優斗は自分の感情を殺してフィオナのために動く』 3ヶ月前、母に突きつけられた事実が胸の内に燻る。 だから優斗は自身を傷つけたところで分からない。 あまりにも自己放棄しているから。 「……っ!」 だからこそフィオナは悔しい。 このような場面では必ず、フィオナが辛く悲しむことに『優斗自身を入れていない』。 「どうして自身を度外視するんですか」 辛いのなら、しなくてもよかった。 「どうして自身を投げ出すんですか」 後悔するのなら、やらなくてもよかった。 「どうして自身が傷ついたのに、そのせいで『私が辛くならない』と思ったんですか」 その勘違いこそが最大の間違えだと、どうして気付いてくれない。 「私の“最愛”だと言っているじゃないですか」 世界で一番、愛している男性。 「私の“唯一”だと知っているじゃないですか」 世界で唯一、愛している男性。 「何度も何度も『愛している』と伝えているじゃないですか」 言葉にして。 行動にして。 「私を悲しませたくないと思っているのなら」 本当に。 「それぐらい……」 宮川優斗の心が傷つくことこそ、フィオナ=アイン=トラスティが本当に恐れていることを。 「……そろそろ、分かって下さいよ」 彼の胸に縋りながら紡がれる、フィオナの独白。 眠っている彼にはまだ、届かない。 だから起きた時に……今の言葉を伝えよう。 そう、思っていた時だった。 「……ごめん」 呟きと共に、彼女の髪を触れる手があった。 「優斗……さん?」 フィオナは顔をあげる。 彼の顔を見てみれば、申し訳なさそうな表情をさせていた。 「聞いていた……のですか?」 「……うん」 優斗は頷き、さらに申し訳なさそうにする。 「……分かってはいるつもりだけど、でも……」 口を噤む。 どうせまた、同じことをする。 同じ状況になれば、フィオナを悲しませない為に。 自分を度外視してしまう。 だから何も言えない。 それが“宮川優斗”だということを、自分が一番理解しているから。 「…………なにが……」 けれど、だからこそ、 「……なにが分かっているつもりなんですか……?」 彼の言葉は、初めてフィオナの琴線に触れた。 だとしたら、この人は本当に“分かっているつもり”なだけだ。 分かる気はなく、理解することもない。 「……ふざけないでくださいよ」 頭が真っ白になった。 彼が『歪んでいる』のは当の昔に分かっている。 分かりきっているぐらいに、分かっている。 何度も目の当たりにし、その度に伝えてきた。 私を手放すな、と。 フィオナの幸いは優斗と共に在るのだから。 「……なら、どうして自身を傷つけるんですか」 彼は自分の最愛を傷つける。 フィオナの為に、宮川優斗を傷つけることを躊躇しない。 独白を聞いて尚、変われないと言った。 身体が震える。 怒りと、辛さと、悔しさと。 全てがない交ぜになる。 「何も分かってないじゃないですか!!」 「――っ!」 思わず、大声が出た。 優斗が驚いているが、そんなものはどうでもいい。 「私を悲しませたくない!? そんなもの、私だって同じです! 優斗さんが傷ついて、私が傷つかないとでも思いますか!? 身体のことだけを言っているわけではありません! 貴方の心のことだって言ってます!」 傷ついて欲しくない。 身体だって、心だって。 「貴方が私を大切にしてくれるのは分かります。でも――っ!」 もう……やめてほしい。 「私だって貴方が心から大切だってことぐらい、そろそろ分かって下さい!!」 分かっているつもり、じゃない。 分かってほしい。 「私の為に、と傷つく貴方を見ているのが辛いんです……。嫌なんです」 苦しさしかない。 「だって、そうじゃないですか」 フィオナの為に、という想いは要するに、 「私がいるから優斗さんが傷ついているんですよ」 「――っ! ち、ちが――」 「違わないです。優斗さんは私のせいで傷つかなくていいことだって、傷つくんです」 否定などさせない。 事実を事実のまま、突きつける。 フィオナの為に優斗は傷つく。 言い換えれば、フィオナのせいで優斗は傷つく。 「……貴方は…………どうしてそこまで自分を考えないのですか」 自分がフィオナを傷つけているとは思っても、実際の状況になれば考えない。 あくまで分かっているつもりなだけだから、切り捨てる。 「…………どうして……」 ならば、と 考える。 根幹は何だろうか。 宮川優斗がここまで自己放棄をする原因。 「…………っ……」 一つ、浮かんだ。 ――自信の無さ……ですね。 フィオナの推測としては、病的なまでの自信の無さだ。 優斗は自分が誰かを幸せにできると思っていない。 十全に幸せを与えられる存在だなんて、認識してはいない。 「……カイアス従兄様に言われました。優斗さんが私のことを、十全に幸せにしていることを教えてあげろ、と」 ということは、だ。 「私のことを幸せにしきれてないとでも思っていましたか?」 突きつけられた言葉に、優斗は思わず目線を下に向ける。 「…………それは……」 言おうか言うまいか。 少しだけ迷って。 でも、口を開く。 「……思って……たよ」 十全に幸せに出来ていた、とは思っていなかった。 「でも、カイアスに言われて理解したつもりだから」 「つもり?」 また“つもり”だ。 自信がないのは分かる。 彼は全力でネガティブだ。 だから所詮、感情論でしかないものに対して確固たる証拠を見出せない。 計れないものだからこそ。 「……また“つもり”ですか」 でも、馬鹿にしている。 どうしようもなく馬鹿にしている。 「でしたら貴方はどうすれば、私が十全に幸せだと分かりますか? 私が何をすれば、貴方の愛をもらって幸せであるということを知ってくれるのですか?」 何を届ければ理解できるのだろうか。 「言葉だけでは駄目ですか? 抱きしめるだけでは駄目ですか? キスをするだけでは駄目ですか?」 であるならば。 「だとしたら身体も心も何もかもを貴方に捧げましょう。そうすれば、理解してもらえますか?」 フィオナ自身の全てを捧げれば、彼は理解するだろうか。 「……そうじゃない」 優斗は唇を噛みしめ、首を振る。 「……そうじゃないんだよ」 フィオナが問題じゃない。 自分の心の問題だ。 「だって……優斗さんがそんなことを言っても……っ!」 けれどフィオナにとっては、彼が理解していないことこそ悔しい。 「私はこれ以上ないくらい幸せなのに、幸せにしてくれている人が理解していないなんて……」 愛しているのは、理解されて。 恋をしているのは、理解されて。 幸せにしてもらっているのに、理解されていない。 「そんなの……ないですよ」 涙が零れる。 彼は理解していないから、自己を放棄する。 だから苦しくて。 だから辛い。 でも、そんな優斗に届けてみせる。 絶対に、届かせる。 「……もっと貴方を大事にしてください」 優斗の胸元を握りしめ、 「私の“最愛”を、もっと大切にしてください」 腕が震えるほどに強く握りしめ、 「私の“大切”を、無碍にしないでください」 狂おしいほどに告げる。 「……無――」 「無理じゃない!!」 叫ぶ。 宮川優斗を傷つけてでも、教える。 「私は一生、貴方と一緒にいるんです! だから何度でも、何度だって言います!」 息を吸い、想いの丈を届ける。 「――“私の優斗さん”を傷つけないでっ!!」 叫んだ言葉と零れる涙が、優斗の胸に届く。 「このような馬鹿なことをやらせないために、私の愛で貴方を変えてみせますから!!」 歪んだ貴方を変えるから。 「だからもう……っ!」 もう二度と。 「私の為に傷つかないで下さい!!」 自分を蔑ろにしないでほしい。 「私の為に自分を放棄して傷つく貴方が、誰よりも私を傷つけているということに気付いて下さいっ!!」 だから絶対に分からせてみせる。 「貴方しか私を幸せに出来ないことを、心に刻んで下さい!!」 無二の存在であることを。 「わかりましたか!?」 私の“大切”。 「理解しましたか!?」 私の“最愛”。 「答えてください……っ!」 私の――“幸せ”。 「――宮川優斗っ!!」 涙を零しながら。 しゃくりあげながら。 フィオナは声を張り上げた。 届いてほしいと願いながら。 届けてみせると誓いながら。 宮川優斗を傷つけてでも、フィオナ=アイン=トラスティは言い切った。 「…………」 優斗は思う。 誰がこんなにフィオナを泣かせたのだろうか、と。 彼女が叫んで、喚いて、泣いて。 それほどまで追い詰めてしまったのは誰なのか、と。 ――僕……だね……。 他にいない。 唇が震える。 胸が痛む。 抉られるような痛みがある。 けれど同時に怒りが、苛立ちが沸き上がる。 ――誰がフィオナを泣かせた。 自分しかいない。 ――誰がフィオナを苦しませた。 自分以外いない。 ――誰がフィオナを……こんなに辛くさせた。 決まっている。 宮川優斗だ。 護りたいと思っている者を、誰よりも傷つけている。 ――ふざけるなよ。 何が護るだ。 何が傷つけないだ。 何が泣かせないだ。 自分勝手に己を傷つけて、誰よりも大切な最愛が泣いている。 本末転倒もいいところだ。 ――曲げるべきは己の考えか? そして自分自身が傷つくことか? ――違う。 曲げるべきは本質だ。 ――己の過去があるから仕方がない? ああ、確かに強烈だ。 宮川優斗の根幹になっている。 この世界に来るまでの日々が宮川優斗の本質、心の在り方の全てだ。 ――だからって、この世界の1年が負けていいはずがない。 他の何が過去に負けてしまっていても。 彼女をここまで泣かせているものが勝っていいはずがない。 狂っている? だから何だ。 壊れている? だからどうした。 ――目の前でフィオナが泣いてるんだ。 己が歪んでいるせいで。 ――だったら。 正せばいい。 胸が痛むとしても、傷口を抉ろうとも。 出来ないなどと、問わせはしない。 言わせもしない。 口にすることも、声にすることも今後一切全て認めない。 誰が泣いていると思っている。 誰が泣かせたと思っている。 宮川優斗にとって、一番許せないことを誰がした。 「――っ!」 歪んだ本質を正せないと思うのなら、ねじ曲げろ。 叩き折り、砕き、最愛を悲しませない形へと造り替えろ。 無理などという弱音は投げ捨て、吐き捨て、全て唾棄してしまえ。 殺すべきは自分自身じゃない。 こんな馬鹿げたことで心を痛める己の歪みだ。 「…………」 大きく息を吸い……吐く。 そしてフィオナの頭に触れると、強く抱き寄せた。 彼女の涙が止まってほしいと願うほどに、力強く。 「……ごめん」 本当に。 「泣かせちゃったね」 自分のせいで。 「やっぱり僕は間違えてた」 どうしようもないほどに。 間違えていた。 「僕のせいで君を泣かせた」 自分が護りたいと思っている者を、自分の手で泣かせてしまった。 「……僕自身に……本当に腹が立つ」 今まで生きてきて、これほどまでに自分が馬鹿だと思ったことはない。 「フィオナ。僕が師団長を止めたことは、どうだった?」 彼の問いかけは、優斗にとってではなく、フィオナにとって……でもない。 優斗が求めている答えを理解して、フィオナは小さく頷く。 「……師団長の方の行動は、この国でもやはり間違っているそうです。なので、止めて正解でした」 「そっか」 「けれど“私の為に自身を投げ捨て傷ついて”まで、止める必要は何一つないということです」 自分達は無関係だ。 故に師団長を止めるのであれば、第三者の視点を持って止めなければならない。 割って入って自身を己の考えによって傷つけるなど愚の骨頂だ。 「私はもう許しません」 「なにを?」 「例え貴方であろうとも、私の最愛を傷つけるなんてことは許しません」 これから先。 同じようなことがあれば、優斗を許すことなどしない。 「意味、分かってますよね?」 「……うん。“君の為に”という言葉で、自分を投げ捨て傷つけるなってことだよね」 「今回のような馬鹿なことであれば、尚更です」 誰のためにもならない。 独善的なのに。 あまりにも独善的な行動を取っているのに自身が傷つくなど間違っている。 「……一応、人1人の命を救ったはずなんだけど。一般的に僕の行動、間違ってないんだよね?」 「結果論だけでしょう? そう言うのであれば第三者の視点を持つことです。仮にそれが出来なかったとしても、貴方自身を傷つけずに救って下さい。私の夫はそれが出来る人ですから」 「……出来なかったって言ったはずだけど」 「無理矢理にでも思いついてください」 言い捨てる。 言い訳など、何一つ聞くことはしない。 「……傲慢だね」 「私は貴方のことでは傲慢になると決めましたから」 「……そっか」 優斗が頷いたと同時、フィオナが優斗の腕に軽く触れた。 「……ん」 彼の力が弱まり、彼女は優斗の胸にあった顔を上げる。 涙は……止まっていた。 「最後にもう一度、言います」 真っ直ぐに見据えて伝える。 「“私の為に”という言葉を使って自身を放棄し、私の最愛を二度と傷つけないで下さい。投げ捨てないで下さい」 彼が煩わしく思うくらいに、何度も伝える。 「これは努力すべきことでも目標とすべきことでもありません。今すぐ、そう“成れ”と言っています」 違和感のある命令口調で、何度だって教えてやる。 「出来ないというのなら、すぐに仰って下さい。私が貴方を変えますから」 「……なんか、凄い尻に敷かれてる気分だね」 彼女にはあまりにも似合っていなくて、あまりにも不自然。 でも、これほどまでにフィオナが優斗のことを想っていると、否が応でも理解させられる。 「僕は君を傷つけないと心から誓ってる。僕が君を傷つける刃になるなんてことは……誰よりも僕が許しはしない」 もう二度とやらない。 やって、なるものか。 「だから――分かった」 誠心誠意、告げる。 「僕は僕を大事にする。自分を投げ捨て自傷する、“君の為に”という免罪符は二度と使わない」 馬鹿な自分を、これほどまでに想ってくれる彼女の為に、 「これからは本当の意味で――」 改めて誓おう。 「――君を悲しませない」