「――昨日はすみませんでした!」
クラスメイトの半分ほどが集まった早朝の教室。
要は目の前に立つ四人に頭を下げ、そう謝罪した。
「へ……ど、どうしたの、カナちゃん?」
教室に登校してくるやいきなり謝ってきた要に対し、菊子は困惑したように尋ねてくる。
倉田、岡崎も同様の顔だった。
ただ達彦だけはこちらの言いたいことを察したのか、呆れ笑いのようなものを浮かべていた。
それぞれのリアクションを前にし、要はバツの悪い口調で言った。
「いや、その……昨日の朝、空気悪くしちゃったじゃん? だから、その事を謝っておこうと思って」
達彦を除いた三人は「あぁ」と思い出したような声を出す。
「い、いいよカナちゃん。わたし、気にしてないもん。そんな謝ることじゃないよ」
「そうそう。倉橋ちゃんの言うとおりだぞ」
「こんなこと、この先付き合ってればいくらでも起きるだろうし」
菊子、倉田、岡崎の三名はそう許してくれた。
要は顔を上げ、「ありがとう」と小さく笑った。
それにつられたのか、三人も笑みを返す。
昨日まで渦巻いていた気まずい空気が、今、完全に吹き飛んだのだった。
「それにね、分かってるよ。カナちゃんはわたしたちを巻き込みたくないから、あんな風に振舞ったんだって」
菊子はそのまま続けた。
「でもね、わたしだってカナちゃんの力になりたいって思ってるんだよ? あなたは前に、わたしを助けるために闘ってくれた。だから、それと同じように、わたしもいつかカナちゃんを何かの形で助けたいって思ってるの」
「……キク」
「だから、今度からわたしにできそうな事があったら、何か頼ってほしいな」
そう言って、菊子はこちらの片手を両手で包み込むように握る。
細く、すべすべしていて、少しひんやりとした手。
その感触に心地よさを感じる一方、妙な気恥ずかしさも一緒に湧いてくる。
「……うん。分かった」
ちょっとだけ頬を熱くしながら、要はそう頷きを返した。
少しうつむきながら、上目遣いで菊子を見る。ニコニコと嬉しそうに笑っていた。
そしてその後ろには、ニコニコではなくニヤニヤ笑った達彦。
要はじとっとした睨み目で、
「……んだよ」
「べっつにぃ?」
あからさまに意味ありげな態度ですっとぼける達彦。なんだろう、少しムカつく。
「それよか、今日購買に新しいパンが入るらしいぜ? 今日買いにいかね?」
そこで倉田が話の軌道を変えた。
達彦はげんなりした顔で、
「ええ? 新メニューって言うからには、他にも狙ってる奴死ぬほどいると思うぞ? 競争率半端ねえだろ。授業終了間際に教室抜け出して並んでもまだ足りねぇかもよ」
「なら、もっと速く教室抜け出すか? いや、もうこうなったら授業に出ないというのも手かも……!」
「授業は出ろよ……」
アホな事を言い出す倉田を、要は苦笑しながらたしなめた。
お昼ご飯の事を話していたからだろう。自分もつられて今日の昼食をどうするか考え始めた。
財布と相談して決めよう。そう思ってポケットの財布へと手を伸ばす。
「……あ」
が、ポケットの中を確認した瞬間、サーッと血の気が引くのを感じた。
財布がない。
家に忘れてしまったようだ。
どうしよう。これじゃ何も食べられない。
「カナちゃん、どうしたの?」
菊子がこちらの様子に気がついたのか、顔を覗き込んできた。
――カッコ悪いが、早速頼らせてもらうとしよう。
要は恥を承知で、菊子を”頼った”。
「――財布忘れたから、昼代貸してくれ。後でちゃんと返すから」
それから、さらに数日が経った。
三枝と戦った日以来、『軍隊蟻』からの襲撃は嘘のようにぱったりと止んだ。
あの日からしばらくの間、いつまた襲われるかもと気を張って生活していた。しかしいつまで経っても何日経過しても誰ひとりとして襲いかかっては来ず、やがて馬鹿らしくなり、警戒するのはやめた。
『五行社』の中で、三枝の立場に何か変化が起きたのかもしれない。
もしくは、三枝自身にやる気がなくなったのかもしれない。
具体的な理由は分からない。
だが、自分は前者の可能性が比較的濃厚だと思う。
三枝は最終的に、途中で逃げ出した。しかもあからさまに怯えた様子で。
途中で逃げたということは、負けを認めたという事になる。
『五行社』は敗北者に冷酷だ。三枝のその行為を「敗北」とみなし、また鴉間の時のように切り捨てたのかもしれない。それに付随する形で、今までの権力を失った。そう考えれば辻褄が合う。
だがそれも可能性の域を出ない。
今のところ、こうであると断定できる要素は無い。
しかし、今はこうして平和に過ごせている。
なら、それでいいと思った。『五行社』の事情なんて知ったことではない。
――その話は、一旦置いておこう。
今日は日曜日。
今日は、菊子から電話でお茶会に誘われていた。
なんと、都合が良ければ易宝も一緒にとのこと。
理由は「臨玉さんも同年代の人が一人いると楽しいでしょうし」という善意一〇〇パーセントのものだった。
……当の易宝は、臨玉を冷やかしに行く気満々な様子だったが。
易宝は「フェイフォンも連れてってやろうか?」ともちかけたが、菊子はすごく残念そうに「ごめんなさい。お父さん、猫アレルギーなので……」と口にした。残念無念である。
そして現在。「日曜日の午後に来てください」という彼女の言葉を守る形で、要は午後一時、淡水町の道路を歩いていた。
じりじりと照りつけてくる真夏の太陽。その熱で額には汗の雫が浮かぶ。それをときどき拭いながら、アスファルトで舗装された道の上を踏んで進む。
「カナ坊、もう左足は大丈夫か?」
隣を歩く易宝が、案ずるようにそう尋ねてきた。
黒い長袖の唐装に黒い長ズボンという、夏を過ごす上では最悪の服装。しかしそれを身につける彼は汗一つかいていなかった。
「うん。ぜんぜん平気」
要はそう言って、足でアスファルトを強く踏みつける。全然痛くない。三枝との戦いで受けた足甲の怪我は、もうすっかりなりを潜めていた。易宝の治療のおかげだ。
「それで、いつ着くんだ? 嬢ちゃんの家には」
易宝は訊いてきた。
二人は隣り合わせに歩いているが、より正確に言えば、要が少し前へ出ていた。易宝は倉橋家がどこか知らないので、要の進む方向について行っている状態だった。
「ああ、もうすぐ着くよ」
気軽な口調で、要は見知った曲がり角を曲がる。易宝もそれに追従する。
易宝は底意地悪そうに笑うと、
「臨玉の奴は、嬢ちゃん家(ち)の執事をやっているらしいな。お茶会というからには、奴が茶を出し入れするわけだろう? くくく、せいぜい顎で使ったり、姑ばりのいちゃもんを付けたりして楽しむとしようか」
「クレーマーみたいなことするなっての」
夏さん絡みになると俺以上に子供になるよね、この人。
しばらく歩き、ようやくそこに到着した。
西洋風のデザインの立派な正門。その向こうに広がる広大な敷地。そして、その敷地の奥にある洋館風の豪壮な建物。
「ほう……こりゃたまげたのう」
易宝が目を丸くし、無意識に発したかのようにそうこぼした。
自分も初めて見た時はひどく驚いたものだ。今でも見るたびそれなりに圧倒されている。
要は正門の右端へと近づき、そこに備え付けられたインターホンのスイッチを押した。
しばらくすると、「ブツッ」という音とともに、電子化された声が聞こえてきた。
『どちら様でしょうか?』
この声は知っていた。菊子の父、菊之丞のものだ。
『こんにちは、菊之丞さん。工藤要です』
『おお、要くんか! よく来たな! 話は菊子から聞いている! ささ、入りなさい』
菊之丞の声は嬉々としていた。誘拐事件以降、要は菊之丞からえらく気に入られているのだ。
そして、正門がひとりでにゆっくりと開きだした。電動式のようだ。菊之丞が動かしたのだろう。
開いた門の隙間から、二人は敷地内へと足を踏み入れる。
白い石畳がびっしりと敷かれたその空間は、中に入って見るとさらに広く感じられた。家である大きな屋敷の他には、車のガレージ、離れの小部屋、道場など、小さな建物がいくつもある。どう考えても、住むだけでは持て余しかねない場所だった。
敷地奥の屋敷に向かって歩くが、それよりも早く、屋敷の正面玄関である両開きのドアが開け放たれた。
そこから、菊子がひょっこりと出てきた。
彼女は要と易宝の姿を見つけると嬉しそうに口元をほころばせ、こちらへ向かってとてとて早歩きしてきた。
距離はすぐに縮まった。
「カナちゃん、劉さん、いらっしゃ――きゃ!?」
菊子は進めようとした片足をもう片足に引っ掛けてしまい、転びそうになった。
「おっと」
だが、近くまで来ていたのが幸いだった。要は迅速に踏み込み、菊子の両肩を正面から両手で受け止めた。
「あ、ありがとうカナちゃん」
「まったく、よく転ぶ奴だなぁ」
呆れた笑みを浮かべつつ、菊子をきちんと立たせた。
「え、えっと、いらっしゃい。カナちゃん。劉さん」
「うむ。お邪魔させていただく。それで、臨玉の奴は?」
そう尋ねる易宝の手元はどこかそわそわしていた。早く会っていじり倒して遊びたいという気持ちが如実に現れたその仕草に、要と菊子は揃って苦笑する。
「臨玉さんなら、道場にいますよ。その建物です」
「恩に着る。よしカナ坊、あのクソメガネをからかいに行くぞ」
「え? あ、ちょっと師父(せんせい)!?」
易宝は早歩き――しかしそのスピードはどう見ても早歩きのレベルじゃなかった――で道場へ向かっていった。
どんだけ会いたいんだよこの人。
要も菊子と一緒にそれを追いかけた。
そして、道場の入口前に三人で立つ。
「たのもー!」
易宝は威勢よく引き戸を開け、入っていく。要たちもそれに続く。
そして、学校のプール程度の広さを持つその道場で最初に目に付いたのは、
汗だくで、仰向けにぶっ倒れた達彦だった。
「ええええぇぇ!?」
予想の範疇を逸脱した光景に、要は驚かずにはいられなかった。
ここに達彦がいたことだけでも十分驚きなのに、そこへさらにバテまくった状態で倒れているのだから二重の驚愕だった。
Tシャツにジャージのズボンという服装を汗まみれにした達彦は、何かを欲するように宙へ手を伸ばし、息を切らせながら一言。
「だ……誰か水を……」
そして達彦の向こうには、すまし顔で佇む臨玉の姿があった。
数分後。
「っかぁーー! 生き返るー!」
菊子から渡された二リットルのスポーツドリンクを飲み干した達彦は、何かから開放されたかのごとく爽やかな声を上げた。
傍らに座る菊子が心配そうに、
「だ、大丈夫? 鹿賀くん?」
「あー、正直やばかった。完全に脱水症状起こしかけてたわ。でも、もう平気だ。飲み物サンキュ」
そう言って、道場の床にゴロンと寝転がる達彦。
菊子のもう傍らの位置に座り込んでいる要の頭も、しばらくしてようやく冷静さを取り戻した。
――そうだった。そういえば達彦は、臨玉に師事していたのだった。ならばここにいたって全然おかしくはない。
そして先ほどまで彼がやっていたのは、十中八九、走雷拳の修行。
「あーあ、死ぬかと思ったぜ。夏老師ってば、こんなクソ暑いのに手加減無しなんだもんよ」
達彦本人も、それを認める発言をした。
「――妥協したら君のためにはならないだろう、達彦? 君は本物の武術を求めて、お嬢様を通じて僕に教えを求めたはず。ならばその覚悟を汲んで徹底的に鍛え上げるのが、僕に課せられた責務というものだ」
臨玉が有無を言わさぬ口調でそう告げる。その語気は自分や菊子と話す時より、少し鋭さがあった。
今の臨玉からは、まさしく「師」としての威厳が感じられる。
ちなみに「老師」という呼称は、中国語で「先生」を意味する。
老師の「老」は、「年を取っている」という意味ではなく「経験を多く積んでいる」という意味。そのため中国では若い女の先生にも「老師」という呼称を使うのが普通だ。
――まあ、夏さんは見た目よりずっと歳食ってるけどね。
達彦は不貞腐れたように、
「分かってるッスよ。ちょっと言ってみただけッス。でも老師、いい加減『游身』は卒業できないんですか? あれ、体動かす上での誓約が多いから、かなり精神的にきついんですよ」
「馬鹿を言ってはいけないよ。『游身』は走雷拳の基礎の基礎だ。そんな練功法に終わりなどあるはずがないじゃないか。走雷拳という門派にとどまり続ける以上、睡眠や食事と同じく毎日続けるものだ」
「そうッスよねぇ……」
達彦は遠い目をして、憂鬱そうに呟いた。
うん。気持ちは分かる。自分も『頂天式』をずっと続けなければならないと言われた時、血の気が引いた事があるから。
……そんな感覚を達彦と共有できた気分になって、少し嬉しくなった。
話によると、達彦が走雷拳を学び始めたのは、一ヶ月半ほど前――六月の上旬からだそうだ。
最初は色々な道場を見学して回ったらしいが、どこも自分の求めるものとは何か違ったらしく、なかなか「これだ」と思うものが見つからなかったのだという。
そんな時、達彦の事情を聞いた菊子が教えてくれた。「わたしの家にすごく強い人がいるんだけど、よかったら会ってみない?」と。
そして、菊子の紹介によって、達彦は臨玉に出会った。
臨玉の神業的な腕前の一端を目の当たりにした達彦は、一発で惚れ込んだ。
そして、その場ですぐ教えを請うた。
臨玉も来るもの拒まずなタイプの武術家だったため、達彦の頼みに頷きを返した。
以来、達彦は倉橋家へやってきては、臨玉から厳しい指導を受けている。
――達彦と臨玉の馴れ初めについては、以上の通りである。
達彦は最近帰りが早く、自分と途中まで一緒に下校する機会がめっきり減っていた。
それは臨玉の元へ行っていたからなのだと確信し、要は奥歯に挟まったものが取れたようにスッキリした気分となった。
ただ、一つだけ不服なことがあった。
要は頬っぺたを膨らませ――菊子にジト目を向けた。
「なあキク、どうして俺に隠してたのさ?」
そう。達彦に臨玉を紹介したのは菊子なのだ。つまり彼女は達彦が走雷拳を習っている事をずっと知っていて、なおかつそれを自分に黙っていたことになる。
期末テスト結果発表日の帰り道、二人のとった態度を思い出す。最近達彦の帰りが早い理由を尋ねると、達彦と菊子はあからさまに何かをごまかすような態度をとっていたのだ。これは、意図的に隠そうとする意思の表れである。
菊子は申し訳なさそうに、
「ご、ごめんねカナちゃん。その……鹿賀くんに頼まれたの。「俺がしゃべるまで言うな」って」
「ここぞって時に出した方が、展開的に燃えるだろ?」
「達彦、お前な……」
「まぁまぁ。実際お前も、強くなった俺が助けに来て感動したろ?」
バツが悪くなった要はそっぽを向き、「まあ、ちょっとは……」と消え入りそうな声で呟く。
確かにあの時達彦たちが来なかったら、自分は確実に三枝のされるがままになっていただろう。助かったと思っているし、助けられた事には感動と感謝の念を抱いていた。
そして、同時に思い知った。
たとえどれだけ強くとも、一人の力など知れていることを。
そして、仲間と力を合わせることでしか、できない事もあることを。
寝転がっていた達彦は上半身を起こすと、要の方を見た。
「つーわけで、俺はこれからもお前に置いてけぼりにされんよう、強くなってくつもりだ。劉センセとタメ張るレベルの師匠も見つけたわけだしな。もう――仲間はずれにすんなよ?」
ニッと人の良い笑みを見せ、自信たっぷりな口調で釘を刺してきた。
今の達彦はこれまでよりずっと頼もしく見えた。
そう見えるよう、頑張ったのだ。
なら、その頑張りを無碍にしてはいけないと思った。
今度から危なくなったら、遠慮なく頼らせてもらおう。
「――ああ」
要は、はっきりと頷いたのだった。
「――まさかタツ坊の奴、おぬしに武術を学んでおったとはのう。あいつめ、もう少し師を慎重に選んでもよかったんじゃなかろうか?」
少年少女三人を離れた位置から見守っていた劉易宝は、自身の傍らに立つ臨玉を揶揄するように呟く。
臨玉はにっこり微笑み――しかしその笑みの中に見えざる圧力をたくわえながら――易宝に訊いた。
「それはどういう意味かな、易宝」
「そのままの意味に決まっとるだろうが。妥協を許さない完璧主義な分、修行の過酷さに定評のある男だろ、おぬしは。よく一ヶ月も持ったものだ」
「はははっ、刀振り回して弟子を脅かすような修行してる君に言われるようじゃ、僕もいよいよおしまいだね」
互いに胸ぐらをつかみ合う。
が、すぐに阿呆らしくなって手を離す。
「それで臨玉、どうなんだ?」
「どうなんだ、とは?」
「タツ坊をしごき回した感想だ。奴は素質がありそうか?」
易宝はそう問うたが、内心では返って来るであろう答えをある程度予想できていた。
この男は、武術の指導に関しては厳格だ。
その分弟子の評価方法も、短所七割、長所三割を見つけて告げるというシビアなものである。
しかしこれは臨玉なりの気遣いである。人が人である以上、短所を完全に直しきることなど不可能。しかし、短所を極端に少なくすることなら可能だ。武術の実戦において、短所は付け入る隙となる。その隙を可能な限り埋めることで強くし、生き残りやすい戦士へと育て上げる。それが夏臨玉という師の教育方針だ。
そういう理由から、臨玉が弟子を絶賛することなど、宝くじで一等賞を当てるくらい稀なことなのだ。
――しかし次の瞬間、彼の口からその稀なセリフを聞くことになった。
「はっきり言おう。――逸材だよ彼は」
そう口にする臨玉は一見普段通りの落ち着きようだが、前髪同士の細い隙間から見えるその額には、微かにだが脂汗が浮かんでいた。
内心に驚きを携えながら、易宝は平静を装って言った。
「おぬしにそこまで言わせるのか」
「……易宝。走雷拳の基本歩法『游身』を、実戦使用可能レベルの最低水準にまで成長させるのに、最低でもどれくらいかかるか分かるかい?」
「一年くらい、だろう? しかもそれは才能に恵まれた奴に限る話で、凡人はもっとかかるそうだな」
「そうさ。だがあの鹿賀達彦という少年は――それをたった一ヶ月で成長させたんだ。これがどういう意味だか分かるかい?」
あまりの驚きに心臓を直接叩かれたようなショックを受けながらも、易宝は神妙に口にした。
「――『以人為鏡(いじんいきょう)』」
「ご明察だ。君も武林(この世界)に長いなら知っているだろう? 世の中にはどれだけ難解な身体操作でも、まるで紙が水を吸い取るかのごとき驚異的な速度で吸収し、自分のものにしてしまう「特異体質」を持った人間が稀に存在する。我々武林に生きる者は、こういった人間を『以人為鏡』と呼んでいる。鹿賀達彦はまさにソレだった。僕は元々凡人だったから、『游身』がまともに使えるようになるまで二年半は掛かった。しかし彼はそんな僕の努力を嘲笑うかのように、とんでもないスピードで『游身』をモノにしていった。正直、見ていて怖気が立ったよ。走雷拳で『高手(ガオショウ)』になれるかはまだ分からないが、彼は間違いなく僕よりも素質がある」
『眼鏡王蛇(キングコブラ)』の通り名を持つ男の口から次々と発せられる、絶賛の嵐。
ちなみに、『以人為鏡』はあくまで動作の習得スピードがとんでもなく速い特異体質。脚力や腕力といった基礎体力の向上スピードに関しては常人と変わらない。
だが走雷拳は、そういった先天的な力にはほとんど頼らない。精密かつ合理的な動作や技術で戦う。そういう意味では『以人為鏡』にぴったりな拳法かもしれない。
「しかし、『以人為鏡』はただ「覚えが異常なまでに早い」というだけのシロモノ。習得の速さだけで天下を取れるほど、武術の世界は甘くない。ゆえにダイアモンドとは言い難い。やはり真のダイアモンドは――崩陣拳だ」
臨玉はそこで話題を変えた。
「易宝。工藤くんの事、もう楊氏(ようし)はご存知なんだろう? 顔合わせはもう済ませたのかい?」
「うんにゃ、今年の四月にカナ坊の写真をメールで送りこそしたが、直接会わせた事はない。まあでも、楊氏は近いうちに来日するそうだぞ」
「そうか。しかし、まだ四代目という浅い歴史とはいえ、外国人、ましてや日本人の次期伝承者なんて前代未聞だろう。余計な波紋が生まれなければいいが。「組織」の中には元抗聯(こうれん)もいるんだろう?」
「大丈夫だ。ちょっとは眉をひそめるかもしれんが、私情と山の掟の区別はしっかりつけられる。でなきゃ「組織」には居られんよ」
臨玉は「そうか」と頷くと、言った。
「まあ何にせよ、早く楊氏に会わせてあげるといいさ。――君の育てた「鞘を持つ者」をね」