「え――?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
顔に張り付く液体の感触。粘ついたそれを、手で拭う。
夕日に照らされているせいだろうか。それは、酷く紅かった。
だが、一瞬後には、違う、と自答する。
この色は血の色。断じて、日の灯が見せる錯覚などではない。レックスはそれを認めると同時に、視線を目の前に移した。
地面に横たわっているのは、ボロ雑巾のようになった帝国軍の制服と彼女の残骸。 それが意味することを、彼は理解する。
「アズ、リア?」
「む? 仕留め損ねたか」
呆けたように声を出すレックスに答えるよう、男が声を放つ。
オルドレイク=セルボルト。無色の派閥に属する、大幹部。
彼は剣の唾元に埋め込まれた召還石から手を離すと、大仰に肩をすくめた。
「帝国の犬めが。私の邪魔をするなど、馬鹿なことを」
その言葉の意味するところ。それは、レックスが考えたくないことだった。
抜剣覚醒をしても埋められない、オルドレイクとの力の差。それに膝を屈して、レックスは死を覚悟した。トドメを刺すために行使された召還術を前にして、為す術もなく消し飛ばされるはずだった。
だが、何故自分はここにいるのだろうか。
答えは簡単だ。召還術が炸裂する間際、誰かが割り込んで来た。
その誰かは――レックスの見間違いでなければ、彼の友人であったアズリアだった。
碧の賢帝の力を持ってしても耐えられない威力を秘めた召還術。それを生身の、魔力耐性を持たない人間が受けたらどうなるか。そんなことは、目の前に転がっているモノを見れば嫌でも理解出来る。
「では、今度こそ――貴様を殺して、その剣を返して貰おう」
再び汲み上げられる強大な魔力。しかし、それを前にしてもレックスは微動だにしなかった。
何故こうなったのだろう、と、彼は自問する。
助けようと思った。敵も味方も、全ての人達が傷付くのが嫌だから、誰も傷付かない方法を取ろうとした。
しかし、その結果がこの様だ。消耗した帝国軍は、無色の派閥に皆殺しにされた。もし自分が全力で力を振るっていたのなら、戦闘を行わずに逃げに徹しただろう。そうすれば、何人かは生き延びたはずだ。
そして、敵だった彼女は自分を庇って死んだ。今までの罪滅ぼしのつもりなのか、部下が果てたこの場を死に場所としたのかは分からない。ただ、もっと自分が強ければ――力も、決意も強ければ、こんなことにはならなかったはずだ。
「さらばだ、適格者!」
顔を上げて、空中に生まれた異界の門を睨む。
許せない。なんの躊躇いもなく人を殺せるこの男が。
許せない。大切な友人を奪ったこの男が。
そして何より――何も出来なかった自分自身が。
「……殺してやる」
そう、呟く。それに反応したのか、碧の賢帝は嬉しそうに身動ぎした。
力が欲しいか――
あれほど忌避していた、剣の放つ幻聴。しかしレックスは、暗い激情に突き動かされ、頷きで声に応える。
ならば、我を継承せよ――
腕と一体化していた剣がその触手を伸ばしてくる。抵抗せず、今まで許したことがないほどの融合を果たして、レックスは碧の賢帝をかまえた。
「殺してやるぞ、オルドレイク=セルボルト――!!」
サモンナイト3~微笑みの代価~
呻き声を上げて、レックスは目を覚ます。
背後にある感触は、ベッドの柔らかいものではない、硬いものだ。それに違和感を感じながら、彼は身を起こした。
自分の周りにあるのは紫水晶だ。それを見て、ここが狭間の領域にある祠だということを理解する。
今の状況を確かめるべく、彼は立ち上がろうとした。その際に感じた身体の軋みに、思わず顔を顰める。
「確か、俺は――」
そう呟き、気を失う前に何があったのかを思い出す。
生まれて初めて人を殺す気そうとした。そのために必要な力を碧の賢帝から引き出し――その過負荷に耐え切れず、あと一歩というところで彼は気を失ったのだ。
あまりの悔しさに、レックスは歯を噛み鳴らす。
今まで、上手くやってきた。争いごとなんて嫌いな自分を宥め賺して必死に戦い、常勝を重ねていた。自分には碧の賢帝という力があったから。だから、あとは決意さえあれば上手くやれると信じていた。
だが、その結果が今の状態だった。
友人は死に、死なせたくなかった帝国の兵士達は全滅。信じていた力である碧の賢帝は通じず――否、その力に応えることが出来ずに、無念を晴らせなかった。
なんて無様、と、彼は自嘲する。
自分の理想を貫こうとした挙句、それは叶わず、失った。自分に負けは許されなかったというのに。
自分が全てを守る。そうすれば皆が笑顔で過ごせる。それが理想だというのなら、倒れた時がその夢の断末魔だ。守り手であった自分の敗北は、笑顔の消失を意味するのだから。
「レックスさん!」
不意に聞えた声に、彼は顔を上げる。
祠の入り口には、帰ってきたのであろう、ここの主人がいた。
亡霊の少女、ファリエル=コープス。
彼女は眉尻を下げながら、悲痛な声でレックスの名を呼んだ。
「身体は大丈夫ですか? どこか苦しいところはありますか?」
「いや、大丈夫だよ」
顔に笑顔を張り付かせて、彼はそう応えた。身体は悲鳴を上げているが、それを素直に答えたら彼女は取り乱すだろう。彼女の表情が歪むのを見たくない。その一心で、レックスは強がりを言った。
言葉通りに受け取ったのか、ファリエルは安堵したように溜息をつく。
「ところで、俺はどうしてここにいるのかな」
「はい。碧の賢帝の魔力が貴方の身体を蝕んでいたので、ここでそれを吐き出させていました。ほら、ここは魔力が澄んでいますから。上手く循環させて、身体を休ませていたんです」
「そっか。……ごめん。ここは君の住処なのに。迷惑だっただろ」
「そんなことないです! その……貴方だったら、ここにいてもいいですから」
そう言い、彼女は顔を俯かせる。
自分の言ったことが恥ずかしかったのだろう。髪の隙間から覗く頬は、僅かに赤くなっていた。
それに照れを感じて、レックスはバツが悪そうに苦笑する。話題を逸らすべく、彼は当たり障りのないことを口にした。
「それで――俺は、どれくらい寝ていたのかな」
「……あ、はい。三日です。あれだけ碧の賢帝を使ったんですから、無理もないですよ」
そうだね、と苦笑しながらレックスは応える。
「けど、三日か。寝過ぎたな。……行かないと」
「待って下さい。まだ休んでいないと駄目です! それに――どこへ行くつもりですか?」
分かっているくせに、と彼は内心で呟いた。
「いや、ほら。こうして起きたことだし、カイル達に顔を見せないと。心配しているだろうからね」
「あ、それは――駄目です」
「なんで?」
レックスの問いに、ファリエルは口ごもる。その様子に彼は不自然さを感じた。
「何か、あったんだね?」
「それは……」
「無理に言わなくてもいいよ。行けば分かることだから」
そう言って立ち上がった彼の前に、ファリエルは立ち塞がる。
「駄目です。行かせません」
「どうして?」
「だから、それは――とにかく、駄目なんです!」
彼女の必死さに、レックスは怪訝な表情をする。
何かあったのだろう、という推測が、何かあったのか、という確信に変わった。
「……無色の派閥が攻めてきたんだね?」
「言えません。ここで大人しくしていて下さい」
「ごめん。それは出来ないよ」
そう言って、彼は笑った。
「だってほら。俺は碧の賢帝を持っているから。皆を守らないといけないから。だから――戦わないと」
そうだ。戦わないと。戦わないと守れない。あの赤い丘で起こった惨劇が起きてしまう。今度は守りたいものじゃない。守るべきものが失われてしまう。それだけは、絶対に、嫌だった。
「なんで笑っていられるんですか!」
しかし、そんなレックスにファリエルは怒鳴った。
「貴方は充分に戦いました。そんなに傷付いたじゃないですか。それなのに、嘘を吐いてまた戦おうとするなんて……そんなにボロボロなのに笑顔を浮かべて……なんで貴方は、そこまで」
最後の方は嗚咽が混じっていた。
人を思いやることが出来る彼女。だからなのだろう。レックスの心境を誰よりも理解しているはずだ。
「……ごめん。ありがとう」
レックスは、決して触れることの出来ない彼女の頭を撫でる。
掌に感触はない。それは彼女が幽霊だから。それは分かっているとしても、泣いている女の子を前にして慰めることも出来ない自分を、彼は無力に思った。
「でも、守りたいから。大切な皆を、今度こそ守りたいから。だから行くよ」
涙を浮かべながら、ファリエルはレックスを見詰める。
「安心して。悲しみも苦しみも、終わらせるから。……またみんなを笑顔にしてみせる」
「……その笑顔の中に、貴方は入っているんですか」
不意に投げかけられた疑問。それに、レックスは息を詰まらせた。
「確かに、みんなが笑って過ごせることは素晴らしいところです。でも――誰よりもそれを望んでいる貴方は、笑っていますか? そんな痛々しい笑顔じゃない、心からの笑みを浮かべているんですか?!」
「……皆が笑っていられるなら、それで俺は幸せだよ。それ以外は何もいらない」
答えになっていない答えを、彼は放つ。それは曖昧ながらも、決意の滲んだ、手遅れの答えだ。
彼の真意に気付いて、ファリエルは涙を流した。
自分の無力を嘆きながら、ここまで彼を追い込んでしまった自分を呪った。
「それじゃあ、行くよ。どこで戦闘が起こっているのか、教えてくれないかな」
ファリエルはその言葉に応えることなく顔を背けた。それに苦笑すると、レックスは彼女をすり抜けて祠の出口に向かう。
「さよなら、ファリエル。大好きだった」
祠から出ると、そこには一人の意外な人物が立っていた。
「メイメイさん」
「こんにちは、先生」
年中酔っている彼女にしては珍しく、今は酒が入っていないようだ。
彼女は見たこともない真剣な表情でレックスを見ると、口を開く。
「行くのね?」
「うん。終わらせてくるよ」
「そう」
やりとりはそれだけだ。レックスは一瞥するだけで、彼女の脇を通り抜ける。
「……遺跡よ。そこで、カイル達は無色の派閥と戦っているわ。先生が眠っている内に、連中を追い払うつもりだったみたいね」
「分かった。ありがとう」
心配を掛けたみたいだ、とレックスは内心で呟く。自分抜きでの戦闘それがどれほど無謀なことか、分からないはずもないだろうに。
「酒呑み仲間として一応聞くけど……また、一緒に呑めるかしら?」
「ごめん。無理そうだ」
「そう。じゃあ、達者でね」
それを最後に聞き、彼は遺跡に向かって走り出す。最後に彼女が呟いたみたいだったが、レックスの耳には届かなかった。
遺跡に辿りついて目にしたのは、膝を付いた仲間達だった。
一人残らず満身創痍。それもそのはずだ。人を殺すことに特化した集団相手に、生きているだけでも善戦したと言えるだろう。
「レックス……お前」
レックスの姿を目にしたカイルは、呆然とした様子でそう呟いた。
「ごめん、遅れた。あとは俺が一人でやるから――終わらせるから。皆は下がってて」
「馬鹿野郎! お前一人で出来るかよ!!」
そう怒鳴りながら、カイルは立ち上がろうとする。しかし、傷付けられた身体が痛むのか、悪態を吐くと再び膝を付いた。
「いいから、後は任せて。その代わり――アリーゼのことをよろしく」
「おい、それはどういう――」
カイルの言葉を最後まで聞かずに、彼は仲間達を背後に庇う。
顔は見ない。見たら、迷ってしまいそうだったから。
「あれ、先生じゃないか。どうしたの? 今更ここに来るなんてさ」
レックスの姿を見て、愉快げに笑みを浮かべた少年がいた。
イスラ=レヴィノス。彼を庇った友人の弟で、敵。
レックスは一瞬だけアズリアのことを思い出し、顔を歪めた。しかしそれも瞬きをする間に消え去る。
「戦いに来たんだ。今更だけどね」
「戦いに? ……あ、あはははははは! そうか。けどさ、先生。アンタに何が出来るんだい? 誰も傷付けたくないなんて綺麗事を言う、アンタにさ」
「――綺麗事は、もう終わりだ」
レックスの言葉に、イスラは眉を顰める。
「分かったよ。綺麗事で済ませられることには限界がある。君は正しかった。けどね……それでも、綺麗なままにしておきたいものもあるんだ。そのためにはお前達が邪魔なんだ。泥は僕が一人で被る。それで、全部丸く収まる。収まるんだ」
まるで自分に言い聞かせるよう、レックスはそう呟いた。
「へえ。先生にしては賢いことを言うね。じゃあ、見せてご覧よ。その決意をさ」
「ああ、見せてやる」
そう言い、レックスは碧の賢帝を手に取った。
覚醒する。剣から膨大な魔力が供給され、身体が作り替えられてゆく。
力が欲しいか――
ああ、欲しい。
ならば、我を継承せよ――
しよう。だから、一度だけ全ての力を貸してくれ。
笑顔を守れる力を。奪う者達を根絶やしに出来る力を。
……これを最後の戦いにしよう。
さようなら、皆。俺が全部持って行くから。
だから、笑顔でいてくれよ?
理性が燃え尽きる最後の瞬間、彼はそう願った。
そして彼の意識は、碧の賢帝が持つ破壊衝動と融合して変質する。
「ウオォォォォォォォォォッ!!」
白髪の魔人。その者が放った雄叫びが、遺跡を振るわせる。
カイル達を圧倒した暗殺者達は、その姿に身を震わせた。
獣に近い彼等だからなのだろう。圧倒的なまでの力の差を、本能で感じ取っていた。
「……っ、何をしている。行け!」
竦む暗殺者達を、リーダーであるヘイゼルが叱咤する。それに弾かれるように、彼等は伐剣者となったレックスに襲いかかった。
獲物を取り囲むように移動する彼等。徐々に間合いを詰め、飛び道具で隙を作ろうとする。
しかし、伐剣者はそれにかまうことはない。通常ならば視認することも難しいそれを、最低限の動きだけで避ける。
背後から一人の暗殺者が仕掛けてくる。それを空気の流れで読み取り、伐剣者は振り向きざまに暗殺者を一刀両断した。
骨を断ち切る鈍い音さえもしない。上がるのは空気を引き裂く鋭い音のみだ。それを開始の合図と取ったのか、伐剣者は死体が地面に墜ちるよりも早く次の獲物に飛び掛かった。
今までレックスが研鑽して来た太刀筋や戦い方など欠片もない、獣じみた挙動。だというのに、伐剣者の動きはその場に存在する者達と次元が違った。
過剰な魔力を注がれた魔剣は、一薙ぎされるごとに周囲に存在するものを薙ぎ払う。それだけで近くに存在していた敵は全滅した。
血走った目でヘイゼルを睨む。それを感じ取って、彼女は身を震わせた。およそ暗殺者らしくない反応。人間らしさを捨てた者が、恐怖に身を竦ませるなど有り得ないことだった。
ヘイゼル目掛けて伐剣者は突進する。腕と一体化した剣を振り上げると、目の前にいる女にそれを叩き付けた。
途中、リーダーを倒されることを阻止するためか邪魔が入ったが、伐剣者がそれにかまうことはなかった。銃撃も弓も、身体に傷を付けたところで一瞬後には治ってしまう。彼を止める術など、この場に存在しない。
大振りの斬撃はその進路を簡単に予測させる。ヘイゼルは瞬時にそれを見極めて、斬撃を回避した。
しかし、避けたのは斬撃だけで暴風のように吹き荒れる魔力を防ぐ術はない。それで体勢を崩した瞬間、彼女は伐剣者に首を掴まれた。
彼にそのつもりはなかっただろうが、それだけでヘイゼルの首は折れた。それに気付くと、伐剣者はつまらなそうに死体を打ち捨てて剣を一閃。実体化させた魔力の刃で、ヘイゼルだったものをバラバラにした。
「なんだ……これはどういうことだ。我はこんなもの、認めないぞ」
伐剣者の戦いようを見て、オルドレイクは畏怖と同時にそう呟く。
彼が従えてきた精鋭が、たった一匹の化け物に蹂躙される。その様子は、今まで絶対だと思っていた自分の力が嘘だったことを証明するのに充分だった。
「消え去るがいい!!」
言葉と同時に、召還術を発動させる。異界から呼び出す存在は鬼神の将。門から身を乗り出して現れた存在は、圧倒的な威圧感を持ち――
しかしそれすらも、伐剣者は魔力で碧の賢帝の刀身を延長し、それで一刀のも元に切り伏せる。
その光景はどう映ったのだろうか。敵も、そして、レックスの仲間達も、伐剣者に恐怖を感じた。
「……サモン、オーバードライブ」
お返しとばかりに、伐剣者が暴走召還を起動する。
それは、先程オルドレイクが放ったものと格の違うものだ。まだ発動せず、門すら生まれていない状態でもそれが理解出来た。
何が起こるのかなど、誰も分からない。ただ分かるのは、放たれようとしている召還術が完成したら自分達が根絶やしにされるということのみ。
しかし、それだけでも充分だった。暗殺者達も、オルドレイクの側近も、死に物狂いで抵抗をする。
光将の剣が身体を貫く。機械仕掛けの騎士が身体を灼く。巨大な岩石が身体を押し潰す。それでも、伐剣者の暴走召還は止まらない。
そして――
「ヴァルハラ」
呼び出した存在の真名と共に、その存在が顕現する。
門から姿を現したのは神々しささえ感じさせる機械だった。戦闘機と獣を一体化させたような、殲滅兵器。ヴァルハラは伐剣者から供給される魔力で思考回路を焼き切らせながら、敵とそうでないものを判別し、ロックする。
自壊さえ厭わない。そこまで高められた出力は、主砲を発射する寸前に機体を崩壊させ――
そして、放たれた光学兵器は、遺跡内部を白色に染め上げた。
遺跡の大部分と無色の派閥の者達を消失させ、ヴァルハラは爆散した。その中には伐剣者に力を供給していた核識の間も含まれている。
四散したヴァルハラの部品は、遺跡の残った部分を焼いている。その炎はレックスと仲間達を分断していた。
奇しくも、その光景は、越えてはいけない一線を越えたレックスと他の者達を表しているようだった。
流れ込んでくる魔力を失い、レックスの姿は元に戻る。しかし、その瞳は虚ろだ。外見は元に戻っていても、核識と一体化した精神は、その消失と共に崩壊していた。
「おい先生! 何やってるんだ!! 早くこっちに来い!!」
燃え落ちる遺跡の中で、カイルはそう叫ぶ。まだ心には怯えもあるだろう。しかし、それでも。彼はたった一人で汚れ役を引き受けた仲間を放っておくことなど出来なかった。
「そうだよ、先生! 戻って来てよ!!」
「センセ! こんなところで死ぬなんて、貴方らしくないわよ!!」
「戻って来て下さい、レックスさん!!」
それに弾かれるよう、仲間達はレックスを呼び戻そうと呼びかける。
それに反応したのか、レックスは仲間達の方を向き――
血で染まった顔に、満面の笑顔を浮かべた。
「ば――馬鹿野郎! なんで笑ってやがる!! お前、それでいいのかよ!! それでお前は満足なのかよ!! ふざけんな!!!」
その笑みを見て、カイルは思わずそう叫ぶ。しかし、レックスがそれに応えることはない。応えるために必要な心は、もう存在しない。
だというのに、彼は何故笑っているのだろうか。もしそれが彼が望を果たしたからであり、心が砕ける前に、これで笑顔が戻ってくるという安堵からのものだとしたら――それは、あまりにも酷い皮肉だった。
遺跡が本格的な崩壊を始める。それに焦り、カイルはレックスを連れ戻すべく炎の中に飛び込もうとしたが、仲間達に取り押さえられた。
召還術で火を消そうにも、無色の派閥との戦闘で魔力は底を着いている。為す術はない。彼等はそれを認め、表情に苦渋を浮かべながら遺跡の出口に向かった。
それでも、最後までカイルは仲間達に抵抗した。しかし――
落ちて来た鉱石が完全に彼等を分け隔てる。それで、カイルは絶望した。
「畜生……クソがぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
慟哭が遺跡に木霊する。仲間達も、顔を俯かせて無念を感じた。
不意に、彼等の横を通り抜ける影があった。それを見て、一人の女が声を上げる。
「ファリエル!?」
影は一瞬で鉱石をすり抜けていったが、その姿を見間違えるはずもない。自分の義妹である彼女を、アルディラが見逃すはずもなかった。
ファリエルがどういうつもりなのか。二人の関係を知っていた彼女は、すぐにそれを理解して、やるせなさに打ち拉がれた。
彼等はその場を後にする。
外に出てから数分も経たずに、遺跡は完全に崩壊した。
遺跡が崩壊する少し前。レックスの元に、ファリエルはいた。
彼女は、抱き締められない彼の身体を抱き締め、胸元に顔を埋めている。
「……お疲れ様でした。辛かった、ですよね」
その声に応えることはない。レックスは、ただ笑みを浮かべたまま虚空を見ている。
「馬鹿ですよ……それに、酷い。最後にあんなことを言って、さよならなんて」
燃える遺跡の中、ただファリエルはレックスに抱き付いている。
「……私まだ、さよならなんてしたくありません。最後まで貴方と、一緒にいますから。……うん。ずっと、一緒にいますからね。消えてなくなる、その時まで」
そう呟き、彼女は腕に一層力を込める。腕はレックスの身体をすり抜けるだけだったが、そうせずにはいられなかった。
不意に、レックスが腕を動かす。
心が砕けたというのに、彼はファリエルを抱き締めた。
「レックス……っ!」
ファリエルは泣き声を上げ、彼の名を呼ぶ。
そして――
全ての幕を引くかのように、鉱石が二人を押し潰した。
地図にも存在しない名もなき島。そこには、一つの言い伝えがある。
月の浮かぶ晩、かつて喚起の門があった遺跡の跡に、男女の幽霊が出るという。
その二人の幽霊は、悲しそうに、嬉しそうに寄り添いながら、月を眺めていると。
二人を邪魔する者はいない。
二人の笑顔を歪める者はない。
そららの全ては、男が全てを賭けて消し去ったからだ。
おそらくは、今日の晩にも、二人は姿を現すだろう。
決して二人を邪魔してはいけない。
微笑みの代価として受け取った幸せを、奪う権利など誰にもないのだから。
END