『志貴さまがなんとおっしゃられようと、翡翠には志貴さまが必要なのです』
独り立ちをする際は翡翠をお連れください、と、彼女が遠野志貴に懇願してから、およそ半年が経過した。
現在、志貴は遠野の家から離れていた。六畳の居室が二部屋、あとはキッチンと風呂場とお手洗いのみという、一人暮らし用のアパートに住んでいる。自分で生活費を稼いで暮らしを送る日々だ。
今日も仕事で、朝から出かけなければならなかった。出勤までの差し迫った時間を身に感じつつ、志貴は目の前に差し出された衣類を受け取り、身支度を進める。
ふと窓の外が気になり、ベランダにつるされた物干し竿を見た。
一人暮らしのための居住なのに、二人で住んでいる痕跡が、干された洗濯物の中にある。異性の衣服だ。さらに言えば、志貴に着替えを差し出したのは、彼を世話することに馴染みがある人物である。
「勤務開始まで24分です。本日は快晴ですので、職場まで5分で辿り着けるでしょう」
「ありがとう。でも、まいったな。さっきまで眠っていたのに、起きて、着替えて、朝食を食べ終えればもう仕事か」
全ての身支度を整えた志貴は、キッチンの隣に備わる玄関へ向かう。扉の脇で起立し、志貴を待ち構えていた翡翠が、柄のない紫色の布で包んだお弁当を彼に手渡した。
「志貴さまの帰宅をお待ちしております。行ってらっしゃいませ」
志貴は翡翠と一緒に暮らすことにした。翡翠は、望んで志貴についていった。二人で暮らし始めてから、多少の月日が経っているが、現在も仲は良好である。
いってらっしゃいの挨拶を志貴にした翡翠だが、扉の脇から動こうとしない。いかんせん一人暮らし用のアパートなので、慎ましげであっても、玄関の横にちょこんと立っていられると、それだけで外出できないほど狭い。
志貴が外に出られないことは翡翠自身も分かっている。加えて朝の時の流れは急降下する滝のようなものだ。どかなくては話にならないので、翡翠は志貴の顔をじーっと見つめ、瞳に焼きつかせると、そこを動いて彼の背後に立った。
そして、彼の背中にしなだれた。
「翡翠、このままじゃ、出られないんだけど」
「申し訳ございません。志貴さまの体温を感じたいのです」
彼の後ろにもたれかかる翡翠は、両腕を志貴の体の前へ回し、彼の腹にあてがう。両腕の肘を、それぞれ反対側の手で握り、彼を抱き締めた。
志貴の背中に翡翠の胸の感触が広がり、どぎまぎする。一方、翡翠はそれを気にせず、自分の腹部も、大腿も、彼に密着させる。より彼の体温を味わいたいからだ。
志貴の体は、翡翠の匂いと温かさでいっぱいになった。
「志貴さま、お太りになられましたね。遠野家の長男たるもの、自分の体の管理はしっかりとしなくてはなりません」
「うう、精進します」
「二週間前も同じような反省の弁を仰っておりましたが。進歩が見られないようです」
「あはは、面目ない。幸せ太りってことで……」
「幸せですか」
翡翠は頬を志貴の肩に預けた。本来なら彼女が背伸びをしても届かない箇所だが、志貴が彼女の背伸びから察して、膝を曲げて高さを調整するため、ぎりぎり届く。
洗濯したてであるYシャツの、絹とお日さまの感触が、翡翠の皮膚をくすぐる。翡翠は首をひねり、彼の肩の上で頬をごろごろと転がして、感触が一番気持ちいい場所を探っている。
そのうち彼女は、頬を当てていた箇所に唇をあてた。すぐあと、息をふっ、と吹き込んだ。唇の置かれたそこは、勢いよく膨れるが、すぐに活力を失い、しぼんでしまう。
志貴の肩の肌が、服を通して、翡翠の吐息にまみれた。ミントの爽やかな口臭も、伴って志貴の鼻腔に届く。くすぐったいが、翡翠の息の温かさは心を満たす効力があり、とても心地よい。志貴は後頭部に向けて腕を伸ばし、背後から抱きつく翡翠の頭を撫でて、首だけ彼女に振り返った。
翡翠は、志貴の肩に口を付けて息を吐くと、志貴がこうして自分の頭を撫でてくれることを知っていた。翡翠は満足げに目を細めて、肩から背中に顔を移して、強く顔を押し付けた。
志貴の肉体の硬さが直に感じられる場所である。翡翠は彼の硬さが好きだ。正確に言えば、好みというよりもある種の癖になっている。今もなお、彼を抱き締める力をさらに強めて、うずまった顔にかかる圧迫感を求めている。志貴も、翡翠の体の柔らかさをもっと享受できるので、まんざらではない。
二人で暮らすうちに、翡翠は以前よりも甘えるようになった。住み慣れた館から離れ、それによって訪れる寂しさのせいかもしれない。もしくは、館に勤めたときは抑圧されていた、彼に甘えたい感情が、タガが外れて溢れ出したのだろうか。
彼が家を出る寸でのところで、翡翠が志貴を求めて引き止めるのは、これが初めてではない。最初はひと月経ったある日だった。再度発生したのはそれから一週間後、今では毎日の日課である。
よって志貴は、時間に余裕をもちつつ支度を済ませ、玄関口で翡翠に背中を堪能してもらい、それから出勤するようにしているのだ。
ありがたいことに、翡翠は非常に行儀が良い。後ろ背全体が翡翠の体温に濡れて、これは服がべちゃべちゃだろうなと覚悟をしていても、触ってみると一切湿っていない。
また、元々遅刻癖のある志貴からすれば、これによって遅刻が直ったので、ある意味感謝しきりなのだ。
翡翠が志貴に寄りかかって、幾ばくか経過した頃だろうか。志貴の腹に巻かれた翡翠の腕から力がなくなり、するりと解かれた。
志貴が後ろを振り返って見やると、志貴から二歩ほど遠ざかった翡翠が居た。
「行ってらっしゃいませ、志貴さま」
「行ってくるよ。晩御飯、今日は俺が作るから」
「いえ、志貴さまのお手を煩わせるわけには参りません。翡翠めが準備させていただきます」
「いやあ。その、食べたいものがあるから自分で……。……そうだね、悪いけど、作っといてよ。はははは……」
戸惑い気味の志貴の態度を解せない翡翠である。基本的には聡い翡翠だが、料理の話題になったときに、きまって志貴が妙な反応を示すことに、理由を見いだせていない。
眉をしかめる。
志貴はアルミ製で防犯性の低いドアノブに手をかけ、回して扉を開いた。外は朝日で充満した、白い夏の景色が広がっていた。
志貴は翡翠のほうを向き、笑顔で手を振りながら、扉を閉めた。行ってしまった。
いつものことながら、翡翠にとって、主人の帰りを待ちわびる一日が始まった。屋敷で暮らしていたときは、さほど特別な感情は湧いてこなかった。なのに、二人暮らしが長くなった今、胸の奥が吊るされるようで苦しい翡翠である。
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[ある屋敷の一室]
「……何よ。何なのよ! 何でこうなってるのよ!!」
「分かんな~い! 私に分からないものが妹に分かるわけないでしょ?」
「あっれ~? 何でも知っている真祖さまが、どうして男女の機微すら分からないんですかぁ? 直射日光を浴びて脳でも溶けました?」
「分かんないもんは分かんないもん! シエルには分かるっていうの?」
「ええ~それはもちろん! ニ・ン・ゲ・ン様を代表しましてバッチリと!」
「じゃあどうしてここで燻ってるのよ。さっさと志貴をたぶらかしてくれば? シエルが志貴を奪ってくれればそのあと私が奪い返せるし!」
「何を~!? 遠野くんはずっとずっと、私の傍に居させますっ!」
「こんの……。黙って聞いていれば、人の兄を物扱いして、勝手に行き来させようとする悪い虫たち……」
我が当主の秋葉さまと来賓のお二人さまが、お屋敷の一室にて、アヤシ~イ水晶玉の周りを囲って、騒がしくも静かに鎮座なされております。
水晶玉には翡翠ちゃんと志貴さまの生活が映し出されているのですよ?
それに。よくよく周囲を見渡せば、部屋は黒色のカーテンで覆われており、太陽の光が完・全シャットアウト! 閉ざされています。
それどころかひとかけらの照明すらついていません、さながら暗黒空間ではないですか!
暗闇に浮かぶ水晶玉から放たれる、人の欲望を増幅させそうな紫の明かりが、今の三人の視界の全てなのです。ああ、なんて妖しい! 仮にも高貴で品のあるお三方が、湿っぽい黒魔術のような秘め事に首を突っ込んでいるとは!
「そもそも、これは私が琥珀に創らせた、私だけの遠視水晶なのに、どうしてあなたたちがいるのよ!?」
「まあまあいいじゃないですか? こういう便利なものは独占せず分け与えるべきですよ♪」
「そうよ妹! 同じ釜の飯を食う仲じゃない?」
「私はアンタなんかと一緒の釜で飯を食いたくないですけどね……」
「何を~! ツンデレの黄金比はツン9:デレ1でしょ! その発言はひどすぎよ。10:0じゃない!」
「10:0という概念すら突破するほどアンタにはツンしか見せませんけどね……」
「こんの~! シエルの分からず屋! 実力行使!」
「人の……。人の家へ無遠慮にあがりこんで、勝手に暴れ回って……! 許さ~ん!」
このお三方の相性は絶望的にマッチしているみたいですね。いつもいつも、来る日も飽きずにじゃれ合いを始める始末。共闘なんて夢のまた夢、日本で水鉄砲を打って水しぶきがブラジルに届いたら、やっと叶うかな? ぐらいの難易度です。あはっ♪
まあ~? 志貴さまが遠野の屋敷から再び出て行って、寂しい思いを募らせているのは私もですしね。
つまり! 志貴さまを独占したい気持ちは私にもあります。が、私"たち"は使用人でございます、分別はきちんとつけなければなりません!
おいたが過ぎたようですね~、翡翠ちゃん?
我が妹可愛さに、二人の旅立ちのお手伝いをした経緯はあります。されどもそれはそれ。遠野家になかなか顔を見せず、かれこれ半年もスイートを満喫するなんて! ずるい! 羨ましいです!
とはいえ秋葉さまほど、心焦がれている訳ではないのですけれど。秋葉さまは最早、志貴さまを愛していらっしゃいますからね。あんなことやコンナこと、やることはしっかりですもんね~。
我が当主の顔を立てるためにも! 二名のご来賓のご要望に応えるためにも! 翡翠ちゃんと志貴さまを屋敷に戻さなければなりませ~ん!
えいえいっ、お~!
「さ~今日は皆様にお集まりいただき、感謝、恐縮、雨あられでございます! これから『奪! 翡翠ちゃんと志貴さまを元の居場所に戻すぞ秘密計画』の内容を、説明させていただきます!」
「感激じゃないんだ?」
「秋葉さま! 今の私たちに、感激している余裕はありませんっ!」
「なるほど……。その通りです!」
「いいこと言うものね~! やるじゃん妹!」
「私がすごいの? 手柄横どりしちゃってごめんね、琥珀」
「燃えよ、三人!! ……と使用人一人」
「「「お~っ!」」」
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あとがき
甘甘スイート回4割:屋敷からの刺客回4割:突拍子のないギャグ回2割くらいの割合でやっていきます♡