昇った太陽の角度はまだ浅い。夜から早朝に移り変わったばかりの神戸の街には、いまだ人影は疎らだ。そんな静かな青白けた市街を、覆面パトカーの護衛を前後に受けながら、濃紺色のロングバンが走る。
その中にいるのは、五号湾岸線から辛くも生還した蔵馬たちだ。
運転を兵庫県警の公安刑事に任せ、後部座席に腰掛ける蔵馬は左右から寝息を立てるモモとアザミに寄り掛かられている。一度戦闘状態に入り、脳内麻薬を大量分泌し始めた義体は、いつまでも興奮状態を維持し続ける。
脳にオンオフ機能を刷り込むことも出来るが、薬の方がほんの少しだが負担が少なく、また薬品の恒常的な必需性をあえて作って、自らの地位を向上させんとした医療・薬理研究部門の政治工作によって、日本式の義体は薬物によるコントロールを採用しているのだ。
ただし鎮静薬物を摂ると、拮抗薬も同時に接種しなければ、強い眠気に襲われる。
いま二人には、拮抗薬は与えられていなかった。脳に強い負担を掛ける為、蔵馬は使用するのを普段から避けている。
両肩を涙に濡らされながら、蔵馬は手の内でカランビットナイフを、使い心地を確かめる様に弄んでいた。
幾度も血を吸ったナイフは綺麗に吹き拭われ、鏡のように朝日に照っている。その刀身に、チラリと、四人掛けシートの窓際に座る美希が映った。
つい先ほど目を覚ました美希は、神戸を眺めて、生きて帰れた実感を得ようとしていた。
見慣れた建物や、道、それらの風景は、銃火に彩られた非日常から、徐々に美希を日常へと引き戻していく。
神戸の中央市街地を抜けて、車窓は商業地区から住宅街へと移り変わる。
入った事のある喫茶店が見え、通った事のある路地が見え、周囲が自分との関わり合いが濃い物へなっていく。
角を曲がり、高級住宅街に入ってしばらくして、輸送車の群れは停車した。
「到着しました」
美希が見た窓の外。瑞々とした生垣に囲まれた庭には、江戸時代から根を張っているらしい赤松の木や、亡き祖母が植えて、今は庭師が手入れをしている草花の数々が茂っている。庭の松と同じくらい古い和風建築に、住みやすいよう所々に現代家屋が増築された屋敷。
四日ぶりの我が家があった。
運転席の公安刑事は振り向きもせず、ドアスイッチパネルを操作して後部座席のドアロックを解除する。降りろということだろう。
前にいた護衛車から降りてきた女性刑事が、ドアをノックする。
美希は蔵馬に指示を乞うように目を向けた。頷きで返され、次はその肩で眠るモモを見る。最後に挨拶したかったが、彼女らは一晩戦い抜いたのだ。起こすのは憚られた。
ドアが外から開かれ、刑事が出る様に促す。
従えば、それが別れになる。それくらい世間知らずの小娘にも理解できた。
たった数日の付き合いだが、十分すぎるほどに、住む世界の違いを思い知った。車を降りれば、もう関わることは二度と無いだろう。
モモやアザミや蔵馬がいるのは、日本社会の上辺を捲って捲って、最深部まで剥がし切ったところに蠢動する血生臭い世界だ。彼らは陽の光を浴びることなく、暗い血の池で揺蕩う存在だ。
普通に両親のまぐわいから生まれて、普通に学校に行って就職して結婚して、普通に病気か事故か運が良ければ老衰で死ぬ。
お天道様から顔を背ける必要などない人生を送るであろう、美希にとっては交錯するはず無かった人々。
これは美希が宝くじを当てるよりも確率の低い貧乏くじを引いた結果。
この国で上位百位以内の運の悪さを持った故の出会いだった。
会わずに済むなら、会わない方がいいのだろう。
交わらない二本の線が、偶然何かの拍子に一瞬重なったに過ぎない。
モモの顔を名残惜しそうに眺める美希の肩に、車外で待つ刑事が手を置いた。
半ば強引に、引っ張り出されるようにして外に出た美希は、
「……あの!」
刑事の手を払って、腫れた右足を庇いながら蔵馬に向き直った。そして背過ぎを伸ばし、深く、深く頭を下げる。
「ありがとうございました……!」
蔵馬はナイフを折り畳んでポケットに戻し、軽く手をひらひら振って、ナイフの替りに煙草を指に取る。
顔を上げた美希は、刑事に連れ添われて自宅の門へと向かう。
その後ろ姿を、煙草を吹かして眺めながら、モモが頭を乗せる右肩を揺さぶった。
「いつまでもたれてんだ」
「……気付いてましたか」
「涙が止まってる」
言われて、モモは蔵馬から起き上がると、目尻に残った涙跡をブレザーの裾で拭う。涙で潤った目で美希の背を追い、安心したように溜息を吐いた。
「挨拶くらいしてやれ」
「……何を言えばいいか分からなくて。それに、守るっていったのに結構怪我とかさせちゃいましたし。今になって少しばつが悪いです」
「……まあ、初めてにしては上手くやった方だ」
「初めてって、何がです?」
「護衛任務。お前民間人とちゃんと話したことすら、今まで無かっただろ」
「そうか……そうでした」
モモは何かに納得したように一人頷く。
「……気になるなら、一言だけでも声を掛けろ」
「……それは命令ですか?」
「バカ言え、そんなこと一々命令するか。自分で決めろ。それくらいの自由はある」
「……分かりました」
ほんの一瞬の迷いを見せ、しかしモモは車から降りることを選んだ。そして刑事の手を借りびっこを引いて歩く美希の後を追う。
「あの……」
背後から掛けられたモモの声に、美希は驚と嬉が入り混じった顔で振り返る。
義体が独りで来たことに、刑事は咎めるような視線をロングバンの蔵馬に向けるが、止めるなと釘を刺すような視線に逆に刺し貫かれ、一歩引いて待機の姿勢を取った。
「モモ……」
「あの、えーっと……ちゃんと護れなくて済みませんでした」
第一声の謝罪に、美希は咄嗟にそんなことない、と返しそうになる。
モモは全力で、会ったばかりの自分を助けてくれた。そして現に家に帰ってこれたのだ。謝る必要などない。
感情の奔流に押されて口から出てきそうになった言葉を、美希はふと差し込んだ思いつきで食い止めた。
もう二度と会えないのだ。だから、聞いておきたいことがあった。少し意地悪な物言いになるだろうが、そういう言い方が、今の自分たちにはちょうど良い気がした。
「……昨日訊いたよね。どうして私を護ろうとしてくれたの? 教えてくれたら……許してあげる」
任務だからとか、それが義体の役目だからとか、そういう答えを望んでの質問では無い。
それはモモにも分かっていた。そして、その問いに対する答えを、今は有している。
「……護りたかったんだと思います、美希さんの『人生』を」
「人生?」
「……もしも」
もしもの話なんて意味が無い。そう言う大人はとても多いが、しかし、モモはそうは思わない。今の自分以外が初めから義体と、人生を選べた人間とは「もしも」の意味が違うのだ。
「もしも、私が普通の女の子だったら、美希さんみたいに本物の制服を着て、学校に行っていたんでしょうね。友達と一緒に過ごして、授業が終わったらマクドナルドに寄ったりして……銃の撃ち方も知らない、撃つ必要も無い、そんな人生を送ったんだと思います」
義体は素材になった人間の年齢と、ほぼ同じ歳の容姿に作られる。高校生の美希とそう変わらない見た目のモモにも、何らかの理由で死に瀕して義体にされる前は、そういう日常を送っていたはずだ。だがそれは、今の自分とは関係の無い、他人の人生だ。
「美希さんは、私が……私たちが、取り溢してしまった人生なんです。だから、護れるなら護りたい……出来る限り、幸せでいて欲しい」
美希に声を掛けたのも、それが理由だ。
初めて一人で社会の表層に出て、そこには自分が失ってしまった『普通の人生』が溢れ返っていた。
その中で、不幸に浸った顔をして、独り頬杖をついていた美希が、モモは気に入らなかったのだ。自分が得られなかった幸福の中にいるのだから、そこにいる人たちには不幸でいて欲しくないというエゴイズム。
お前は幸福なはずなのに、どうしてそんな不幸せそうな顔をしているのだという、嫉妬に近い好奇心。
美希に近付いた理由は、きっとそんなところだろう。
「美希さん、どうか自分の『人生』に帰ってください」
――そして、もう二度とこちらに来ないで。
声に出さずに飲み込んだそれは、美希一人だけに向けての言葉では無く、表の世界に生きる全ての『人生』に対する、祈りだった。
「……分かった、帰る。モモ……本当にありがとうね」
モモの答えを聞いた美希は、再び深く頭を下げた。
「……そろそろ」
脇に控えていた刑事が、美希に促しの声を掛ける。
今度こそ屋敷の門をくぐろうとする美希に、モモもまだ聞いていない事があったのを思い出す。こちらが質問に答えたのだから、こちらからも一つくらいいいだろう。
「美希さん」
振り返るその顔にとびっきりの笑顔を向けて、モモは小首を傾げながら、細長い人差し指で自身を指差す。
「私の事、まだ怖いですか?」
「……うん、まだ少し」
「そうですか」
それを聞いて、モモは一歩、美希に歩み寄る。
「私、モモっていいます」
「それは知ってるよ」
また一歩分、間隔を詰める。
「東京の、奥多摩に住んでます」
「それも知ってる」
一歩、さらに重ねる。
「マクドナルドのハンバーガーが好きです」
「うん、知ってる」
そして二人の間には、あと一歩分の距離が残った。
「歳はまだ生後半年です」
「……それは知らなかった」
一瞬の沈黙、二人は同時にぷ、と吹き出し、そして声を上げて大笑いした。
朝の静寂に、笑い声が響き渡る。
笑いの波がようやく引いて、少女たちは腹を抑え、肩を上下させて息を整えながら、互いに笑顔を見せた。
「じゃあね」
「ええ、では」
そして同時に踵を返し、それぞれの居場所へと歩み出した。
●
屋敷の門を通った美希は、中央が深く擦り削れた庭の古い石畳を踏み締めながら、疲れと睡魔が鎌首をもたげてくるのを感じていた。家に帰ったという安心感が、いままでそれらを抑えつけていた緊張を解してしまったからだろう。
脇に付いてくる女性刑事が何か言っているが、あまり頭に入ってこない。ていうかどこまで付いてくるのだろう。護衛だと言っていたが、実際は自分が余計な事を話さないように見張っているのかもしれない。まあどうでもいい。話す気にはならない。話す相手もいないし。
祖父はまだ家に帰っていないと蔵馬から聞いた。
両親はどうしているだろう。無事だろうか。護衛を受けて家の中にいるかと考えたが、すぐに打ち消す。両親は日本に帰っても、二日三日で仕事に戻ってしまう。
自分が護衛を付けられ始めたのは昨日からの事なので、この事態が始まった時には、もう海外に飛び立ってしまっているだろう。襲ってきたのは日本の暴力団という事なので、むしろ国外にいる方が安全かもしれない。
クマも通れそうな大きな玄関に辿り着き、美希はいつもの癖で鍵を取ろうとポケットをまさぐる。
「鍵は開いています」
刑事にそう言われて、ドアノブを捻ると、確かに施錠は外されていた。
という事は、中に誰かいるのだろう。他の護衛の人だろうか。
扉をくぐった玄関の土間には、確かに普段より靴の数が明らかに多かった。隅っこの方に少しくたびれた黒い革靴が二人分、そして清楚なデザインのヒールと最高級メーカーのローファーがあった。見覚えのある靴だ。そう、両親が帰ってきた日に見た――。
美希は履物を蹴り飛ばすようにして脱ぎ、疲労も眠気も忘れてリビングへ駆けだした。
ドアを打ち壊さん勢いで押し開けると、その大音に、驚いた顔で振り返る二つの顔があった。ソファーに並んで座っていた両親は、憔悴した様子で、顔色は今まで見た中でも断トツで悪い。
「パパ……ママ……仕事は……?」
「行ける訳ないだろう……」
一睡もしていないのか、真っ赤に充血した目の下に濃い隈を作った父親は一旦立ち上がり、そしてすぐに気が抜けたのか、ソファーへ倒れ込むようにして戻った。
「……美希ちゃん」
「……ママ」
一方母親は、涙で腫らした目からまた雫を溢し、よろよろと覚束ない足取りで近付いてくる。そして手前で倒れかけた母の身体を両腕で受け止めて、数年ぶりの懐かしい香りを嗅ぐ。両親が帰ってくるたびに家の中に満ちていた、柔らかな香水の匂い。母の香りだった。
「良かった……良かったよぉ……」
いつもは物静かで、冷めた印象すらある母が、まるで幼子のように泣きじゃくっている。見ている方が冷静になってくる泣きっぷり。美希は母の背を撫でようと腕を回した、その時、逆に彼女の頭を母は優しく、力強く抱きしめた。
いつ振りかの抱擁。物心ついた時にはもう無かったかもしれない、その感触は、確かな懐かしさがあり、帰ってきたのだと、美希が本当の意味で実感させるには十分なものだった。
「ママ……ごめん……ただいま……!」
親子で大号泣しながら、ただいまとおかえりを繰り返し、こうして美希は、ようやく自分の『人生』に戻る事が出来たのだった。
●
クリスマスイブを迎えた日本の朝は、五号湾岸線で起こった銃撃戦の話題で持ちきりだった。ニュース番組、インターネット、新聞紙、あらゆるメディアで取り上げられたその事件は、『海外マフィアと日本の暴力団による抗争』として報じられ、世間もそれを事実として受け入れ、あるいは懐疑的であっても、隠された真実の全貌に気付く者は皆無に近い。
大阪の街に、その真実を手繰り寄せた者が数少ないうちの一人いた。
西成あいりん地区の公園、煩雑さに満ちたその場所。ある者は錆びた一斗缶を火鉢に廃材を燃やして暖を取り、ある者は毛布に包まり、石になろうとする様に微動だにしない。そんな浮浪者の群れに混じった、一人の男だ。
公園の隅にある縁石に腰を掛けたその男は、四十歳を超えたかというくらいの顔相で、総髪を一つに縛り、綿が固まり薄くなった半纏を二重に重ね着ている。
いつ雪が降り始めてもおかしくない寒気の中では心許ない防寒措置だが、男は寒がるどころか、むしろこの公園にいる誰よりも元気なくらいだった。瞳には熱があり、全ての事柄を楽しんでいる節すらある。この町にはあまりいないタイプの男だった。
昨今起こった一連の真実を知っているこの男は、しかし知っているからと言って何をする訳でもなく、ベニヤ板にマジックで線を引いたお手製の将棋盤と駒を使って呑気に遊んでいた。
「そうか……大変だったなぁ……何か力になれればいいが……そうだ、これあげよう」
感心したように腕を組み、ウンウンと頷く男は、半転のポケットから黒飴を対局相手に差し出した。
受け取ったのは、元の駒は紛失したのか、平べったい小石に『歩』と書かれた即席駒を指に挟む、またこの街では浮きに浮く、いまだ子供の色が抜けきらない少女――楊一花だった。
「ありがとうございます……おじさん良い人……!」
古着屋から七百円で買った男物の黒いダウンコートで身をすっぽり隠した一花は、疲労の蓄積した顔に笑顔を咲かせ、コロコロと舌の上に黒飴を転がした。
実に二日ぶりの食事だ。空腹に耐えきれず口にした雑草は苦すぎて吐き出したのでカウントしない。
「甘い……美味しい……」
一昨日関東から逃げ出した一花は徒歩とヒッチハイクを繰り返し、今朝大阪にやって来たのだ。大阪だとこのあいりん地区が何でも安くて住みやすいと、ヒッチハイクで乗せてくれた変な格好をしたおばさんが教えてくれたのだが、いざ来てみると道行く人はジロジロこちらを見てくるし、一昨日の一件で培ったヤクザセンサーに反応する人もいっぱいいるしで、恐々としていた。
ともかく宿を探そうにも疲労困憊して、一先ず休憩しようとこの公園の縁石に尻を置いた時、飴をくれたおじさんに声を掛けられ、それから数時間の間、将棋を打ち続けている。
寒いしかっ怠いなぁと思いつつ、勝てたらご飯を奢ってくれるというので勝負を受けたが、このおじさんがまた強く、なかなか勝たせて貰えない。
そして続く対局の合間に、沈黙を持て余したのか、おじさんの乞うままにこの街に至った経緯を語り終えたところだった。
「日本に来てまだ三ヶ月だったか。それにしては日本語上手いな。訛りも無い。どこで習ったんだい?」
「辞書で覚えました」
「……辞書だけ?」
「そうですけど……訛りは、結構苦戦しましたけど、でもここ数日でやっと直りました」
「だが、学校には行っていないんだろう? 字はどこで?」
「もー、おじさんったらバカにして。字なんてわざわざ学校に行かなくたって、一度見たら覚えられるでしょ?」
それを聞いて、男はとびっきりのオモチャを与えられた子供のような笑みを浮かべた。
その破顔に首を傾けながら、一花は石の将棋駒を盤に置く。
男は即座に次の一手を打ち、そして一瞬で顔から笑みを消す。
同時に男が纏う空気が変わった。ぐにゃりと曲がったような、ぐるりと渦まくような、大よそ人が出すような質では無い空気。身を委ねたくなるような、圧倒的な力に満ち満ちた、そんな空気。
「……おじさん?」
「……君は……」
その言葉が終わる前に、男の放つ空気は出てきた時と同様に、唐突に霧散した。
そして一花から脇の方に首を巡らせる。一花も釣られて目を向けると、そこには赤い紙袋を手に持ち、小奇麗なコートにスーツを着た、若いのか歳を食っているのかよく分からない不思議な容姿の男がいた。
「……悪いが、勝負はここまでだ。ご飯は奢ってやれない……まあ俺が負けることなんてないんだが……ともかく代わりにこれをあげよう。餞別だよ」
何も言わずに盤面を覗き込むコートの男を無視して、黒飴の入っていたポケットからキーホルダーが付いた鍵を出した。一花は飴と同じように受け取る。
「何の鍵ですか?」
「俺が泊まっているホテルの鍵だ。あと四十八日は泊まれるようにしてある。それで許してくれ」
「い、いいんですか?」
「いいとも。……俺はもうそこには帰らないからな」
「あ……ありがとうございます!」
鍵を大切そうに懐に仕舞い、一花は荷物を担いで縁石から立ち上がり、大きく一礼して公園から出て行った。その姿を見送りながら、男は面白くなさそうに言う。
「可愛い女の子との時間を邪魔しないでくれるか」
「あんな貧乏臭い女が好みか、御堂」
「貧しくとも花は花だ」
そう言って髪の伸びた頭を掻いてから、半纏の懐に手を突っ込み、御堂文昭は一笑した。
「何の用だ」
「そろそろ働いてくれないか。君に渡すものもある」
スーツの男――李明は一花がいた対面に腰を下ろし、盤面を見下ろしながら尋ねる。
「いつから大阪にいた?」
「一週間前。しばらく滞在するつもりだったんだが、そうもいかなくなった。誰かが無駄に派手な騒ぎを引き起こしてくれたお陰でな。……多少の予定外があったが、おおむね順調ってところか。お疲れ様」
御堂は黒飴を差し出す。
李明が大玉の飴を口に放り込んだのを見て、御堂は半纏の中から今朝の朝刊を出した。大見出しには湾岸線の記事。しかし御堂はその一面には触れず、株式欄の一角を指した。
「西京重工の株価が急に上がっている。しかし何か情報開示がされたわけでは無い。つまり、開示されていないが美味しい情報が、株式ディーラーの一部で広がったんだろうな。例えば――」
御堂は国際面に指を滑らせる。そこには既に日常風景になりつつある、中国国籍船舶による日本領海の侵犯の記事があった。
「西京重工が新兵器の生産を受注した、とか」
「……お見通しか」
李明の歯が、固い黒飴を粉々に噛み砕いた。
「断片的な情報を組み立てていくのが好きでね。推理の答え合わせをしてもいいか?」
どうぞ、と両手を広げて促す李明に、御堂は話を続ける。
「お前が欲しかったのは、開発中の空対艦ミサイル、XASM-3の開発データだろう。海洋進出が国是の中国にとって、その脅威となる対艦兵器の情報は何としてでも入手しなければならない。つまりお前の仕事だな。
しかし、ミサイル開発のデータは一昔前ならいざ知らず、現政権においては秘中の秘。この国で最も警備が分厚いブラックボックスの中にある。毛の先ほどの隙間も無い。だが、その完璧な警備が、一度だけ解かれる瞬間がある」
厳重な金庫に保管されている物を盗み出すのは容易ではない。金庫をこじ開ける労力を費やしているうちに、その金庫の管理人に見つかるかもしれない。そもそも開けられるかどうかも分からない。しかし、金庫の中身はどうしても盗み出さなければならない。ならどうするか。
「一昨日から昨夜に掛けて、防衛省技術研究本部と西京重工の防衛事業部の極秘会議があったな」
金庫をこじ開けられないなら、管理人が正当な手続きを踏んで開くのを待てばいいのだ。
古い金庫から新しい金庫に中身を移す、その瞬間を狙えばいい。
「もちろん会議の警備も厳重だ。優秀な警備責任者が、長い時間をかけて緻密に組み上げた警備計画。恐らく金庫の中にあった時とそう変わらない、不可侵の防衛線が張られていたはずだ。だから、その警備計画を変更させた」
そこまで言って、御堂は新聞の一面に戻った。
「この戦闘、ヤクザ同士のじゃれ合いなんかじゃない。たった一台のベンツに、雑魚チンピラとは言え銃器で装備した連中……大柳組の組員が乗った、十四台の即席機動部隊が全滅させられたんだ。そしてベンツには西京重工業防衛営業部、その統括責任者である斎藤孝三の孫娘が乗っていたそうだな。
昨日の発砲事件があった新幹線にも、その孫娘が乗車した記録がある。報道はされなかったがタクシーと乗用車の衝突事故、新大阪の近くであった発砲事件、両方の現場近くでも目撃されている。ここ数日関西で起こった事件、全部この子が中心にいた。
だが、本当の中心はこの娘では無い。祖父の斎藤孝三でも無い。お前が標的にしていたのは、会議の警備計画だ」
警備は精緻で複雑なシステムで織り成され、難攻不落、蟻穴の一本も許さない、盤石の防壁で会議とその参加者、そして持ち出された開発データを護っていた。
李明はそこに、参加者の身内を襲うという一石を投じたのだ。参加者の身内が何らかの攻撃を受ければ、当然参加者に警備を追加する必要が出てくる。
しかし、取り行われているのはごく一部の者のみが参加を許された極秘会議だ。警備を増員しようにも、投入できる人員には限りがある。結果として、使えるのは元々配備されていた会議の警備担当者のみとなり、警備計画は否応にも変更せざるを得なくなった。
完璧だった計画に、ほんの少しの亀裂が生じる。隙間さえ出来れば、あとは身を滑り込ませ、大事に護られていた金庫の中身を掻っ攫うだけだ。
「しかし、作戦は良くても実行部隊は未熟だな。どうしてあんなチンピラを使ったんだ」
「そこが誤算だった。あいつらがあそこまで無能だとは思わなかったし、娘の護衛があんな規格外の化け物だったのも想定外だ」
「護衛、な……」
「結局、欲しかったデータも半分しか手に入らなかった。寸前で警備員が急増した。あれは私の作戦が誰かにバレたな。大柳がもう少しスマートに娘っ子を拉致してくれていたら、そもそも警護がつく事も無く事が進められたはずだったんだが」
「それは災難だったな。次からは費用をケチらずプロを雇え」
「そうしよう。ただ、もう一つの目的も半分は果たせた。半分と半分で、ギリギリ黒字だ」
李明はようやく将棋盤から顔を上げ、手に持っていた赤い紙袋から、肉まんを御堂に渡す。
「ケチの癖に気前がいいな」
「泡く銭だ。さっき賭けで勝った」
「お前賭け事とかするのか」
「当然だ、中国人だぞ」
李明は白い蒸気が香りと共に立ち上る肉まんを頬張り、御堂もそれに続く。二人はしばらく黙って咀嚼し、半分ほど嚥下した頃に御堂が口を開く。
「……どんな賭けだ?」
「ん? 头泛子……日本語に直すと人間ブイと言えばいいか。端に重りを付けたロープを用意して、浮きになる奴の脚に結ぶんだ。あとはそいつを海に放り込む。ロープは水深とだいたい同じ長さに調節してあるから、浮き役は海面に顔がギリギリ出るところまでしか浮けない。鯉みたいに口をパクパクさせたり、時々波に飲まれガボガボ言うのを見て笑った後、決めた時間まで放置して、まだ顔が出てるかどうかを賭ける」
「どっちに賭けたんだ?」
「俺はその時に使ったロープの長さが、引き潮の時の水深だって知っていたんだ。だから勝てた」
「小狡いやつだ……ちなみに規定時間は?」
「来年まで」
「すぐだな。優しいね」
御堂は肉まんを飲み込み、手に付いた油を小汚い風貌とはチグハグな最高級ブランドのハンカチで拭う。
「もう一つの目的ってなんだ」
「ああ、ついでだから新設の諜報組織も探ってやろうと、ちょっと尻尾を垂らしてやった。見事に食い付いてきたよ」
李明は不味いと呟き、赤い紙袋を中身ごと放り捨てた。そこに、いつの間にか集まってきていたふてぶてしい顔をした三匹の野良犬が飛びついた。残飯を貪る獣の忙しく動く尻尾を眺めながら、李明は陰のある笑みを浮かべる。
「不入虎口、焉得虎子。虎の子を獲りに来たつもりだったのだろうが、そこには虎がいることを忘れてもらっては困る」
「しかし半分は失敗した」
「だから、連中があんなに強かったのも予想外だった。お前もダムで会ったんだろう? あの化け物どもに」
「……ああ」
御堂は情報屋から買った、ベンツの中身を映した防犯カメラの写真を思い出す。荒い画だったが、そこには見覚えのある少女が二人映っていた。人間を超えた能力を持った、人の姿をした化け物。虎の子を獲りに来たのも、同じく虎だったという事だ。あれが一体何だったのか、御堂ですらその正体を掴みかねている。
ただ一つ明確なのは、あれが御堂の敵であるという事だ。
今はそれでいい。じっくりと、本性を見極めていけばいい。
きっと彼女らとは長い付き合いになる。そしてこれからの計画の、最大の障壁になる。
そういう予感が、御堂の中にはあった。
「…………そろそろ、会いに行ってやるか」
●
東京、奥多摩の夜は地上に闇が満ち、対して天空は幾千の星々が青白く輝いている。
国立児童社会復帰センター本部棟の屋上の縁に立って、坂崎は広い敷地と周囲を囲む森林、それらを飲み込む暗黒を見下ろしていた。存在の秘匿性から衛星や航空機に見つからぬよう、センター内は基本、夜間に照明光を外部に漏らすことが法度とされている。全ての窓には遮光カーテンが掛けられ、外灯も最低限のみしか設置されていない。
黒一色の世界の中、坂崎の口元に灯る煙草の火だけが赤い。
「――おや」
出入り口から声があった。階下から上がってきたレナードが、屋上に先客がいることにまず驚き、そしてその煙草の主が坂崎だと気付いたらしい。
時刻はとっくに丑三つ時を経過している。いくら不眠不休で動き続ける政府機関とは言え、この時間になると夜間勤務の人間と、時間の感覚が狂っている研究員の類がちらほら徘徊する程度だ。まして年の瀬迫るこの季節。深夜の奥多摩は下手すれば凍死出来るほど寒い。煙草を吸うにしても、もう少し居心地の良い場所があるだろう。とは言えレナード自身、わざわざこんな場所を選んで煙草を吸いに来た。人のことをとやかく言える立場にはない。
坂崎の隣に立ち、レナードはアルミ柵にもたれ掛かって煙草を咥える。そしてライターを忘れたことに内心舌打ちを打った。
「こんばんは、ミス坂崎。煙草を吸いなさるんですね」
「たまには、吸いたくなる時もあります。こんな仕事ですからね」
「俺もね、気分転換したくなると、ここに来て吸うんです」
「ええ、存じています」
口の煙草を指に挟み、坂崎は微笑み返す。
「お忙しそうですね、ガルシアさん」
「ええ、蔵馬のやつが大阪で先にクリスマスパーティーを始めやがりましてね。クラッカーの音があまりにも煩いってんで通報が掛かって、大阪の支局員と公安は事態の収拾にてんてこ舞いだ」
「あの人はトラブル体質と言うか、映画の主人公並みに何故か状況がどんどんと悪くなっていく星の下に生まれていますからね」
坂崎は特に面白くもなさそうに笑い、煙草の煙を呑む。
「大柳組は組員のほとんどが蔵馬さん達に殺され、組長の大柳は大阪湾で水死体となって発見。防衛省と西京重工の会議にも工作員に入り込まれて、少し情報を盗まれはしましたが、辛うじて最重要事項の保護には成功。これで一連の事件はひとまず終結。そんな感じですかね」
「そんな感じでしょう」
「そんな感じじゃないでしょう」
唐突に、気温が十度は下がった感覚。
レナードは屋上に殺気が満ち始めたのを肌に感じた。ドライアイスで皮膚を焦がされているようなヒリヒリした緊張に、部隊を隠していたのかと周囲の気配を探るが、屋上には坂崎以外にはいない。
日本人の中でも特に大きい方では無い、一見どころか毛先から爪先まで観察しても特質すべき点など見当たらない、ただの小娘から、一部隊分に相当する膨大な殺気が放たれているのだ。
「これがモモちゃんのコートの襟裏に付いていたのですが、見覚えはありますか?」
坂崎は十円玉サイズの黒い円盤を親指で弾き、レナードの胸に打ち付けた。
「発信機のようですな。一体誰が取りつけたのやら」
床に落ちた発信機を、坂崎はヒールの踵で踏み潰した。
同時に屋上に渦まく殺気が一層濃くなる。ここまで来ると、額に銃口を押し付けているのとそう変わらない。
「今回の件、中国情報部が絡んでいると諜報部に報告しましたが、その情報が揉み消されていました。道理でやけに非協力的なわけです」
「事務上の不手際ですかね? 部内に注意勧告を出しておきましょう」
さらに殺気が濃くなり、言葉の一つ一つに殺意が籠っているようだった。
「…………貴方……一昨日から随分と忙しそうでしたね? どなたと頻繁に連絡を取っていたんですか?」
「それは守秘義務半分、プライベートが半分の理由で言えませんね。今夜クリスマスディナーに付き合ってくれるなら、プライベートな方はお話しても構いませんが」
瞬間、レナードは自分の身体がぐっと下に引っ張られたのを感じた。
坂崎がネクタイを掴み、引いたのだ。レナードは思わず腰を折る。
目の前に坂崎の眼鏡面が来た。少し首を伸ばせばキス出来そうなほどに近い。しかし彼女に咥えられた煙草が、あと一寸動けば右眼を焼き潰す位置にあっては、これ以上近付く気にはなれなかった。
眼鏡越しに交錯した視線。
レナードの鳶色の目を覗き込む坂崎の目は、夜の闇より深く、暗く、冷たく、殺気が染み出る虚ろな穴としてぽっかり開いていた。
「………………二度目はありませんよ?」
何か一言でも余計な事を言えば、そのまま目を躊躇なく焼いてきそうな声だった。
薄桃色の唇が紡いだ言葉は普段の朗らかな明るい声からは、比べようもないほどに重々しい。聞いた者に有無も言わせない、心を抉り刺すような凄味があった。
そしてレナードが何かを言う前に、ネクタイから手を放した坂崎は、咥え煙草を指に持ち、火の点いていないレナードの煙草に近付ける。
「どうぞ」
「……どうも」
レナードは煙草を燃やし、煙を吐く。
坂崎はそれを見て、いつも通りに見える笑顔で頷き、煙草を屋上から下界に放った。赤い光が闇に飲まれて、そして消えた。
レナードがその軌跡を目で追い、次に坂崎に戻した時には、すでに屋上には彼一人になっていた。
空気中に滞留していた殺気もすっかり消失し、レナードの喉から思わず気の抜けた息が出る。
とんでもない女だ。仕事柄、色々とぶっ飛んだ人間と幾度も出会ってきたが、あれほど恐ろしい女は初めて見た。さすがは三十にも満たない歳で、警察に自衛隊にその他公安組織からはみ出た一癖二癖もある職員と、義体を預かる作戦部の現場指揮官を任されるだけはある。
恐ろしいのと同時に、つい従いたくなるカリスマも備えている。少ない情報から状況を正しく導き出す知性もある。しかも美人だ。なるほど、確かに彼女をトップに据えれば現場の士気は上がる。
「やれやれ、堪らんぜ」
レナードは楽しそうに笑って煙を吐き、携帯電話を取り出した。
番号をプッシュし、そして英語で話し始める。
「課長? 俺です、ええ、大丈夫です。もうこれきりにしてくださいよ。貴方の個人的な貸しを返すために、こっちの寿命が十年は縮んだ。怖すぎてアソコまで縮んでしまってる。クリスマスだってのに、これじゃ今夜は勃たないかも……これは貸しですからね。
まったく、貴方もそろそろ彼方此方に貸しを作るのを止めた方がいい。死ぬまでに返し切れませんよ。……ええ、諜報部のほうはあらかた揉み消しました。作戦部には関与が知られましたが、まあ問題ありません。彼女も、我々の協力なくして、センターの存続が無いことを理解しています。だから気付いても見逃したんでしょう。
……蔵馬ですか? 勿論生きてますよ。こんな事で死ぬ訳がない。あいつもそりゃ気付いてるでしょうよ。……大丈夫ですって。全て納得済みです。今でこそ少し日本かぶれになっていても、アイツの本性は愛国者だ。我々が……自分がどういう存在なのか、身を持って理解しているはずですよ。
――我々は世界で最も強く、最も狡く、そして最も自由……それがアメリカ合衆国中央情報局だ」