突然だが、俺は気が付けば谷底に居た。
急とも緩やかとも言えないちょっと中途半端な斜面の行き着く先。
「いててて」
見えるのは木々の間から覗く青い空に白い雲。
全身に力を入れどこか負傷していないか確認した後に立ち上がって気が付いたのは、自分の服が土まみれになって所々破れてしまっていた事。
『THE NORTH FACE』の新作で高かったのに……
溜息をついて視線を上げた先には、どこまでも続くかのような錯覚を与えてくる森。
ここは、俺のご先祖様がとある大名から預けられたと言う伝承の残る土地。
祖父が管理するこの場所は、明治以降これまで一切人の手を入れた事が無いと言う。
広さは東京ドーム2つ分はあるらしい。
子供の時には頻繁に入り込んでは祖父に怒られていたらしいが、生憎覚えていない。
と言うのも、小学生低学年の時に引越しをして以来、一度も祖父の家に来た事が無いのだから。
正月等には祖父が家に来ていたし、祖父と両親の仲が悪かった覚えは無いし、ただ来る機会が無かったのだと思う。
「上がるのは無理か……」
高さはさほど無さそうだけど、雨に濡れた土は滑りやすく上がるのに苦労しそう。
仕方なく溜息を一つ吐くと、ゆっくりととりあえずは来た方向へと歩き始めたのだった。
『古き約束 ~指切り~』
「こら、待たんか!」
「いってきまーす!!」
ランドセルを部屋に投げ込むと、そのまま裏山に走り出す。
手にはいつもの探検装備を入れたポーチ。
ポーチと言ってもおじいちゃん特製の大きな物で、中身はライトに縄に手袋にお菓子にマッチと小振りのナイフ。
おじいちゃんの声はいつもの事。
「宿題は帰ってきてからやるよー」
そう言い残して、山の中へと走っていく。
「言いつけは守るんだぞ!」
「はぁい!」
後ろから聞こえてくる声に、振り返る事無く手を振って返事を返す。
「やれやれ、わんぱくなものだ。ま、子供なら仕方が無いかの」
苦笑する声が聞こえたような気がしたけど、止まることなく走って行く。
なぜなら、そこは宝の山だから。
秋に入りかけのこの時期、山には美味しい物が一杯ある。
あけび・かき・栗・きのこ等々。
きのこはおじいちゃんに見て貰ってからじゃないと食べてはいけないと言われている。
一度破ったときには、酷い目に遭ってさらにおじいちゃんにとことん怒られたから、二度とやら無いと決めている。
ほかにも、この山には景色のいい場所や川魚の居る場所があって、色々と楽しみは多い。
今日は何をしようかと悩みながら、山道を走っていく。
その道が尽きる先に、一つの祠がおかれている。
「今日もお邪魔します」
祠の前で足を止めて、手を合わせて一礼。
これはおじいちゃんの言いつけの一つ。
山に入るときは、必ずこの祠に手を合わせて一礼する事。
出る時は、収穫した物の一部をお供えする事。
僕にはなんでそんな事をするのか良く分かってないけど、大事な事なんだってのは良く分かる。
おじいちゃんとの約束だし、破るつもりはまったく無い。
一礼を終えた僕は、右手にある竹やぶの方へと入っていく。
今日はその奥にある栗を拾うのと、やや高めの所にあるある物を取りに行くのが目的。
昨日の夜におじいちゃんと見ていたTVの旅番組で美味しいって言ってた物。
以前見つけた事があるから、そんなに難しくないはず。
後から思えば、かなり無計画だったと思うけど、今の僕はそんな事になるとは思っても居なかった。
「あったあった」
栗の実は前から目をつけていた通りに、良い頃合。
木をゆすって落ちてきたのだけを採る。
すでに落ちてしまったものは手を出さないと言うのもおじいちゃんからの言いつけ。
それでも収穫はたくさんある。
とりあえずポーチに半分ぐらいになった所で、次の目的地へ。
ここから頂上に向かっていく途中にある赤松の林。
そこにはマツタケがある。
おじいちゃん曰く、キノコの王様。
去年それと知らずに持って行った時は、とても喜んでくれた。
だから、今年も持って行きたい。
そんな事を考えて歩いていたのが悪かったんだとおもう。
「あっ!」
濡れた土に足を滑らせた僕は、気が付けばそのままズルズルと下に向かって滑り落ちていく。
凹凸の少ない斜面と、前日に降った雨。
かなり滑りやすい条件が揃っているそこは、どうにもとまらない。
と、気が付けばとんでもない物が目に入ってきた。
赤と白の紐が結ばれたた木々。
『その中へは入ってはいけない』
おじいちゃんから言われた言葉が脳裏を横切ったけど、どうにもしようがない。
「え、あ、やばいやばいやばい!!!!」
その帯を過ぎてすぐに目の前に現れたのは、絶壁とも言えるような斜面。
叫んでも何も変わる訳もなく、僕はそこへと突っ込んで行ったのだった。
「ん、あ、あれ?」
気を失っていたのか、僕が目を覚ました僕が見たのは真っ暗な空と綺麗な星。
腰につけたポーチに手を伸ばすと、ライトを取り出してつけてみた。
「……どこ?」
入ってはいけないと言われた場所だけあって、周りをみてもまったく見覚えがない。
体のほうはちょっと足が痛いぐらいで、擦り傷程度。
とにかく立とうとした時だった。
「あ、あれ?」
左足に感覚がない。
立とうとしても、どうやって立てばいいのか分からなくなったみたいに立てない。
それが分かった途端に、急に心細くなってきた。
「ど、どうしよう……」
ライトをあちこちに向けるものの、照らし出されるのは木々ばかり。
今にも木の後ろから何かが顔を出しそうな気がして仕方が無い。
「おじいちゃーん! おとうさーん!」
叫んでも、何も帰ってこない。
「おじいちゃーん! おとうさーん!」
聞こえてくるのは、虫の鳴き声だけ。
「おじいちゃーん! おとうさーん!」
僕の声に驚いたのか、虫の音が止まって、何も聞こえなくなった。
……怖い。
………怖い。
…………怖い。
暗闇がこんなにも怖いと思ったのは、初めてだった。
「呱呱呱呱、珍しい事もある物だね」
「だ、だれ?!」
突然声をかけられた僕は、慌てて四方を振り向いたけど、誰も居ない。
お母さんの声よりも若い人のような気がする。
しいて言えば、新しく入ってきた先生と同じくらいの気がする。
「人の子がここに来るなんて、何年ぶりの事かの。そなた、名はなんと申す」
「だれなの?!」
姿の無い声に、おじいちゃんに聞いた色々な怪談にでてきた妖怪とか幽霊とかが一瞬頭をよぎる。
「落ち着つかんか、怖いかえ?」
「う、うん…… だって、姿が見えないんだもん」
「ふむ、なら一つ約束しよう。名を名乗れば姿を見せよう」
「ほ、ほんと?」
「嘘は言わん」
名前に拘るのは、何か理由があるんだろうけど、それが何か分からない。
それに、今の状態では助けてくれるのはこの人しか居ないと思うと、名前ぐらいって気もする。
「ぼ、僕は、道也(みちなり)」
「ほう、良い名だな」
「あ、ありがとうございます」
「わらわは清姫じゃ」
「清姫さん?」
声のする方に光を向けても、誰も居ない。
もしかして、お化けなんじゃと思った時だった。
「こら、そう光を向けるでない。眩しいではないか」
「あ、ご、ごめんなさい」
「それと、わらわを見たいなら、もっと下を照らす事じゃ」
下?
「じゃ、じゃあ向けてもいいですか?」
「構わぬ」
断りを入れてから向けると、そこに居たのは……
「へ、蛇?」
「蛇は嫌いかえ?」
「う、ううん……」
確かに僕は蛇は苦手じゃない。
山じゃ良く会うし、こっちが悪さをしなければ相手も何もしてこない。
でも、これはちょっと違う。
なぜなら、どうみてもこれまで見たことのある『蛇』に比べて何倍も長いし、真っ白だから。
でも、正直に言えば僕はもっと違う事に目を奪われていた。
ライトに照らされた鱗の一つ一つが、どんな物よりも綺麗に光っている。
お母さんがつけていた指輪の石よりも綺麗で、それがライトの光できらきらと輝いていた。
「綺麗……」
「そうかえ?」
「……うん」
「つまらぬことを聞くが、どこら辺が綺麗じゃ?」
「えっ? えっと、鱗が? その、お星さまとか宝石よりも凄い綺麗だから」
「ほぉ、ほぉ。うむ、坊主は見る目があるな」
思わず見とれてしまった僕に、清姫さんがしばらくして声をかけてきた。
「ところで坊主よ、なぜここに居る?」
「え、あ、うん、足を滑らせちゃって、気が付いたらここに居たの」
「ふむ、それは災難よのう…… 歩けぬのかえ?」
「うん……」
左足にライトを向けると、蛇が寄ってきて舌を伸ばしてきた。
「ふむ、これは酷く捻って居るのぉ」
「ぇ……」
突然言われた言葉に、不安がよぎる。
このまま歩けないとかなったらどうしよう……
「安心せい、ちゃんと治せばまた元のように歩けるぞえ」
「ほんと?!」
ホッとしたのが声にでたのか、蛇は笑い声を上げると、僕のほうをじっと見てきた。
「それにしても、坊主はわらわが怖くないのかえ?」
「う、うん。だって、山を歩くのは好きだし、山に入れば蛇は一杯見るし、それに、清姫さん綺麗だから」
「呱々、口が上手いの」
「ほんとのことだよ?」
「ふむ、ならその言葉ありがたく受け取るとしよう」
「うん!」
元気良く返事をした僕に、清姫さんは小さく笑うとこちらの方をじっと見つめてきた。
「さてさて、どうしたものかの……」
口調から多少の困惑を感じるけど、さすがに蛇の「表情」を読み取る事はできない。
暫く待っていると、清姫さんが小さく「うむ」と頷いて(?)僕の方へと顔を向ける。
「何か、お主と分かるものはあるか?」
「僕と分かるもの?」
「名前が書いてある物でもあれば良いのだが」
そう言われた僕は、とりあえず手持ちの物を地面へと広げていく。
ライトに縄に手袋にお菓子にマッチと小振りのナイフ。
「あ!」
名前を書いたものは一つも無いけど、これならと言うものがあった。
小振りのナイフ。
これはおじいちゃんが山に行くようになった時にくれた物で、これなら間違いなく分かるはず。
「これならきっと分かると思う。 ……どうしたの?」
そう言って差し出したナイフを見た清姫さんは、じっとそれを見つめている。
なんか真剣な雰囲気を感じた僕は、それを手にすると清姫さんの前へと出す。
「……なんともな」
小さく首を振ると、清姫さんはそれを口に咥えた。
「ふがふががっへふからまっへろ」
「……何言ってるのかわかんないよ?」
「……そこで待っておれ」
「え、行っちゃうの?」
真っ暗な森の中で一人、しかも足は今になって痛くなってきた。
清姫さんが居なくなると聞いて、急に周りが怖くなってきた。
「怖いか?」
「……う、うん」
「呱呱呱呱、仕方の無い子じゃのぉ」
僕の言葉に、清姫さんが小さく笑うと信じられない事をした。
「っ!」
「清姫さん?!」
体をくねらすと、鱗の一枚に噛み付いた清姫さんはそのまま1枚を剥ぎ取ってこちらへと差し出してきた。
僅かに血の付いたそれは、先程と変わらない煌めきを保っていて、そこに吸い込まれるような気がする。
思わず差し出した手に清姫さんが乗せてくれたそれは、ほんのりと暖かかった。
「そう心配げな声を出すのではない。ほら、血も出ておらぬであろう?」
「う、うん……」
「いいの?」
「構わん、お主にだけ特別だぞ? お守りだと思って受け取れ」
「うん、ありがとう」
「では行ってくるぞえ」
からかう様な口調で言われると、そのままするすると清姫さんは行ってしまった。
でも、手にした鱗からぬくもりが消えることは無い。
まるで清姫さんがずっとそばに居てくれているかのような気さえするのは、気のせいじゃないと思う。
そんな事を思った僕は、あることを思いついて実行する。
「……うわぁ」
ライトを消して見上げた空。
そこにあったのは普段まったく見ることの無い吸い込まれてしまうかのような星の輝き。
でも、そこに怖さは感じない。
それはきっと、手にしたものから勇気を貰っているから。
そして僕は、清姫さんが戻ってくるまでじっと星空を見続けていたのだった。
「帰ったぞ」
「清姫さん?!」
暗闇から突然掛けられた声にびっくりして、思わずライトを向けてしまう。
「同じ事を言わせるのかえ?」
「あ、ごめんなさい」
「まったく……
貴様の祖父が今向かっておるから、もう暫く待っておれ」
「うん、ありがとう」
「ふん」
口では怒ったように言ってるけど、本当は怒っていない。
なんでそんなことが分かるのかと言うと、お爺ちゃんに怒られている時と同じ感じがするから。
何かお礼がしたい。
ふとそんな事を思った。
「ねぇ、清姫さん」
「ん?」
「何かお礼がしたいんだけど……」
「ふん、やめておけ」
予想外の言葉に、何かまずい事を言ってしまったのかとビックリした。
「え、なんで?」
「わらわには、余り近寄らぬほうが良い」
蛇だから?
言葉を話すから?
疑問だけが思い浮かぶけど、正解が分からない。
「人は人と遊ぶ事じゃ。友がだれも居らぬでは寂しいぞ?」
「う、うん」
なんで友達が居ないってわかったんだろ?
一人で遊ぶしかないから、いつも山に来ていた。
山なら一人でも遊べたから。
「心配せずとも、お前ならすぐに友人が出来るだろうさ」
「そうかなぁ……」
「わらわが言うのじゃ、間違いないぞ?」
「……うん、がんばる。だから、もっと大きくなって、友達がいっぱい出来たら、その時には会いに来てもいい?」
「……あぁ、構わぬよ。その時までわらわの事を覚えておれば、な?」
「うん!約束する!絶対に清姫さんの事忘れないから」
「ふふ、楽しみにして居るよ、道也」
「まったく……」
「ごめんなさい」
祖父に背負われた僕は、怒られながら家へと向かっていた。
「大丈夫か?」
「うん」
怒りながらもおじいちゃんはやさしい。
その証拠に、口では怒っているけど心配していてくれる事は良く分かる。
「ねぇ……」
「言わんでもいい」
「良いの?」
「あの方は、ここにずっと居られる」
「う、うん」
「あの方の事は、外に漏らしてはならん。
私の先祖がこの土地を得たのは、あの方に静かな環境を用意する為だ。
いいな?
あの方の事は秘密にして差し上げろ。
出来ないと思うのなら、じっと自分の中に閉じ込めておけ」
そう言うおじいちゃんの口調は、これまでに無いぐらいに真剣だった。
「うん、わかった」
「なら良い。その手の物は、大事に取っておけ」
「うん、ありがとう」
揺られな山を降りていく間に、段々と眠くなってくる。
「ねぇ、おじいちゃん」
「ん?」
「少し、寝ていい?」
「あぁ、構わんぞ」
その言葉を聞くか聞かないかという状態で、道也は既に眠りへと落ちていた。
だから、祖父の言葉を聞く事は無かった。
「すまんな、道也。
少しだけ、記憶を封じさせてもらうぞ。
あの方の事を世間に知られる訳にはいかんし、お前にとってもその方が良いのだ」
そう言うと、静かに祝詞を読み上げ始める。
その声は、暗闇の中山の中へと響いていくのだった。