異世界もの。
残酷描写あり。
注意してください。
授業中。
数学の教師がカツカツとチョークの音を立てながら黒板に回答を書いていく。
それを見ることなく、戸丸トモロウは窓際の席から見える運動場を眺めていた。
外では一学年の生徒が体育の授業を行っていた。トモロウは二学年で、かつ社交性も高い人間ではなかった為、見知った顔は居なかったが。
それでも眺めていたのは、授業が退屈だったからだ。教師は教科書の内容をなぞっているだけで、彼はその部分をすでに何度も解いていた。今更答えあわせをする必要も無い。
(……良い天気だなあ)
ぼんやりと思う。
時刻は13:40。
午後の日差しは暖かく、昼食後の授業は容赦の無い眠気を誘ってくる。すでに教室内の生徒も何人かうたた寝をしている。
トモロウもうつらうつらとしかけていたが、
(む、トイレ行きたくなってきた)
しばらくして便意を催したので、手をあげた。
言う。
「先生、すみません。お手洗い行ってもいいですか」
気がついた数学教師がこちらを見た。
「ああ、構わんぞ」
「はい」
許可を得て、彼は席を立った。
邪魔にならないよう後に回ってから教室を出る。
授業中の静かな廊下を歩き、男子トイレへと向かった。
用を足して男子トイレを出たとき、彼はしばらく呆然としていた。
やがて思う。
時間にして、一体どれぐらいトイレに居たのだろうか?
5分、10分……あるいは一ヶ月、一年だろうか?
判らない。元の場所に返す、と彼女は言っていたが。
ポケットから携帯を取り出す。ぼろぼろになったそれは、電池切れをしていて役には立たない。
彼は携帯をポケットに仕舞った。
「戻るか」
言い聞かせるようにつぶやく。
ともあれ戻ってきたからには、戻るしかないのだ。日常へと。
懐かしい校舎を歩き、教室の扉をあける。
こちらを見た教師がぎょっとした表情をして、それから口を開いた。
「お、おい戸丸。どうしたんだ、なにかあったのか?」
久しぶりに見る顔だ。
トモロウは間を置いてから、言葉を選んで言った。
「ええ、ちょっと……戻ってくる途中で転びました」
安易過ぎるとは思ったが、他に思い浮かばなく。
案の定、教師は動揺を見せた。
「そ、そうか。いや、それなら……いいんだが。保健室行くか?」
「いえ、大丈夫です。気分悪くなったら行きますから」
教師の反応に、起きている生徒もトモロウを見て、それからざわざわと教室が揺らいだ。
一番近くの席に居た女生徒――確か芹沢さんだったか――が彼に聞いた。
「と、戸丸君。どうしたの? なんか、いろいろ変わってるけど……」
「転んじゃってね」
「え、転んだ……? ええー……?」
頭から疑問符が飛び出ている。
無理も無い。制服はぼろぼろで、身体的特徴も変わっていれば誰でも驚くだろう。
だが構わずに、トモロウは席に着いた。好機の視線が突き刺さるが、無視すれば授業は再開した。
「はあ……」
ため息をつく。
彼の周りの生徒が皆寝ていたのは幸いだった。もし起きていたら余計な詮索をされていただろう。
考える時間が、思いを巡らす時間が欲しかった。
トモロウは教室の時計を見た。
時刻は13:55を示している。
トイレに向かったのは何時だっただろうか? 確か40分頃だったはずだから、ここに戻ってくるまでは……
「15分か……」
愕然とつぶやく。
この授業が終わるまで、まだ時間はある。
ようやく日常に戻ってきたが、それまではまだ非日常を思うのも許されるだろう。
彼は目を瞑った。
洋式トイレですっきりして、教室に戻ろうとトイレの扉を開けたとき、世界は暗転した。
視界が黒く染まり、何も見えなくなる。
「……え?」
扉を開いた姿勢のまま、トモロウは固まった。突然の出来事に、思考も停止する。
結構長い間、そのまま硬直していただろう。
「……?」
その後思ったのは、ブレーカーでも落ちて停電したのかという事だった。
例えそうだとしても、今は昼下がりだ。光が消えて、先を見通せないほど暗くなるということはありえない。
時間の感覚も麻痺して、じっとりと嫌な汗が身体中に伝う。
何が起きているのか、判らない。
「なん、だ……?」
声に出して、千切れた思考が蘇ってくる。
次第に夜目が効いてきて、彼は辺りを見回した。
何も見えないかと思ったが、わずかに光がある。炎のように揺らめく明かりがあちこちにある。
廃墟みたいな場所だ。建物は崩れ、辺りは物が散乱している。上を見上げれば、星が煌いていた。
「あ、外……夜?……ええ?」
ここはトイレではない。まして昼でもない。場所も時間も変わったところに自分は居る。
それから更に時間をかけて一通り混乱して、トモロウはようやく動けるようになった。
(何処だここ。なんだ、どうなってる?)
ともあれいつまでも硬直していても仕方ないため、彼は状況を理解するために動くことにした。
とりあえず明かりのある方向に向かって歩く。天井の無い廃墟のような建物を注意深く進んでいく。
明かりの近くに寄れば、その光源が判明する。炎だ。そしてその近くには人がうつ伏せで倒れている。
「人が……だ、大丈夫ですか」
近寄って体を揺する。
妙に湿っぽい感触に、手のひらを見れば生暖かいものが付着している。
臭いをかいで、明かりに照らして判る。血だ。
倒れている人間の衣服は余すことなく血に濡れていて、周りの地面が黒いのもその所為だろう。
それに気がついたとき、トモロウは引きつった声を出して後ずさった。
「ひいいっ!?」
そしてどんっと背中に何かがぶつかって、振り返る。
「……許さぬ」
自分よりふた周りは大きい何者かが、低い唸り声とともに呟いていた。
黒い。とにかく黒い。だがところどころ赤く染まっていて、特に両手は赤一色で、ぽたぽたと赤色が滴っている。
「許さぬ許さぬ……」
黒い人間はこちらを見ている。
顔も黒く塗りつぶされていて判らないが、仕草で判った。
トモロウは再び悲鳴をあげて逃げ出したが、何かに躓いて盛大に転んで頭を打った。
意識は一瞬で途絶えた。
目が覚めても状況は変わっていなかった。
学校のトイレでもなければ、自宅のベッドでもない。
ただ日が昇り、夜から朝にはなっていた。ちゅんちゅんと鳥が囀っている。
目を覚まして再び混乱してから、トモロウは立ち上がって状況を把握することにした。
「いてて、頭打ったのか……」
呻きながら後頭部を押さえれば、大きな瘤ができていた。
顔を顰めつつも見回す。昨日の夜と同じ、廃墟みたいな場所だ。
石造りの巨大な建造物。コンクリートというよりはレンガのように石を敷き詰めた建築物、その成れの果て。
ただ時間により朽ちた印象は無い。出来立ての廃墟、壊されたばかりの建物といった印象だ。
歩けば、近くに人が倒れているのが見えた。
「し、死んでる……のか?」
恐らくは昨夜の人だろう。
明るくなった今ならはっきりと状態がわかる。
男だった。妙な格好をしている。皮のスーツみたいな服装で、脇には鞘に入った剣のようなものあった。
全身を赤く染め上げて血溜りに沈み、ぴくりとも動かない。血はまだ乾ききっていないようだ。
「あ、きゅ、救急車、警察も……あれ、圏外?」
気がついて、携帯をポケットから取り出すも、県外を表示している。
ためしにかけてみても繋がらない。
仕方なくトモロウは倒れている人に近寄って、体を揺すった。
「あ、あの! あの! 大丈夫ですか!」
やはり返事は無い。
トモロウは勇気を出して仰向けに倒れた男をひっくり返した。
たちまち後悔した。死んでいる。間違いなく死んでいると思わせる姿がそこにあった。数ヶ月は夢に出るような姿だ。
トモロウは叫んだ。人生で一番大きな叫び声をあげた。
慌ててその場から逃げ出して、再び転んだ。躓いたのは別の死体だった。今回はひと目で判った。首がないからだ。
トモロウは気絶した。
やはり目が覚めても状況は変わっていなかった。
いろんな思いが過ぎったが、彼は動いて状況を把握することにした。
途中くじけながらも、何時間もかけて歩き回って、やがて瓦礫の上に腰を下ろした。
「なんだよこれ、どうなってんだよお」
頭を抱えてうめく。
場所は相変わらず何処か判らないが、判ったこともある。
自分は今廃墟にいる。規模はトモロウの通う高校と同じぐらいの大きさだ。
恐らく山の中にあり、山頂あるいは尾根に位置している。この廃墟の周りは斜面であり、森で囲まれているからだ。
そして昨夜、恐らくはあの黒い人間がここを襲ったのだろう。遺体は六人。誰もがファンタジーでよく見るローブや鎧を身につけ、杖や剣を持っていた。
ついでにこの廃墟の至る所に妙な模様が、言うなれば魔方陣みたいなものが描かれていた。
「変な宗教施設? 誘拐でもされたのか俺は。でも何時? トイレを出た時か?」
トモロウは身体を丸めた。
何がなんだかわからないし、何をしてもいいのかも判らない。
いきなり見知らぬ廃墟に投げ出され、六人の遺体と対面したのだ。
警察を呼ぼうにも、助けを呼ぼうにも、肝心の携帯は繋がらない。
今すぐこの場から逃げ出したいが、周りは山で何処に逃げ出していいかもわからない。
「とにかく叫ぶか。叫んで助けを呼ぼう、ここでじっとしてるよりはいい」
立ち上がって、彼は声を張り上げた。
「誰かーっ! 誰か居ませんかーっ! おーい!」
何度か声を上げて、彼は疲れたので座った。
ため息を吐いて、そしてふと気がつく。
どうして自分は殺されていないんだろうと。
この施設の人間は恐らく昨夜殺された。暖かかった血や、まだ固まりきっていないことからもそれほど時間は経っていないだろう。
あの黒い人間を犯人をだとすれば、どうして自分を殺さなかったのか。それはトモロウが勝手に気絶したのを、死んだと勘違いしただけなのでは?
今、自分は生きていることを高々と宣言したようなものだ。もし犯人がまだ近くに居るなら、トモロウを殺しに来るのではないだろうか。
「い、いや。憶測だし、それにいつまでも犯人がこんなところに居るわけないし……」
だがひとたび疑問を形にしてしまえば、それはどんどん大きくなってトモロウを押しつぶした。
「ど、どうする? 逃げる? で、でも何処へ? 森ん中入って迷ったらどうする?」
逡巡して、彼は一時森に身を隠すことに決めた。
森に入る途中、遺体の近くを通って剣を目に留める。
「これ持っていこう。何も無いよりはいい」
恐らくは遺体の持ち物であろう、鞘に入った剣を取り、トモロウは森の中に駆け込もうとしたが。
がらがらと大きな音がした。何かが近づいてくる。
トモロウは瓦礫の近くに身を隠した。
しばらくして現れたのは馬だった。いや、荷馬車というやつだろう。馬に荷台を引かせるアレだ。この廃墟に通じる山道があったらしい。
「う、馬? この現代社会に。あ……人だ」
荷台から人間が現れた。全部で五人だ
安堵するも、トモロウは様子を見ることにした。いくら山道とて、馬で往来するなど聞いたことが無い。
それに現れた者たちの身なりや様相が、あまりにも安心とはかけ離れたものだったからだ。
なんだろう、腰に下げた鉈みたいなものといい、山賊っぽい印象だ。
影から様子を窺い、耳を澄ます。
「こいつぁたまげた。こんな場所があったなんて、なんで今まで気がつかなかったんだ。ありえんだろ」
「御頭あ! ここ宝の山っすよ! 魔導石やら日常品やらが数え切れないほどありますぜ! うひょーこいつはすごい、天国だ!」
「頭、こっち来てよ。人が何人か死んでるよ」
女が御頭と呼ばれた男を呼んだ。
そこには首を斬られた死体があるはずだ。
五人全員が死体の周りに集まり、御頭が屈み込んだ。
「死んで間もないようだな。見てみろ。このローブ、正教会の印がある。てことは、ここは正教会の施設か」
「この建物も破壊されて間もないみたいっすね。いったいどうやってここまで壊したんだか」
「お前ら注意しろよ。さっきの声、聞こえただろう。まだ近くに殺人鬼がいるかもしれねえ。とっとと盗るもんとって引き上げだ」
「この死体の服、どうします?」
「死体が着飾っても誰も見ねえよ。使えそうなもんは全てかっぱらえ」
「あいさー」
男が死体から身包みをはがし始める。
どうやらトモロウの声に釣られてここにきたようだが、どう見ても助けに来たようには見えない。
瓦礫の影に隠れて、トモロウはやり過ごすことにした。
「ここにも死体が……こいつは神官騎士? 首都のお偉いさんがなんでこんなところに? いったいここで何が――」
唐突に真後ろから聞こえた声に、トモロウはびくっ反応した。
がたっと瓦礫が崩れ、音を立てる。
「誰だいっ!?」
しまった、と思うよりも先に、女が声を張り上げた。
身体が強張り、息が詰まった。
「そこに誰か居るね、出てきな。それともこっちから出迎えてやろうか」
「おーい、何かあったのか!」
「気をつけな、ここに誰かいるよ!」
女の異変に気がついたのか、複数人がこちらに向かってくる足音がする。
やり過ごすことなど出来ないだろう。観念して、トモロウは鞘の紐を肩にかけて、両手を挙げた姿勢のまま姿を現した。
女はこちらに片手を向けたまま、訝しげに顔をしかめた。
「妙な格好だね、誰だい、あんた」
「誰といわれても……名前は、戸丸トモロウ、と言います」
「誰が名前なんて聞いた。どこの人間だい!?」
「……」
口ごもったのは、女以外の者たちがトモロウをとり囲んだからだ。
こちらを見る目は険しい。何故か全員が手を向けた姿勢だ。
その中の一人、ふた周りは年のいった男が口を開いた。
「お前は黙ってろ、俺が話す。いいな?」
「……わかったよ、頭」
女が素直に引き下がり、頭と呼ばれた男は続けた。
「小僧。お前がここの人間を殺したのか?」
「違います」
トモロウは端的に答えた。
男は矢継ぎ早に言う。
「なら、ここの施設の人間か?」
「違います」
「この施設に関係のある人間か?」
「関係は……無いと思います。少なくとも、俺はこんなところ知りません」
曖昧に答えたのは、質問されて気がついたからだ。
もしかしたら亡くなった人達は、自分を知っているのかもしれなかった。
「妙な答えだが、まあいい続ける。お前はこの施設に関する情報を何かひとつでも持ってるか?」
「持ってません」
「ここで何があったのか知ってるか?」
「知りません」
「ここに来たばかりか?」
「はい……恐らく」
「なら、お前は俺たちと同じ盗賊か、もしくは冒険者か?」
「どちらでもないです」
「何者だ」
「高校生です、ただの」
「高校生? 知らんな……ここに来た目的はなんだ」
「目的はありません。気がついたらここに居て、おれ自身なにがなんだかわからなくて……」
それはトモロウ自身が聞きたいことだ。
彼を取り囲む者たちの空気が変わった。
「御頭、怪しいですぜ、こいつ。あからさまに嘘をつきやがる。何か隠してるかもしれませんぜ」
「身なりも妙な感じね。やたら小奇麗というか、どこかの貴族の出なのかもしれないわ」
盗賊、冒険者、貴族といった単語、そして彼らの妙に前時代な服装など、トモロウ自身にも聞きたいことは山ほどあった。
口を開く。
「あの、自分からも質問いいですか?」
「あんた、自分の立場わかってんの? 妙に冷静だけど、舐めた態度とらないほうがいいんじゃないの」
ねめつけるような視線に、トモロウは一歩引き下がったが。
留まって言い返した。
「貴方たちの質問に答える為にも、俺にもいくつか知らないといけないことがあります」
「まあ、いいぜ。言ってみろよ」
許可を得て、トモロウは最も知りたいことを端的に言葉にした。
「ここ何処ですか?」
「そんなもん、俺たちが知りたいね。俺らの縄張りに突然知らない山道が出来ていて、奥に進めばこのありさまだ。どうなってんだこりゃ」
「すみません、質問を変えます。ええと、そうですね。大きな括りで行きましょう。ここって、何県ですか?」
「御頭!」
「ああ」
質問の答えは返ってこなかった。
盗賊と名乗った連中は皆、トモロウの反対方向を見ていた。つまりは視線の先、御頭の後ろ。
黒い人間が立っていた。
「あれは……」
昨晩見た黒い影に似ている気がする。
とはいっても一瞬だったので、よく覚えていないが。太陽の光などお構いなく、とにかく真っ黒なのは同じだ。
「魔物? それにしては人間の形をとってるけど……」
「なんだか、やたら黒いな。インクでも被ったのか?」
「あたしが牽制しようか」
「ああ。気をつけろ。あまり近づくな、友好的には見えんからな。小僧、お前は動くな」
視線を突き刺されて、トモロウは頷いた。
じりじりと女が黒い人間に詰め寄る。
黒い人間はその間身動き一つしなかったが。
「許さぬ許さぬ……」
うめく様な声が聞こえ、トモロウは声に出した。
「やっぱり、昨日の……」
「小僧、あれを知ってるのか?」
「え、ええ。昨晩、ここで見た気がします。そのときも許さないとか言ってましたから」
「許さない? 何を言っている?」
「知りませんよ。あの黒いのが言ってたんです」
「何も聞こえなかったが」
怪訝な顔をしているが。
「許さぬ……侵略者共め、許さぬ許さぬ許さぬ」
「ほら、言ってるじゃないですか」
「聞こえないが」
「え?」
今度はトモロウが怪訝な顔をした。
黒い人間と自分の距離はかなり空いている。
此処まで声を届かせるなら、大声で無いと無理だ。だが黒い人間は何も声を出していない。
そもそもが真っ黒で、口を開いた様子も無いのだ。
「そこの黒い奴! あんた何の用があって――」
ぴしゃりと鞭を打つような音によって、女の言葉はそこで途切れた。
女の頭が空を舞い、地面に落ちた。遅れて、首から噴水のように血しぶきが上がった。
トモロウはぽかんと口を開けた。
他の盗賊も同じだが、すぐに行動に移した。
「御頭ァ!」
「ああ、殺すぞ!」
四人は黒い人間を取り囲んだ。
一人の盗賊が手から白い炎のようなものを出した。もう一人は衝撃波みたいなものを。
だがそんな現実味の無い光景も、すぐに終わった。時間にすれば、一分あるかないか。
盗賊は瞬く間に全滅した。残っているのは、黒い人間と、トモロウの二人。
「侵略者共……我等を返せ……」
「……あ」
知らず、引きつった声が出た。
黒い人間が近づいてくる。
「許さぬ許さぬ許さぬ……」
「うわあああああああああああああ!」
悲鳴を上げてトモロウは森の中へと駆け出した。
走る、走る、走る。鬱蒼と茂った森の中を駆け抜ける。
小枝が服や肌を傷つけるが、その痛みも感じない。
斜面を転がり落ちるも構わず走る。
とにかく逃げなければならない。逃げなければ殺される。
何処を走っているのか、何処に向かっているのか判らないが、とにかく遠くへ。
死の恐怖がトモロウを突き動かした。
息が切れる。苦しい。殺される。わき腹が痛い。死ぬ。もう走れない。
そういった思いを何度か繰り返して、トモロウはついに森を抜けた。
森を抜けた先は、平原が広がっていた。地平線さえ見える、広大な光景が。
その景色がトモロウに止めを刺した。
たたらを踏んで、足がもつれて転ぶ。
後ろを振り返る。黒い人間は居ない。だがいつまた現れるか判らない。
死の恐怖を覚えるも、限界を超えた身体は動いてくれない。トモロウ自身もう動きたいとは思わなかった。
「はあはあ……足が、痙攣して……駄目だ」
匍匐前進をして、大きな岩にもたれ掛る。
当分は動けないだろう。
「なんだよ……なんなんだよいったい。こんなわけのわかんないとこで死にたくねえよ……」
何時現れるともわからない黒い人間に怯えながらも、時間は過ぎていく。
夕方になってトモロウはようやく歩けるようになった。
「こ、こねーのか。てっきり俺を追ってきたのかと思ったけど、違うのか?」
ともあれ、これからどうすればいいのか、トモロウは考えた。
もう一度あの廃墟に戻るのは無しだ。そもそもどうやって戻ればいいのかもわからない。
だから道は二つだ。ここに留まり救助を待つか、それとも見知らぬ場所を彷徨い助けを呼ぶか。
トモロウは後者を選んだ。
本来山等で遭難した場合は無闇に歩き回らないのがセオリーなのだろうが、それは限定された場所で行方不明になった場合だ。
そもそも今回の場合は遭難ではなく誘拐に近いものであり、かつ殺人鬼が近くに居る時点で留まるなど無理な話だ。
とにかく遠くへ、人が居そうな場所に助けを求めるのが先決だと考えた。
「一気に暗くなってきやがった……」
今日はここで夜を過ごすしかない。
もしあの黒い人間が現れたらと思うと気が気でなかったが、トモロウはさっさと眠りにつく事にした。
どうせ死ぬなら恐怖を感じるよりも、寝ている間にそのままいきたい。やけくそに近い心境だった。
だがそんなことは杞憂で、太陽が昇り始める早い時間、まだ薄暗いときにトモロウは目を覚ました。
空腹のせいだ。昨日は丸一日何も食べていない。喉もからからだった。
「……とにかく歩こう。川でも探して水でも飲まないと……」
足は筋肉痛で、身体はあちこちが軋んでいたが、それでも歩き出す。
見渡す限りが平原だ。綺麗だなと思う。こんな状況でなければ、さらに感動を覚えたに違いない。
でも今は水だ。水が欲しい。一時間ほど歩いて、トモロウはようやく小川を見つけた。
寄生虫だとかなんとか考えたのは一瞬で、身体は生きるために川の水を啜っていた。
つめたくてうまい。今日ほど水のありがたさを知った日はないだろう。一息ついて、トモロウは近場の土手になった場所に腰を下ろした。
もう日は昇ったが、まだ夜明けを過ぎたぐらいで、早朝と呼べる時間だ。
「腹減った……何やってんだろう俺。こんなところで……」
一息つくと、そんなことを考える。
トモロウは肩に掛けていた鞘を取り出して、柄を引っ張った。しゃっと音がして、刀身が姿を現す。
そこに写る自分を見て、思う。
「思ってたんだけど、ここ日本なのか? 都市伝説みたいな黒い人間に、妙な格好をした人たち。あの盗賊は手からビームみたいなもの出してたな。
この時代はずれな剣に、馬。ファンタジーみたいな盗賊とか冒険者とか貴族とか言う言葉。極めつけはこのサバンナみたいな大平原だ……」
今までに見たものを引っ張り出して口にする。
彼は浮かんだ言葉を言った。
「これってよくある異世界召還ってやつじゃないのか? でもさ、それなら案内役とか解説役とかいるんじゃねーの、普通……」
ひとりごちる。
ざっと風が吹いて、トモロウは振り返って背後を見た。
黒い人間がいるのかと思ったが、気のせいだったようだ。
だが怖気を感じて、彼は立ち上がった。
「この川沿いに下っていこう。そうすれば少なくとも水の心配はない。食べ物は……ないけど」
空腹に腹をおさえる。
彼は再び歩き出した。時々水を啜りながらも、ただ歩く。何処に向かっているのかも判らない。
日が昇り、沈み始め、夕焼けになる。その日は、ぶつぶつと独り言を口にしながら歩いただけだった。
夜になって、トモロウは眩暈とともに土手に座った。どれだけの距離を進んだのか判らない。とにかく足が痛くて空腹だった。
内履きの損耗が激しく、もうしばらくすれば底が破けるかもしれない。
トモロウは何度も泣き言を呟いて、気がつけば眠っていた。
次の日も空腹で目を覚ました。
体力は限界で、何も言う気力もない。
それでもトモロウはただ川沿いを歩く。やがて小川は大きな川へと、恐らくは本流へと繋がった。
「……」
なんの感慨もなく、今度は本流に沿ってふらふらと歩いていく。
やがて川を跨ぐ大きな橋が見えた。人工物だ。
「橋だ……橋」
知らず早歩きになった。
近づけば、古く巨大な木製の橋だった。橋から先には道が出来ている。
道と入っても舗装などされてはいなく、往来の果てに草が生えなくなるほど固まった通り道といったものだが。
人の痕跡なのは間違いない。
「どうする……」
かすれた声が出た。
ぼんやりとした頭で考える。
ここに留まって、人が通るのを待つか。それともこの道沿いに進んでいくか……
トモロウは歩くことにした。橋を渡り、対岸の道へと歩を進める。理由はなかった。ただの惰性といったほうがいいかもしれない。
とにかく遠くへ……それだけが彼の頭の中を占めていた。
だが夕方になって、トモロウは倒れた。
剣を杖のようにして身体を支えるも、持ち上がらない。
「う、うう……ぐ……」
視界がぼやけた。
トモロウは泣いていた。
空腹は限界をとうに超え、まして水もない。失敗だったのだ。まだ生きたいと願うなら、橋の近くに留まり人が来るのを待つべきだった。
今更戻る気力もなく、トモロウは近くにあった草を毟って、口に含んだ。
ずっと避けていたことだが、ここまでくればそんな理性など役に立たなかった。
本能は生きることを優先している。
顔をくしゃくしゃにしながら草をほおばり、やがて彼の意識は途絶えた。
次の日も生きていた。
起き上がれたのは、昨日草を食べたからだろうか。
再び歩き出す。だがしばらくして、トモロウは崩れ落ちた。もう歩く活力がない。
いくら草を食べたところで、無駄だったのだ。前を見る。恐らく自分は、もう視界の先の光景を見ることは出来ないだろう。
「どうしてこんなところで……」
呟く。
うな垂れて、ぐすぐすとトモロウは鼻を啜った。
知らず、彼は倒れていた。
「おい、起きろ」
頬を叩かれる感触に、瞼を開ける。
「腹減ってるんだろ、これを食え」
無理やり何かを口に突っ込まれる。
無意識のまま咀嚼して、飲み込む。そうして気がついた、これは食べ物だ。
「ほらよ」
さらに口に押し込まれる。
トモロウは口を手で押さえようとして、出来ないことに気がつく。
手足をロープか何かで縛られている。
口から食べ物がこぼれた。
「ちっ、汚ねえ……おいいらねえのか」
「……」
どういう状況なのか良くわからなくて、トモロウは目を瞬いた。
そんな彼の様子を見て、目の前の男はあからさまに不機嫌な表情を見せたが。
落ちた食べ物をトモロウの口に再び押し込んだ。
(どうなってる……)
混乱を胸中で呟きながら、黙ったままものを食べる。
男は無言でこちらに食べ物を押し込んでくる。
水ももらって一息ついて、男はトモロウを覗き込んだ。
「お前、名前は?」
「……」
見返す。
男はあの盗賊たちと同じような格好をしていた。男のほかにも、二人同じような人間がこちらを見ている。
更に自分の状況を確かめた。手足を縛られて、剣も取り上げられている。
そしてガタゴトと先ほどから揺れているのは、自分が何かの荷台に乗せられているからのようだ。荷馬車だろうか?
「おい、しゃべれねえのか!?」
彼らが自分を拾って助けてくれた。そう考えたが、ならどうして自分は拘束されているのだろう。
一通り状況を見て、トモロウは口を開いた。
「……喋れます」
「なんだ、喉を潰されてるのかと思ったぜ。お前名前は」
「戸丸トモロウ」
「トモロー? はあん、変な名前だな。まあいいぜ。とにかくお前は今日から俺たちの所有物だ」
「……」
唐突過ぎる宣言にトモロウは押し黙った。
男は続けた。
「訳がわからねえ、って顔してるな。だが、お前は俺たちに助けられたってのは判るよな?」
「……はい」
「あそこで飢え死にしそうだったお前を、俺たちは拾った。そうしなきゃお前は死んでいただろうな。だが俺たちは助けた。そうして死にそうだったお前の命を、干し肉と水で買ったわけだ。違うか?」
事態は飲み込めても、理解はしがたい。
だが彼らが通らなければ間違いなく自分は死んでいただろう。それは事実だ。
トモロウは促した。
「だとしたら……俺をどうするつもりです」
「おお? 聞き訳がいいな。そうさな、開拓村に売っちまおうか。あそこが年中人手不足なの知ってるだろ。なあに身分は奴隷になるが死ぬよかマシだろ? それに五年もすれば晴れて自由の身さ」
あっけらかんと告げてくる。
やはり理解できなかったため、トモロウは疑問を口に出した。
「あの、ここ何処か知ってますか?」
「はあん? お前、自分が何処に居るのかも判らずに歩いてたのか? 冒険者が聞いてあきれる! そんな貧弱な装備で、そりゃ飢え死にするわ!」
がはははと、荷台にいる三人が声をあげて笑った。
無視して、トモロウは続けた
「何県かわかりますか?」
「なにけん……なんじゃそりゃあ」
「日本って知ってますか?」
「はああ? 知らんなあ」
「アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニア……聞き覚えは?」
「さあな」
「地球は知ってますか?」
「何言ってんだこいつは」
三人はお互いを見回して、頭がパーなのか? という仕草をした。
ああ、とトモロウはうな垂れた。つまりはそういうことだった。ここは彼の知っている場所ではない。
まあそれもそうだ。ここに至るまでに見てきたものは、彼を納得させるには十分なものだった。
「じゃあ、ここ何処なんですか……」
つぶやく。
男は笑いながら眉を吊り上げた。
「そんなことはお前の知ることじゃねえ。これから開拓村に行くお前が、地理を知ったところでなんの役に立つってんだ? ああ?」
「……」
トモロウは考えた。
どうすればいいのだろう。
このまま流されて開拓村とやらで奴隷になるか、もしくは抵抗して逃げるか。
だが仮に逃げられたとして、また見知らぬ土地をさ迷い歩くのか?
(それは嫌だ……)
そう考えてしまえば、抵抗する気力もなくなる。
そんな様子の彼を、三人は面白がってからかい続けたが、トモロウは何も言わずに目を瞑った。
状況が変わったのは、荷馬車に揺られてしばらく経った頃だった。
「なんだ、あれは……?」
荷台の後ろを男が眺めた。
釣られて他の二人とトモロウもその方向を見る。
遠くに、くっきりとした黒い影があった。黒い人型。見覚えのある形だ。
現実味のない黒色に正確な距離感は掴めないが、それでもこちらに近づいていることだけは判った。
「魔人だ……」
太った男がぽつりと言った。
「は?」
「だから魔人だよありゃあ! 間違いねえ、あの黒い影、10年前にも見たことがある! 俺の村はあいつに滅ぼされたんだ!」
「魔人ってーと、竜の使いっていうアレか? そんなもん御伽噺じゃねえのか?」
「御伽噺じゃねえっていつも言ってるでしょう! おい、馬車の速度を上げてくれ! 殺されるぞ!」
「お、おいおい」
トモロウと話した男が困惑の表情を見せたが、太った男は狂乱したように喚き散らした。
「兄貴、信じてください、あれは本当にヤバイんですよ! あれを一匹殺すのに、いったいどれだけの人が死んだか……!」
「ちっ、わかったよ。おい、街のほうに向かえ。人がたくさん居れば撒けるだろう」
「了解」
兄貴と呼ばれた男の言葉に、荷馬車は速度を上げ進路を修正した。
そんな中、トモロウは震えていた。
(お、俺を追ってきたのか……?)
そう考えるのが妥当なところだが。
黒い人間はすさまじい速度で、こちらを目掛けて走ってきている。
やがて獣のように両手足を用いて、更に加速した。
「許さぬ許さぬ……」
またあの声が聞こえてくる。
トモロウは耳を塞ぎたくなった。
「あああ! もう駄目だ! 追いつかれる、追いつかれるぅ!」
太った男が喚く。
実際その通りで、馬車と黒い人間の距離はみるみるうちに縮まっていった。
「なんか、やべえな。仕方ねえ」
兄貴と呼ばれた男が舌打ちをして立ち上がった。
「おいトモロー! 立て! お前の命ここで使わせてもらうぜ!」
「は?」
男はナイフを取り出して、トモローの拘束を解いた。
彼を荷台の後ろに立たせて、それから無常に告げてくる。
「お前の命は俺たちの所有物だ。ならせいぜい役に立ってもらうぜ。時間を稼ぎな」
「な、何を……」
「頭抱えろ! そのまま落馬しておっ死んでも知らねえぞ!」
「ちょっと、まさか……!」
「そのまさかだ! いけぇぇっ!」
男はトモローを強引に蹴り押した。
そしてその後、餞別とばかりに彼の持っていた剣を投げるのが見える。
地面に放り出されトモロウはごろごろと転がった。幾度も回転して、やがて止まる。
「いっ、痛ったぁー……」
呻きながら立ち上がる。
遠くの馬車を見やれば、男たちがさようならーとばかりにこちらに向けて手を振っている。
トモロウは振り返った。黒い塊はすぐそこに迫っていた。