南近江 青地城
青地城は小高い丘の上に建てられた平山城である。
平地に築かれる平城よりは防衛に適しているが、山中に築かれる山城ほどの堅牢さは期待できない。
ゆえに、城主の青地茂綱は城の周囲に分厚い土塁を築き、あるいは深い堀を穿って敵襲への備えを怠らなかった。
三好三人衆の一、三好政康の猛攻に晒された青地城が早期の陥落を免れた理由の一つに、茂綱が丹念に築き上げてきた防備が挙げられる。
しかしながら、六角軍は余裕をもって敵勢を迎撃できたわけではなかった。
主将である政康みずからが陣頭に立った三好軍の攻勢は苛烈をきわめ、あわやという場面はいくらも存在したのである。
それこそ両手の指を使っても数え切れないほどに。
「敵軍およそ三百、またしても西の塁に取り付きました! このままでは西の守りが破られるのも時間の問題です!」
「ご報告! 敵将 三好政康、再び南門への攻撃を開始いたしました! 鉄砲隊を押し立てて激しく攻撃をくわえております! 南門の田島備前どのより、このままでは支えかねるゆえ至急援兵を、とのことッ」
前線から入れかわり立ちかわり報告が届けられる。そのすべてが敵軍の激しい攻勢を告げるものであった。
この悲鳴にも似た報告に対し、城主の青地茂綱は冷静に、そして的確に対応していく。
「西の塁の援護に、とりいそぎ五十、差し向けよ。指揮は直元、そなたに任せる」
「は、ただちに向かいまする!」
茂綱が居並ぶ武将のひとりに命じると、心得た武将が足早に去っていく。
間をおかず、茂綱は次の指示を下した。
「備前に伝えよ。あと一刻、否、半刻でよい、もちこたえよ」
茂綱は窓からのぞく暗灰色の空を見据える。重く垂れ込めた雲は雨の気配を濃厚に宿しており、遠からず雨粒が落ちてくる、と茂綱は睨んでいた。
雨さえ降れば鉄砲隊は簡単には運用できなくなる。門を攻め立てる敵の勢いも減じていくだろう。
伝令を南門に向かわせた茂綱は、続いて東側の攻防に意識を向けた。
今までのところ三好軍の主攻は西と南であり、東、そして北の方面は部隊こそ配置されているが、数は少なく攻勢も激しいものではない。
しかし、だからといって油断はできなかった。三好政康は攻撃一辺倒の武将といわれているが、政康の背後には智略に長けた岩成友通がいる。三好軍は主攻を南、西に据えていると見せかけて、一転、北、東方面から急襲を仕掛けてくるかもしれない。城兵の数には限りがあるため、敵が急激に攻め手をかえてきた場合、対応できずに一挙に突破されてしまう恐れがあった。
「東門の父上――いや、蒲生家のご隠居から、何か云ってきておらぬか?」
「先刻の敵襲撃退の報が最後です」
そうか、と茂綱はうなずいた。
「ならばよし。引き続き厳重な警戒をお願いして――いや、ご隠居ほどの歴戦の武将に対して、これはいわずもがなであるかな?」
わずかにおどけてみせる茂綱を見て、束の間、本丸に詰めていた家臣たちの顔に笑みが浮かぶ。
家臣のひとりがからかうように云った。
「さようですな。むしろ殿の方が、もっとしっかり指揮せんかい、と尻を叩かれるやもしれません」
「ご隠居ならやりかねぬ。この年で童のごとく尻を叩かれる羽目になるやもしれんとは。三好なぞよりご隠居の方がよほど恐ろしいわい」
嘆ずるような茂綱の言葉に、たまらず家臣たちの口から笑声がこぼれおちた。
当然ながら、青地家の家臣たちは茂綱が定秀の息子であることを知っている。
茂綱が定秀のことをご隠居と呼ぶのは、自分はもう青地家の人間である、という覚悟のあらわれであったが、たとえ茂綱が定秀のことを父と呼ぼうとも、反感を覚える人間はこの場にはいなかったであろう。
茂綱は青地家中の人心を掌握していた。
と、その時だった。
青地家の君臣が発した笑声に呼応するように、北の方角で激しい喊声が轟いた。たちまち茂綱らの顔から笑みが拭われ、鋭い緊張がとってかわる。少しの間を置いて、血相をかえた家臣が軍議の間に駆け込んできた。
「も、申し上げます! 北方に新たに敵勢を確認いたしました。騎馬を中心にして、数はおよそ五百!」
「……ここで北か。三好め、大回りで兵を裏手にまわしたな」
茂綱は小さく舌打ちすると、すぐに指示を出した。
「北門の将兵に伝えよ。野戦ならば知らず、城攻めにおいて騎兵は役に立たぬ。慌てることなく迎え撃て」
手薄な北で騒ぎを起こして城内を混乱させ、あわよくば城兵を北に集めさせようという魂胆であろう。茂綱は三好軍の動きをそう見てとった。
ようするに騎兵の機動力を活かした示威兼陽動であるが、そうと口にすれば将兵の心に油断が生じるかもしれない。先ほど思案したように、示威と見せかけてこちらが主攻である可能性もあるのだ。
ゆえに茂綱は余計な推測は口にせず、ただ落ち着いて迎え撃て、とだけ命じた。その命令に応じて、これまでにもまして軍議の間が慌しく動き出す。
青地城をめぐる攻防はまだ始まったばかりであった。
◆◆
馬上、南門攻めの指揮を執る三好政康の周囲には城門、櫓からの攻撃が集中していた。
だが、雨のような矢石に晒されながら、政康は臆する風もなく馬を進め、兵たちを前へ前へと駆り立てていく。
警戒する素振りなどつゆ見せぬ。敵の攻撃が我が身を傷つけることはないと確信しているかのような振る舞いは、味方から見れば頼もしく、敵から見れば面憎いことこの上なかった。
「射よ、射よ!」
「大将首ぞ、討ち取って手柄にするのだッ!!」
城門から怒声と共に矢が降り注ぎ、散発的な銃声が湧き起こる。
口角をつりあげた政康が名刀 三日月宗近を一閃させると、両断された矢が数本、地面に落ちた。
唸りをあげて耳元を通過していく銃弾に眉ひとつ動かさず、城門の兵の様子をうかがっていた政康が、不意に唇を歪めた。いかにも愉しげに。
「ふん、慌しくはあっても、乱れた様子はなし。この分では騎馬を北に回した効果も期待できないな。瀬田の山岡といい、六角はなかなかに良き将を抱えている」
先ごろ陥落させた瀬田城の敵将を思い起こしながら、政康はあっさり作戦の失敗を認めた。
そして、まあいい、と呟いて思考を切り替える。
別に負け惜しみを云ったわけではない。このまま東西南北、四方を囲んで攻め続ければ、遠からず城中の兵は力尽きる。それがわかっていれば、一つ一つの作戦行動の成否に一喜一憂する必要はないのだ。
つけくわえれば、現在、城を攻めている兵の大半は先の戦いで降伏した兵か、そうでなければ新たに三人衆のもとに馳せ参じた者たちである。強引な力攻めをして彼らの被害が増えたところで政康は何の痛痒も感じない。
――もっといえば。
本来、政康は本陣で彼らを指揮していれば良かった。後方の岩成友通からもそのように念を押されている。友通は別段、政康の身を案じたわけではなく、江南征服の緒戦で三人衆のひとりが欠ければ士気に響く、と案じただけであったが、それはともかく、政康は友通の言があったにも関わらず、こうして前線に身を晒し続けていた。
その理由は何かといえば、単に政康自身が戦いたかったからに他ならぬ。
友通が聞けば眉を吊り上げたであろう。しかし、実のところ、この政康の行動は青地攻めの三好軍におおいに益していた。もし政康が本陣に腰を据え、新参者や降兵たちだけを死地に投じていれば、彼らは反感を禁じえなかったに違いない。
しかし、実際には政康はためらうことなく相手の攻撃の矢面に立ち続け、命を懸けて青地城を攻め立てている。それを目の当たりにした兵たちは感奮興起し、次々と敵城の厚い防備にとりついていった。
結果として、この日、三好軍は城を落とせずに一旦兵を退くことになる。
降り出した雨に衣服と防具を濡らし、濡れ鼠となって陣営に戻った三好軍。しかし、陣幕に戻った彼らの顔に惰気や厭戦の気配が漂うことはなく、それどころか、明日こそ城を落としてやろうという決意と戦意に満ち溢れていた。
そこかしこで今日の戦での己の武勇を誇る声があがり、また、そんな彼らをはやし立てる声も起きて、陰鬱な夜雨などものかは、野太い笑声が陣幕の内外を賑やかに彩っている。
三好政康の戦好きが起こした意図せぬ高揚。
三好政康をして三人衆の一角に押し上げた力の源泉。
それは本来雑多であるはずの将兵に確かな連帯感を与え、攻城軍はただ一戦にして猛将と精兵の集団へ変貌しようとしていた。
青地城に立てこもる将兵にとってはなんとも厄介な敵の出現である。城兵は遠くから届く敵陣の騒ぎを聞いて暗い顔を見合わせた。
青地茂綱、蒲生定秀ら諸将の顔も険しい。
定秀の入城により蒲生家の更なる援軍の到着は周知されており、これは城兵の戦意を保つ一助となっている。しかし、即座に戦える蒲生兵は余さず定秀が連れてきており、日野城の賢秀が次の援軍を編成し終えるまでにはまだまだ時間がかかる。
賢秀が来着するまで敵の攻撃を耐えしのげば味方の勝利である――茂綱たちはそういって兵を鼓舞しているのだが、では実際に賢秀が来れば勝てるのかと問われれば返答に窮した。
三好政康率いる兵は二千弱。賢秀が兵をかき集めれば、これに等しい数をそろえることは十分に可能であるが、それはあくまで数の上でのこと。錬度や武装において、畿内を制した三好軍には及ぶべくもない。おまけに、三好軍には後詰が控えているが、蒲生軍にそれはないのである。
敵の戦意の高さを思えば、賢秀が到着したところで兵を退くことはないだろう。苦戦は免れぬ、と茂綱たちは密かに腹を据えていた。
かくて夜は更けていく。
両軍の将兵は明日の戦に備え、雨滴の音を慰みとして眠りに落ちた。運悪く歩哨の役目を負うことになった兵士は、不安と緊張に晒されながら、雨の向こうからいつ敵があらわれるかと目をこらす。
三好軍は敵城を睨み。
六角軍は敵陣を見据え。
雨滴の弾ける音は周囲の音を遮った。
ゆえに彼らは気づかなかった。
戦場の外から、ひそやかに両軍を見つめる一団の存在に。
◆◆
明けて翌日。
自軍の誰よりも早く目を覚ました三好政康は、兵が用意していた(いつものことなので夜番の兵が準備していた)湯漬けを盛大にかっ食らうと、ひらりと愛馬にまたがった。
そして兵が揃うのも待たずに城攻めを開始する。
周囲はまだ夜のように暗い。厚い雲が上空を覆っているためでもあるが、それ以前に、まだ朝日が東の空に顔を出すか出さないかという時刻なのである。
三好兵も驚いたが、もっと驚いたのは城内の六角兵であった。
まだ夜といってもいい時間に、突如として敵陣から喊声が湧き起こり、敵将みずからが先頭に立って突っ込んできたのだ。
夜襲を警戒していた部隊も、もう大丈夫だろう、と心の甲冑を脱いでいた時間帯であった。味方である三好兵の大半が気づいていなかったのだから、当然のこと、敵陣の動きから襲撃を察することもできない。
敵味方、双方の意表をついた政康の朝駆けにより、この日の攻防は幕を開けたのである。
「夜討ち朝駆けは武士のならいであるか。己の半分も生きておらぬ小僧っこに先手を打たれるとは、少々戦から離れすぎたやもしれん」
敵襲の報を受けた定秀は自戒の言葉を口にしつつ兜をかぶる。
甲冑を着たまま眠っていたため、兜をかぶり、槍をとれば戦う準備は完了する。昨日、東側を守っていた定秀の部隊は比較的被害が少なかったため、茂綱と相談の上で昨夜のうちに南門への配置換えを終えていた。
南門は初日の攻防で最も激戦となった部署であり、それは今後もかわらないだろう。この配置換えは定秀が(しつこく)願い出て、茂綱が(しぶしぶ)受け容れた結果である。
望んで激戦の場に身を置いたのだ。定秀としてはここで醜態を晒すわけにはいかなかった。
老身とは思えない軽快さで城門脇の櫓にのぼった定秀は、周囲の兵士に大音声で命じた。
「敵将ばかりに気をとられるな! 大将首ではなく、必中をこそ心がけるのだ! 鉄砲隊は敵を十分にひきつけてから撃ち放て。弓兵も同様じゃぞ!」
先夜から降り続く雨幕をおしのけるような定秀の大声に、周囲の蒲生兵から力強い返答がなされる。
定秀は配下の反応に満足したが、その顔には依然、厳しい表情がはりついたままであった。
早くから鉄砲の有用性に着目し、城下の刀鍛冶を鉄砲鍛冶にかえるなど鉄砲の研究と保有に力を尽くしてきた定秀は鉄砲の弱点を知悉していた。
屋根に守られれば雨を避けることはできる。屋根がなくとも、火口を覆う「雨覆い」などを用いれば雨中で鉄砲を撃つことは可能であった。
しかし、直接の雨滴は避けられても、湿った空気が火薬をしけらせてしまうのはいかんともしがたい。たとえ城中からの射撃であったとしても、天候によって不発率は格段にはねあがってしまうのだ。
敵の鉄砲の脅威が減るのは確かだが、こちらからの射撃も確実性に欠けるものとなってしまう。定秀にとって昨日から降り続く雨は痛し痒しであった。
ただ、その事実を踏まえても守城における鉄砲の威力は抜群であり、三好軍の攻勢は降り注ぐ鉛弾によって幾度もせき止められた。
昨日に比べ、鉄砲の数が明らかに増していることに気づいた政康の視線が、城壁上の一点に吸い寄せられる。
夜のような暗がりの中、櫓の篝火にぼんやりと照らされた軍旗には、向かい合った二羽の鶴が描かれていた。青地家の家紋は『隅立て四つ目結』である。『対い鶴(むかいづる)』ではない。
これを家紋とする家といえば――
政康は得心したようにうなずいた。
「なるほど、そういえば青地の当主は蒲生の縁者だったな」
蒲生家の兵が参戦したとすれば、城中の兵は事前の予測より多いことになる。無理押しをすれば手痛い反撃を食らうことになるかもしれない。
「重臣を粛清したばかりの義治に大軍を編成する余裕はない。他の国人衆も現状では容易に兵を動かせぬ――それが友通の見立てであったが、外れたな。しかし、昨日の手ごたえからして、千や二千の援軍が入っていたとは思えない。精々二、三百というところだろう。その程度ならばこのまま力攻めで押しつぶせる」
そう判断した政康は、城への圧力をさらに強めていった。
一方で、蒲生家の更なる援軍の存在を慮り、東への警戒を指示したのは政康が単なる猪武者ではないことの証左になるであろう。城の東側に展開していた三好軍は、政康の指示を受けて東方に物見を放ち、敵の増援に備えた。
青地城を囲む鉄環は確実に狭まりつつあり、城内の将兵をじわじわと絞めつけていく。
前線に踏みとどまる政康の指揮ぶりに意気あがる三好軍は、度重なる敵の反撃にも怖じることなく攻撃を続け、その猛攻を前に城兵は一人、また一人と倒れていった。
攻める三好軍はそれ以上の数が倒れていたが、攻勢は一向に緩む気配がなく、時を経るに従って茂綱や定秀の顔にも焦慮の色がちらつきはじめる。
このままいけば多くの敵兵を討ち取ることができるが、代償として城内の味方が磨り潰されてしまう。五百の味方で千の敵を討ち取ることができれば大戦果であるが、結果として城を失ってしまえば、どのような奮戦も空しいだけだ。
むろん、無意味ではない。この後に続く六角軍にとって、千の敵兵がのぞかれることは大きな意味があるだろう。当主の義治などはむしろその戦いを茂綱らに期待しているに違いない。
だが――
「わしらにはわしらで、守るべきものがあるからのう」
「そのとおりです。主君から捨て駒たるを望まれようと、それに甘んじる義務などござるまい」
昼過ぎ。
早朝から攻めに攻め続けた三好軍が一時的に兵を退いた。おそらく死傷者の収容と部隊の再編成のためだろう。
その合間をぬうように本丸に戻った定秀は、今日は西の塁で激闘を繰り広げていた茂綱と顔をあわせ、短く言葉を交した。
六角家を裏切るつもりはないが、酷薄な軍略の駒として我が身と臣下、一族を犠牲に捧げるつもりはさらにない。精々予測を上回る戦果を見せつけて、観音寺の者たちが慌てて腰をあげざるをえないようにしてやろう。
父子は疲労の滲む顔に不敵な笑みを浮かべて笑いあった。
三好軍が再び攻め寄せてくるまで、かかった時間は四半刻に満たなかった。三好軍にしても疲労や損害は無視できない域に達しているはずだが、ここで時間をかけて城兵に立ち直る時間を与えるよりは、強引にでも攻め続けて一気に勝敗を決する方を選んだのだろう。三好政康の戦法ははじめから一貫している。
政康に率いられた三好軍は旺盛な戦意をもって青地城へと攻めかかり、彼らの注意はことごとく前方に向けられた。
――三好軍の陣中に異変が起きたのはこの時である。
◆◆
「も、申し上げます! 本陣が敵の一団の襲撃を受けましたッ!」
先陣で指揮をとる政康がその報告を聞いたのは、再度の城攻めをはじめて間もなくのことであった。
政康は目をいからせて報告をした兵に問いただす。
「なんだと? 敵、とは六角軍かッ!?」
「そ、それが……」
兵士は一瞬言いよどんだが、すぐに振り絞るように声を押し出した。
「襲撃してきた者どもは旗指物の類を持っておらず、武装もバラバラで、いずこの兵とも見当がつきませぬ! 数は五十あまりです!」
それを聞いた政康の眉間に深いしわが刻まれた。
総大将である政康がたえず前線に出ているため、精兵の多くは前線に出向いている。本陣にいるのは、政康が長逸から預かった直属の兵だけで、彼らをのぞけば他は大半が負傷した兵ばかりであった。
長逸直属の兵たちは、まさか背後から攻められるとは予想だにしていなかったのだろう、突如あらわれた敵兵に驚き、慌て、突き崩されてしまったという。
もっとも、攻め手の数が数であり、相手も戦果に固執することなく素早く退いたため、被害はさほどでもないとのことだった――人的被害に限っては、であるが。
政康は鋭く舌打ちした。
視線が後方の本陣に向けられる。雨の中のこととて注意しなければ気づかないほどであるが、たしかに黒煙が立ち上っていた。
「兵糧を焼かれたか?」
「は、はい、申し訳ございません! し、しかし幸い、すでに火は消し止めております。損害はわずかであり――!」
慌てて言い募ろうとする兵士に、政康は短く訊ねた。
「弾薬は?」
「……ッ」
兵士が言葉を詰まらせる。が、隠しだてはならぬと判断したのだろう、力ない声で答えた。
「火は消し止めました。しかし、陣幕が焼かれたことで、大半の火薬が雨に晒されてしまい……」
「使い物にならぬ、か」
再度、政康は舌打ちする。
報告に来た兵は恐縮し、雨と血でぬかるんだ地面に這いつくばった。
奇襲で被った損害は致命的なものではないが、それが免罪符にならないことは明白である。特に、ひとたび水に濡れた火薬は、乾かせばまた使えるというものではない。いかに不意をつかれたとはいえ、また本陣の兵そのものも多くなかったとはいえ、それでも寄せ手の倍以上の兵が本陣を守っていたのだ。
たかだか五十程度の兵にその守りを破られては釈明の余地がない。最悪、この場で政康に斬り捨てられるかもしれなかった。長逸直属の兵とはいえ、無能な味方に容赦する政康でないことは、三好家のすべての将兵が承知している。
報告に来た兵はそのように考えて恐懼していたのだが、政康の意識はすでに兵から離れていた。
「旗指物はなく、武装も統一されていないとなれば、正体は物資欲しさの野武士というのが相場だが、それにしては動きが大胆だ。襲撃に成功しておきながら物資を焼くというのは解せんし、それ以前にこの雨で火を放って何をするつもりだったのか」
雨が降り続ける中、火を放ったところで物資を焼き払うことは難しい。そんな理屈は子供でもわかることだ。それをあえてしたのは、相手がその程度のことも考え付かない粗野な盗人であったからか。
しかし、考えなしの野盗にしては、本陣襲撃の間合いが的確すぎる。三好軍の注意が城に集中し、さらに城攻めが始まって容易に退却できない頃合を見計らって突入してきた。偶然にしてはできすぎている。
(……偶然ではないとしたら)
政康は考える。
この巧妙な襲撃が物資を目的としたものでないのなら、考えられるのは少しでも三好軍に打撃を与えることだろう。
現在の三好軍は補給路が確立できておらず、わずかな損失も後々大きく響いてくる恐れがある。敵がそのことを理解した上で、少数の兵で可能なかぎり打撃を与えようと考えたのであれば、敵の動きに矛盾はなくなる。
となると、やはり相手は六角兵か。
しかし、六角家が三好家の内情――三人衆が家中で孤立しつつあることを察知し、補給の不備につけこもうとしたのなら、襲撃の兵数はもっと多くなりそうなものだ。
政康はひれ伏したままの兵に視線を戻すと、低声で確認をとった。
「敵のその後の動きは? まさか確認していないということはないだろうな?」
「は、はい! 敵は南の方角へ逃げ散っており、おそらく鶏冠山に逃げ込むつもりかと思われます」
「よし、ただちに追撃せよ。それと、誰でも良いから後詰の友通の陣にはしって状況を伝えるのだ。一刻も早い来援を請え」
この敵に後方をかき回されると厄介なことになる。かといって、ここで城攻めの手を緩めれば城内の兵が息を吹き返してしまうだろう。
であれば、友通の兵を使って後ろの敵を叩き潰してしまえばよい。それが政康の考えであった。
結果として己の失態を僚将に償わせることになり、友通に対して面目が立たない格好になるが、政康にその手の見栄やこだわりはない。ようは、最終的に政康が所属している側が勝てば良いのだ。自分の手で多数の敵を斬り殺した上での勝利であればさらに良い。
「いうまでもないが、最善は友通の手を借りずに我らだけで敵を始末することだ。己の失態は己の武勲で償え。他の兵どもにもそう伝えよ。この追撃で何の成果も出せなければ、叔父御の兵とはいえ覚悟しておくことだ」
「は、ははッ!」
こけつまろびつ駆け去ってゆく兵士の後ろ姿を見やりながら、政康は冷静に思案していた。
本陣襲撃の手際から見るに、おそらく鶏冠山の方もなんらかの策が施してあるだろう。追撃の兵がそれを打ち破ればよし、相手の策にかかったとしても、それで向こうの手の内を暴くことができる。その上で友通の兵を使って相手の思惑を押しつぶしてしまえば事は済む、と。
かくて後方の厄介事に一応の指図をした三好政康は再び城攻めに注力する。
ほぼ同じ時刻、岩成友通は瀬田城からの急報を受けて進軍をとめていたのだが、神ならぬ身には知る由もないことであった。
◆◆
南近江 鶏冠山
「あま――ではない、北さまに吉継どの、ご無事でなによりですッ」
「御主人、ご無事でよろしゅうございました!」
三好軍の追撃を逃れて鶏冠山に逃げ込んだ俺と左内を出迎えたのは、微妙に慌てた様子の重秀と、ほとんど半泣きになっている長束利兵衛であった。
ちなみに重秀が口にした北というのは、いま俺が名乗っている偽名である。おおっぴらに天城颯馬を名乗っていると、いつ誰が俺の正体に気がつくか知れたものではない、ということで「北図書助相馬(きた ずしょのすけ そうま)」を名乗ることにしたのだ。
俺が上杉家を離れてだいぶ経つので、正直なところ無用な心配だとも思うのだが、俺の名前が色々と妙な筋で知られているのは九国でも体験したことである。六角家の人間に上杉の縁者と悟られれば面倒なことになりかねない。念には念を、であった。
偽名なら九国で使っていた雲居筑前でも良かったのだが、話を聞いた左内が「北国から来た客人(まれびと)よ、北で良かろ。あとは箔をつけるために、そうだな、図書助とでも名乗っておけばよい。ああ、それと『そうま』はそのままにしておくように。いまさら呼び名をかえるのは面倒じゃからの」等々、ほぼすべて決めてしまったのである。
その左内は俺の隣でが呆れたように利兵衛の額を突っついていた。
「まったく。だからそなたは来る必要はないと云うたであろうに」
「ご、御主人が戦に出るというのに、ぼくが屋敷でじっとしているなんて、できませにゅ……ッ!」
派手に台詞を噛んだ利兵衛に、左内はけらけらと笑いながら云った。
「心根は立派であるが、ろくに歯の根もあわぬでは格好がつかぬぞ。おのこであれば、そこは歯を食いしばって毅然としておれ」
「ひゃ、ひゃい!」
痛そうに口元をおさえながら涙目でうなずく利兵衛。うむ、戦の恐怖に震えている本人には申し訳ないが、なんだかとても和やかな光景である。
そんな風にほっこりしていると、重秀が心配そうに話しかけてきた。
「あの北さま、吉継どのもお怪我はありませんか? 傷薬は用意してありますが」
「ああ、大丈夫大丈夫。本陣といっても、ほとんどが負傷した兵だったしな。俺も吉継も怪我ひとつない」
俺がそう云うと、吉継がため息まじりに補足した。
「それは確かですが、私が見ただけでも三度ばかり槍で突かれそうになっていました。手傷を負わなかったのは幸運のなせる業です」
「そこは敵の攻撃を華麗に捌いた俺の成長を誉めるところだろう」
胸を張り、肩をそびやかして云ってみる。
冗談まじりの言葉であったが、反応はじとっとした冷たい眼差しだった。微妙に吉継の眉毛があがって見えるのは、本気で心配しているのに茶化された、と思ったためか。
俺は慌てて咳払いして表情を取り繕った。
繰り返すが、本気で云ったわけではない。しかし、越後や九国で経験した数々の大戦に比べれば、敵の不意をついて少数の本陣に切り込むなど容易い部類に入るのも事実である。まして、今回の目的は敵の撃退ではなく、適当に暴れまわって火をつけるだけなのだから尚更だ。
俺たちの襲撃で敵にどれだけの被害を与えられたかは正直わからない。うまいこと兵糧、弾薬を台無しにできれば云うことはないが、仮に消し止められていたとしても構わなかった。この作戦の肝は三好政康に対して「背後で小賢しく動き回る敵がいるぞ」と伝えることにある。
その意味でも俺たちは無理することなく退くことができ、その余裕が俺の軽口に繋がったのである。
しかし、吉継が口にしたように危険がなかったわけではない。重秀と一緒に残るように、という言葉を固辞して襲撃に加わった吉継の目に、俺の言動が軽薄に映ったとしても無理はなかった。
場がなんとも居心地の悪い沈黙に包まれていく。冷や汗をかく俺を救ってくれたのは重秀の一言であった。
「むう、残念です。お連れいただければ、私もお役に立ちましたのに」
言葉どおり、いかにも残念そうにかぶりを振っての台詞であったが、もしかしたら助け舟を出してくれたのかもしれない。その証拠に重秀の視線がちらちらと俺に向けられている。
心得た俺はつとめて何気なく応じた。
「な、なに、この戦いはここからが本番だからな。主役はもったいぶって出てくるものさ」
とっさにひねりだした言葉であったが、内容に嘘はない。
三好軍が逃げる俺たちに追撃をかけたのは確認している。敵は間もなくやってくるだろう。その時こそ重秀に実力を発揮してもらわねばならないのだ。
「準備はできてるか?」
「お任せください。あの子たちも万全です」
自信を込めていう重秀の背後には、利兵衛とさして年のかわらない子供たちが数人、いかにも不安げに佇んでいる。彼らも利兵衛と同じく岡家の使用人であり、進んで戦いに参加した身なのだが、主のため、というだけで恐怖を振り払えるものではない。不安を隠せないのは仕方のないことだろう。
むしろ、先夜からの雨中の強行軍を、彼らが脱落者なしでついてこられたことに驚嘆すべきかもしれない。なんだかんだ云いつつも、左内は家人たちに慕われているようで、重秀があえて万全と口にしたのは、そういった彼らの芯の強さを鑑みてのことかもしれなかった。
むろんというべきか、彼らも利兵衛も直接の戦闘には加わらない。彼らが武器をとるとすれば、それは三好軍が俺の策をことごとく看破して肉薄してきた時だけだろう。
では、この子たちが何の役にも立たないのかといえば、そんなことはない。俺も左内も、役に立たない人間を心意気だけで戦場に連れてくるほど酔狂ではないし、そんな余裕もない。これから先の彼らは、ある意味で俺よりもずっと重要な役割を担うことになる。
その時、不意に木立が激しく揺れ動き、ずぶぬれの兵士が駆け込んできた。
左内が雇った私兵のひとりで、彼は三好軍とおぼしき集団の接近を告げる。それを聞いた俺は、髪を伝って落ちてくる額の雨滴を拭いながら云った。
「さて、嫌がらせ第二幕の始まりだ」
「……せめてもう少し言葉を選んでください、直截すぎます」
嘆息しつつも律儀に言葉を返してきた吉継は、気を取り直すように軽く頬を叩き、腰の刀を抜き放った。俺と左内、私兵たちも同様に刀を抜き、あるいは槍の鞘を払う。
騒然たる殺気が立ち込める空間の只中で、利兵衛たち少年組は不安そうに目を見交わしていた。
◆◆
この時、鶏冠山に攻め寄せた三好兵の指揮を執っていた武将の名を若槻光保という。
光保は三好長逸の配下であり、今回の青地攻めでは長逸からの援軍という形で政康の軍に加わっていた。
政康が彼に本陣の守備を任せたのは、叔父の配下に無用の損害を与えないように、という配慮のためであったが、結果としてその配慮は裏目に出た。
どこの誰とも知れぬ雑兵に本営をかき回された挙句、貴重な物資を少なからず失ってしまったとあっては、長逸にも政康にもあわせる顔がない。光保としては、せめて敵兵を残らず討ち取って、わずかなりと汚名をすすぎたいところであった。
一度は不覚をとったとはいえ、相手はしょせん小銭欲しさの野武士、山賊の類に違いなし。そう考えて鶏冠山に踏み込んだ光保を待っていたのは、山腹から落とされる木石の罠であった。
木や石の大きさはさほどでもなかったが、ただでさえ身動きのとりにくい山中である。おまけに昨日から降り続く雨が山の斜面をぬかるみで覆っており、これに鎧兜の重量が加わって、斜面を登るのは容易ではない。そこを狙って丸木やら岩やらを投げ落とされれば、これを避けるのは困難をきわめた。
「おのれ、小癪なマネを!」
光保の口から怒号がほとばしる。木石が降って来たあたりめがけて山麓から矢を打ち込んでみたものの手ごたえはなく、それどころかお返しとばかりに十本近い矢がばらばらと降り注いでくる。
これはたいした弓勢ではなく、山腹の敵兵が正規の武士ではないという光保の推測を裏付けるものであったが、そんな相手を攻めあぐねていると思えば苛立ちは募るばかりである。
別の方向から兵を回すことを考えないわけではなかったが、光保の麾下に江南の地理に通じた兵はおらず、この考えは断念せざるをえなかった。無理に兵を割き、見通しの利かない山中で迷いでもしたら笑い話にもならない。
ここはひた押しに押しまくるべきであろう。敵が野武士や野盗の類であれば、こちらの気概を見せ付けることで降伏を促すことができるかもしれない。むろん、降伏したところで許すつもりなどかけらもなかったが。
「よし、木板を掲げて敵の矢をふせぎつつ攻め上るのだ! そこらの木の皮を剥いでもよい。所詮は野武士、山賊の類、投げ落とす木も石もたいして蓄えているわけではあるまい。時が経つほどに我らは有利になっていくのだ!」
光保の正しさを証明するように、徐々に山腹から降り注ぐ木石の数が減ってきた。弓矢にいたっては先刻からまったく降って来ない。斜面の登りにくさは相変わらずであったが、妨害がなくなればそれだけ登る速度もあがる道理である。
三好兵は少しずつ、しかし着実に敵との距離を詰めていった。すでに両者は互いの声がとどくほどに接近しており、光保の視界には粗末な木板で囲まれた陣地らしきものが映し出されている。木板の表面には、さきほど光保たちが射放った矢が何本も突き立っていた。
捉えた。
光保の顔に会心の笑みが浮かんだ、まさにその瞬間だった。
先頭近くにいた兵のひとりが、不可視の棒で突き飛ばされたかのように、前触れなく後方に弾き飛ばされる。
ほぼ同時に耳をつんざく轟音が響き渡り、三好兵の耳朶と、周囲の木立を激しく揺らした。
何事が起きたのか、光保はすぐに察した。三好兵にとっては聞きなれた感すらある音であったから。
それでも光保が咄嗟に反応できなかったのは、その轟音が、この時、この場で聞くはずのないものだったからである。
「鉄砲だと!? 山賊ごときがッ!?」
驚愕の声は続く第二射によってかき消された。またひとり、兵士が眉間を撃ちぬかれて斜面に崩れ落ちていく。
先の本陣襲撃で敵は鉄砲を用いていなかった。それは間違いないと断言できる。ここに来て切り札を出してきた、ということか。
しかし――
「バカな。これだけ激しく雨が降る中で、どうして鉄砲が使える!?」
敵の陣には雨滴を遮る屋根はない。精々が木立の下で雨粒を避ける程度だろう。そんな状況でどうして鉄砲が使えるのか。
驚愕と疑念のないまざった声は、またしても敵の銃声によってかき消された。
先頭集団で三度おなじ光景が繰り返される。兵たちの間に動揺のもやが立ち上るのを察した光保は、ほとんど反射的に兵を静めるべく声を張り上げた。
「うろたえるな! 敵はすぐそこぞ、次の射が来る前に駆けのぼり、射手を片付けてしまえば――」
轟く第四射。
続く第五射。
止まらぬ第六射。
とどめの第七射。
連続する銃声は終わりのない旋律を奏で、放たれる不可視の雷霆は次々に三好兵を撃ち倒していく。
もはや光保は声も出ず、呆然と眼前の光景を見つめることしか出来ない。
しかも、悪夢はまだ終わっていなかった。ようやく途切れたと思われた銃声は、ほんの少しの間を置いて、再び三好軍の耳朶を打ち据えはじめる。
三好兵の中にはなおも勇敢に攻め上ろうとする者たちもいた。
あるいは破れかぶれになっただけかもしれないが、それでも彼らは呆然として鉛の雷火に撃たれることをよしとせず、恐れを振り払って敵に肉薄しようとしたのである。
その勇気は報われなかった。いや、あるいは報われたというべきかもしれない。鉄砲の射手は、決死の形相で攻め上ってくる彼らを、無抵抗の的ではなく、一個の兵士と見定めて火蓋を切ったのだから。
しかし、そのいずれであれ、命を落とす結果にかわりはない。
目の前で次々と撃ち殺されていく配下を前にして、指揮官である光保はかつて経験したことのない恐れに心の臓をわしづかみされていた。
「……な、なんだ? なんなのだ、これはッ!?」
光保だけではない。いまだ命のある三好兵もまた、これまで味わったことのない恐怖と悪寒に捉われていた。
雨の中で鉄砲が撃てるのは、早合を油紙で包んで雨滴から守り、あるいは火口に雨覆いを設ける等、雨避けの工夫を凝らした結果である。
一発必中の理由は彼我の距離と射手の腕。
連射の理由は射手ひとりに助手七人という変則編成による。射撃をする者と、弾込め、清掃、雨払いをする助手を分業させた、雑賀衆で烏渡しと呼ばれる射撃術。
二十の鉄砲を一人と七人でまわしていれば、中の四丁五丁がしけっていようと射撃の間隔はかわらぬ道理である。
巫術、妖術ではありえない。一つ一つにタネも仕掛けもある迎撃に、理解およばず恐怖したのは無知か油断か慢心か。それとも相手の奸智のゆえか。
もし問われれば、彼らは迷うことなく答えただろう。
だがしかし、このとき寄せ手の前に示されたのは、問いかけではなくとどめの征矢。
矢の突き立った木板の列が内側から蹴り飛ばされて、あらわれたのは槍先そろえた鋒矢の陣。
先頭に立った若者が手に持つ刀を振り上げる。
押し出せとの号令が鶏冠山に響き渡った。