南近江 草津
東海道と東山道の分岐点であり、琵琶湖の水運とも密接な繋がりを持つ宿場町、草津。
多くの人が行き交うこの地には、必然的に多くの物も集まってくる。人と物が集まれば、そこに利が生じるのは自明の理であろう。
宿場町として、また水陸二つの交易の要として、長い繁栄の歴史を築きあげてきた草津の町に俺がやってきた理由は、むろんのこと、謙信さまたちをお救いするためである。
本来であれば、謙信さまたちが幽閉されている三雲の地に直行するところなのだが、今の俺には迂路をとらなければならない理由があった。
松永久秀が一乗院覚慶から伝え聞いたという謙信さまの行方。
その詳細を伝えることと引き換えに久秀が出してきた条件は、三好三人衆の排除というものであった。
今の三好家にとって三人衆の存在は邪魔にしかなりえない。しかし、だからといって三好軍がおおやけに彼らを討とうとすれば、事態は間違いなく内紛に発展する。
ただでさえ四隣に敵を抱えている三好家である。つい先ごろ、本願寺軍が淡路を急襲したという事実にくわえ、名高い三人衆が叛いたと知れ渡れば、求めて諸国の侵入を招くようなものであろう。
ゆえに、三人衆の排除のために三好家の将兵を動かすことはできない。むろん久秀の手勢も。
三人衆の勢力はあくまでも外部勢力の手によって潰えなければならないのである。三人衆を一時に失えば、それはそれで諸国の野心家を刺激するであろうが、このまま三人衆を放置しておくよりはマシであろう――それが三好宗家の考えである、らしい。
らしいというのは、その考えを口にしたのが久秀だけだからである。俺は結局、三好長慶にも三好義賢にも会うことができなかった。
『こんな謀議に宗家の人間が言質をあたえるわけないでしょう?』
とは微笑まじりの久秀の言葉である。
率直にいって胡散くさい。思わず鼻をふさぎたくなるくらい、いやらしい策謀の匂いがぷんぷんしている。
久秀は三人衆の排除は三好家のためであり、三好宗家も黙認しているという口調であったが、長慶らが黙認しているという保証はどこにもない。久秀が三人衆を邪魔に思って排除を画策しているだけではないか、という疑念は消えなかった。
また三好、松永の兵を動かせないということは、要するに俺が自分で戦力を整えて事にあたらねばならないということである。三好家ないし久秀にしてみれば成功すれば儲けもの、失敗しても何かを失うわけではない。損をするのは俺ばかり、という構図であった。
それらを承知した上で、なお俺は久秀の提案を受け容れた。久秀が口にしたのは謙信さまたちが六角家に幽閉されたという情報だけであり、これだけでは居場所を突き止めようがない。まずは相手から出された提案を容れて、謙信さまの行方を確認した上で対処を考えるしかなかったのである。
結果、明らかになった幽閉場所は三雲城外の廃寺。
即座に駆けつけて謙信さまたちを救い出し、しかる後に三人衆を討ち果たす。真っ先に考え付いたこの案は、口に出すより先に久秀に却下された。
理由は単純である。
三人衆の兵力は三千弱。三好家の手勢を使わずにこれを討つとなれば、もっとも手っ取り早いのは彼らと対峙している六角軍を利用することだ。
六角家は三人衆からの申し出に応じて謙信さまたちを捕らえた、いわば三人衆の盟友であるが、この両者が無二の信頼で結びついている可能性はきわめて低い。中途半端な盟約ならば付け入る隙はいくらでもあるだろう。
他方、三雲で謙信さまたちを救いだすということは、力ずくで六角兵を斬り破るということであるから、はっきりと六角家と敵対することになる。三雲で騒ぎを起こした後、三人衆と対峙する六角軍に接触することが危険であるのは言をまたない。ヘタをすると、上杉という共通の敵を前にした両者が、より結束を強めてしまうかもしれない。
まあ俺としては謙信さまたちをお助けできれば、ここで三人衆を討ちもらしても問題はないのだが、久秀がそんな冴えない結末を許すはずもなく、俺に一つの条件を突きつけてきた。
謙信さまを救うために行動するのはかまわない。同時に、三人衆を討つこと――六角家を利用する行動をおろそかにすることは許さない。
要するに、二手に分かれて行動しろ、ということであった。
謙信さまたちを助ける救出隊。三人衆を討ちはたす討伐隊。
二手に分かれることを前提とすると、救出隊には謙信さまたちが顔を知っている者がいることが望ましい。長恵や吉継が「助けにきました」といっても、謙信さまたちはすぐに信じることができないだろうからだ。
となると、該当するのは俺か秀綱であるが、それぞれの任に対する適正というものも考慮する必要がある。
救出隊に必要なのは敵地を行く隠密能力と包囲を斬り破る武力。
討伐隊に必要なのは六角家に取り入る弁舌と、彼らを使嗾して三人衆を討ちとる謀画の才。
……どれだけ頭をひねろうと、俺に適しているのが討伐隊の方である事実は揺らがなかった。
短からざる葛藤の末、俺は秀綱と長恵の二人に謙信さまの救出を託し、自らの任を三人衆の討伐に据える。
思いっきり久秀に利用された形であり、もしこれで相手が俺にとって何の恨みもない人物であったなら、たとえ謙信さまたちをお救いするためとはいえ、心に忸怩たる思いを抱かずにはいられなかっただろう。
しかし、幸か不幸か、三人衆は俺にとっても討ち果たすべき相手であった。連中は謙信さまたちを危険視し、六角家と協力して排除しようと目論んでいるのだから、これを討つのにためらう必要は微塵もない。結果として義輝さまの仇を討てるのだから尚更だ。
ここで三人衆と六角家を共食いさせておけば、それだけ越後への帰路が安全になるという利点もある。なにより、聞くだけ聞いて久秀の意にそむく行動をとれば、この謀将が敵にまわる。そんな事態はなんとしても避けなければならなかった。いずれ敵対する時が来るとしても、それは今ではないはずだから。
かくて、俺たちは久秀に見送られて京を出た。
行き先に草津を選んだのは久秀から一通の書状を渡されたからである。
久秀曰く、びっくりするくらいの守銭奴、が草津にいるらしい。
兵を募るにせよ、情報を集めるにせよ、あるいは賄賂を用いて六角の家臣に取り入るにせよ、金銭は欠かせないものとなる。その金銭を得るために、件の守銭奴をがんばって口説き落とせ、ということのようだった。
久秀が本気で俺に三人衆を討たせたいなら、兵を出すことができずとも金銭を出すことはできるだろう。それをせず、助力を紹介状一通にとどめるというのはどういうことか。
久秀の真意をつかめないことに一抹の不安を覚えつつ、俺は草津を目指した。
俺の両隣を固めてくれているのは吉継と重秀の二人である。平時であれば陸路を使うのが常道なのだが(個人的に水路は極力避けたい)、いま瀬田や伏見のあたりは三好、六角両軍が布陣している。見目よい女の子ふたりをつれて軍隊の近くを通るとか、考えるだけで頭が痛くなるので、一度道を北東にとって大津へ向かい、船で琵琶湖へ出ることにする。
琵琶湖には堅田衆と呼ばれる海賊(湖賊)集団がいる。賊といっても略奪をこととする暴徒ではなく、琵琶湖の水運をとりしきって税をとりたてる水上勢力のことで、定められた通行料を払えばそうそう危険なことにはならない。
旅費に関しては九国でもらった分がまだ十分に残っているので、俺たちはそれを用いて無事に草津へと到着した。
ここで俺たちは噂の守銭奴 岡定俊(おか さだとし)と出会うことになる。
◆◆
岡定俊、通称は左内(さない)。
大小の商機に溢れた草津の町で、おそらくは十指に入るであろうお金持ちである。
こう聞けば大抵の人は大きな邸宅を構えた大商人を連想すると思うが、左内に関してこの予測は当てはまらなかった。暮らしている家は決して小さくはなかったが、家人も含めて二十人も入れば手狭になってしまう程度の広さしかない。精々が「ちょっと裕福な町商人」というところだろう。
まあそれ以前に、左内本人は自分を商人ではなく武士と見なしているのだが。
当人いわく、若狭の国で父の後を継ぎ、一城の主となったものの、あまりに諸事に吝い(しわい ケチ)ので家臣たちに城を追い出されてしまったのだという。
嘘なら嘘でホラが過ぎるし、本当なら本当で呆れるしかない話である。
その後、左内は各地を渡り歩いた末に草津にたどりつき、ここで利殖の道に勤しんだそうだ。自分を武士とみなしているのではなかったのか、という俺のツッコミに対し、返って来た答えは「身共(みども)の道楽じゃ」というもの。
物を売買する商いにくわえ、金を必要とする人に利子をつけて貸し付ける、いわゆる金貸しで財を成し、岡佐内の名は草津の内外で広く知られるようになっていく。
俺たちがやってきたのは、左内が草津に居を構えてから数年が経過した頃であった。
左内に呼び出された俺は、客間からたいして離れていない位置にある家主の部屋の前までやってくると、中で待っているであろう人物に呼びかけた。
「左内、用があると聞いてきたんだが」
今の俺はすぐに返せるあてのない借金を申し込みに来ているのであり、つけくわえると草津での宿は左内の家である。左内に対しては二重にも三重にも礼儀を尽くさなければならない立場なのだが、呼びかけの口調はいたって砕けたものであった。
言い訳すると、はじめはきちんと礼儀正しく話していたのだ。しかし、左内の方から「堅苦しいのは好かぬ」としかめっ面で云われてしまったので、相手の意向に沿うことにした次第である。
……決して、左内と話すうちに丁寧な口調を用いることに疲れてしまったわけではない。
「来たか。はよう入れ、颯馬。吉報ぞ」
返って来たのは、華やかさの中に確かな落ち着きを宿した、耳に心地よい女性の声だった。耳をくすぐるこの声を聞いただけで、たいていの男どもは声の主が美人だと確信するだろう。そう、俺のように。
事実、左内は玉のような肌を持つ美人なのだが、この時の俺に浮ついた気持ちはまったくない。むしろ、心の大半を占めるのは警戒と用心であった。
「その前にひとつ確認したいんだが」
「ん?」
「なにやらしゃらしゃらという音が中から聞こえてくるぞ。また銭の床で寝そべってるのか?」
左内には妙な趣味があり、集めた銭を床に敷き詰めては、磨いたり、数えたり、はては寝転がったりして楽しむのだ。最初にその現場を見たときには、開いた口が塞がらなかったものである。
だがまあ、自分で集めた金をどう扱うかは当人の自由である。床に敷き詰めようが、派手に散財しようが、金蔵に積み上げようが、他人が口を挟むことではない。
だから俺としても左内の趣味に口出しするつもりはないのだが――
「別にかまわぬではないか。銭は天下のまわりもの。銅臭を嫌う者たちとて、銭なくば今日を生きることもままならぬ。そう毛嫌いすることもあるまい?」
「銭を毛嫌いしているわけではないし、お前の言葉に反論するつもりもまったくないんだが、それでもこの襖は開けたくない」
「はて、面妖な。東国にその名を轟かせた天城筑前が、いったい何をそのように怖れるのか?」
「銭の上で裸になってる変態を、だよ! いいかげん裸の時に人を呼ぶのはやめやがれ!」
客人としての礼儀とか、金を借りにきている立場だとか、そういったものを雲の果てまで放り投げ、俺は大声で左内を怒鳴りつけていた。
で、しばし後。
なんとか佐内に服を着せた俺は、ついでに部屋もかえさせて左内の話を聞くことにした。銭が敷き詰められた室内で落ち着いて話をするのは難しいのだ。
「まったく、颯馬はいちいちうるさいの。別に見ても損をするわけでもなかろうに。むしろ殿御にとっては眼福であろ?」
部屋をうつり、きちんと服を着た左内と向かい合う。ハレンチな言動とは裏腹に、そういって悪戯っぽく微笑む姿はいかにも楽しげで、媚を売るような卑しさや淫らな雰囲気はまったくない。年頃の初心な少年をからかうお姉さん、という感じである。
実際、左内の目には俺はそういう風に映っているのかもしれん。実年齢はほとんど同じか、俺より少し下くらいのはずなのだが。
「眼福は眼福だが、後が怖い。吉継や重秀からしらっとした目で見られるのはもうご免だ」
左内の屋敷に来て、はじめて部屋に招じ入れられたときのことを思い出す。父としての尊厳とか、雇い主としての威厳とか、そういったものが砂の城のように崩れていくのだ。あんな経験は一度で十分である。
「ふふ、鬼謀の策士も娘たちの前では形無しよな」
そう云うと、佐内は額にかかっていた前髪をうるさげに横に払った。
左内の髪は青みを帯びて緩やかに波打っており、その髪を彩るために鼈甲のかんざしを挿している。姿勢正しく、着付けも短時間で行ったとは思えないほどしっかりしていて、こうして改めて見てみると、整った顔立ちからは気品のようなものが感じられた。かつて一城の主だったという話もあながちデタラメではないのかもしれない、そんな気にさせられる。
これでけったいな趣味さえなければ高貴なお姫様で通るのだが、と俺は内心で嘆息する。
しかしまあ、繰り返すが、俺は左内の趣味に文句を云える立場ではない。だが、せめて人を呼び出した時くらいはきちんと服を着ていてくれ、と願うのは非礼ではないと思う次第である。
もう何度目かわからない俺の頼みに、家主は鈴を転がすような声で応じた。
「うん、善処しよう」
素直にうなずき、くすくすと微笑む左内。改める気なんぞないことは火を見るより明らかで、俺は今度こそため息を吐いてしまった。
「利兵衛くんがな」
「ん? 利兵衛がどうかしたか?」
「俺のところに来るたびに顔を真っ赤にしてるんだ。あの子、そのうちぶっ倒れるぞ」
「ふふ、利兵衛は算盤は巧みだが、算盤以外のことには疎い。おなごの肌を見て倒れるようなら、それはそれで良いことじゃろ」
利兵衛というのは左内の下で働いている使用人の男の子である。年齢はまだ十を幾つも出ていないだろう。目もとの涼やかな、いかにも才気煥発といった感じの子であった。
左内が口にしたように算盤が巧みで、諸事に気が利き、人当たりも良い。実に将来が楽しみな子なのだが、何故だか吉継や重秀には近寄ろうとしない。もっと正確にいうと、同じ使用人やなじみのある町人でも、相手が女性であると明らかに動きがかたくなる。
ちらと訊いてみたところ、別に女嫌いというわけではないらしい。ただ、異性が苦手であるのは確かなようで、その原因は何かと利兵衛をからかう主人にあるのではないか、と俺は邪推していた。
まあ利兵衛くんにとって佐内は恩人であるらしく(家族の借金をまるまる肩代わりしてくれたそうな)感謝も尊敬もしているとのことだから、妙な心配をする必要はないだろうけれど。
「ま、それはさておきじゃ。先にも云うたが吉報ぞ、颯馬」
「む、そうだった。謹んで拝聴しよう」
俺が居住まいを正すのを待って、左内は吉報の内容を告げた。
「三好と六角が瀬田の橋でやりおうたそうな」
それは確かに吉報であった。むしろ、俺にとって都合が良すぎて、思わず情報の真偽を疑ってしまいそうになる。
そんな俺の複雑な内心を知ってか知らずか、左内はなおも続けた。
「六角は大敗。三好はこれを追撃して唐橋を渡り、勢田城を囲んだという。瀬田の山岡どのはなかなかの武将じゃが、大勝で勢いに乗る三好を防ぐのは難しかろう。もって数日。あるいはもう落ちている頃やもしれん」
そこまで云うと、左内はにやりと笑った。
「そなたが策を弄するまでもなかったな」
「確かに、その点では助かったが……」
左内の情報を吟味しつつ、俺は考え込む。
俺の基本方針は三人衆と六角家をかみ合わせ、両家の力を削いだ上で、最終的に三人衆を討ち取ることである。手を組んでいた両者が勝手に反目した挙句、派手にぶつかってくれたのは僥倖というしかない。
しかし、あまりに一方的な勝利は望ましくないのだ。ここで三人衆が勢いに乗って江南を征服するようなことがあれば、彼らを討つのはきわめて困難になる上、謙信さまたちの身に更なる危難が及ぶ。
六角家の手から逃れたと思ったら、今度は三好家に捕まってしまった、などということになったら洒落にもならない。
ゆえに、理想は両者が泥沼の消耗戦に陥ること。上杉家一行の行方など構っていられない、という状態になった上で三人衆を討ち取ることができれば云うことはない。
むろん、理想はあくまで理想、そうそう都合よく事は運ばない。現実を理想に近づけるためには、人間の知恵と努力が不可欠である。
「三好軍が勢いに乗っているなら、その勢いをそぐことで六角軍に恩を売ることもできるか。六角軍が優勢であるよりは、かえってやりやすいかもしれないな」
「簡単に云うの」
「これから先、悩む場面はいくらでも出てくるからな。今から眉間にしわを寄せていても仕方ない。幸い、資金に関しては奇特な協力者のおかげで心配する必要がなくなったし」
「ん、越後の重臣を自称する徒手空拳の浪人者に惜しげもなく資金を提供するとは、実に寛大な御仁じゃの。大切にせねば罰があたろう」
「……感謝はしてるんだ。本気で。しかし、あの松永久秀が苦笑するほどの守銭奴が、見も知らぬ浪人に惜しげもなく資金を提供してくれるとは予想外にもほどがあってな。相手の本心がいまいちわからない」
わりと本気の言葉であった。
といっても、別に裏切りを心配しているわけではない。
久秀からの書状があったとはいえ、さして迷う風もなく協力を肯ってくれた左内の対応が不思議だったのである。左内は久秀の配下であるわけではなく、俺たちに協力する義務などないのだ。
俺の疑問を聞いた左内がくすりと微笑んだ。
「ふふ、銭を集めるのも、銭の上で寝そべるのも道楽のようなもの。他者の目にどのように映ろうと、この身は武士。命を懸けるに足る戦場(いくさば)は、銭であがなうことはできぬでな。それを持ち込んでくれた者に便宜をはかるのは当然のことであろ。それに――」
「それに?」
「世の中には一目ぼれというものがあるじゃろ?」
「いってろ」
いつものようにはぐらかしてきた左内を見て、俺は小さく肩をすくめた。
◆◆
しばし後、左内は供を連れずに草津の町中を歩いていた。
「さて、戦況が大きく動いた今、身共もいつまでも銭と戯れているわけにはいくまいて」
そういって左内が向かった先は、町外れにある練兵場である。
人と物が集まれば利が生じる。これを自明とするならば、利を求めて賊が発生するのは必然といえる。
草津の町は六角家の支配をうけているが、その統治は間接的なもので、実際に権力を握っているのは有力な町人、商人たちである。彼らは自分たちの利権を守るためにそれぞれ私兵を抱えており、これは左内も同様であった。
もっとも、その数は三十人程度に過ぎず、荷駄を守るためならともかく、三好、六角の戦に割って入るとなると心細いことおびただしい。浪人や力自慢をかき集めれば、あと五十人ほど数を増やすこともできるが、それでもやはり戦に影響をあたえられるような数ではない。
他の有力者に助力を頼む、という手段もないことはないが、多くの人間に声をかければ、それだけ多くの人間に佐内たちの動きを知られることになる。それは好ましくなかった。
というのも、草津の中には六角家の支配を快く思っていない者や、支配者の交代を機に零落の身から脱しようと考える者が少なくないからだ。そういった者たちが佐内たちの行動に気づけば、三好の陣地に駆け込んで三人衆に取り入る手だてとするかもしれない。
そういった理由から、集められる兵の数には限度がある。
多勢を集められないのであれば、今いる兵で何とかするしかない。そして、少数の兵は精鋭でなければ意味がなかった。
当然ながら一日二日の訓練で精鋭部隊がつくれるわけもなく――
「そこで出てくるのが鉄砲、ということになるわけじゃな」
海の外より鉄砲が渡来してからすでに幾年も過ぎている。草津の町にも鉄砲は入ってきており、左内も十丁ほど所有していた。
この十丁に、新たに購入した十丁を加えた二十丁の鉄砲、これを左内は己の私兵にもたせて連日の訓練を行っていた。
ただ撃つだけでは芸がない。いま佐内の兵が四苦八苦しているのは、鉄砲の早込め、早撃ちの練習である。
「おお、様子はどうじゃ」
耳をつんざく轟音が響く練兵場は、立派な建物や設備が置かれているわけではなく、荒くれ者たちが大騒ぎしても町人の迷惑にならないよう開けた土地を開放しているだけの場所であった。
だだっ広いだけがとりえの練兵場には、以前はなかった小山が幾つも見て取れる。そこらの土を積み上げてつくった小山の前には、敵兵に見立てたカカシが突き立てられており、兵たちはそのカカシめがけて何度も何度も鉄砲を撃ち放っていた。まるでそのカカシが親の仇であるかのような形相で。
少しでも気を緩めれば鬼教官の猛特訓が待っている。気を抜いている暇なぞまったくない。自然、顔つきも険しくなろうというものであった。
「あ、左内さん」
左内の姿に気づいた鬼教官――鈴木重秀がぺこりと頭を下げる。その動きにあわせ、ほつれた黒髪が重秀の左頬に張り付いた。
その顔が常よりも凛々しく見えるのは、額にしっかりと結ばれた黒地の額当てのためか。重秀は早朝からこちら、火薬の熱と硝煙の臭いが立ち込める場所で激しい指導を繰り返しているため、おそらくはもう衣服の下まで汗まみれになっていることだろう。
もっとも、当人はまったく気にする様子を見せておらず(慣れているのだろう)左内に向けられた言葉は常とかわらない平静なものであった。
左内から進展を問われた重秀は、おとがいに手をあてて進捗状況を口にした。
「完璧に、とはもちろんいきませんが、実戦で慌てることのない錬度までは持っていけると思います。これだけ弾や火薬があれば、いくらでも試し撃ちができますからね」
そういった重秀は、ここで申し訳なさそうに佐内の顔をうかがった。
「使いたいだけ使っていいと云われたのでそうしているんですが、大丈夫なのでしょうか? 弾にせよ火薬にせよ、決して安いものではありません」
「かまわんよ。蔵に貯めこんでいたのは使うべきときに使うためじゃからの。まあ、試し撃ちに使いすぎて、いざ敵と戦うときに弾がない、などというのは勘弁願いたいが」
冗談まじりの左内の言葉に、重秀は心得ているというように生真面目にうなずいた。
「あ、それはもちろんちゃんと考えてます。手先の器用な人たちには早合(はやごう)づくりにまわってもらっていますので」
早合とは、あらかじめ鉛弾や火薬などを詰めこんだ弾薬包のことで、雑賀衆はこれを用いて鉄砲の発射間隔を短縮させている。重秀は兵を訓練するかたわら、それを大量につくらせているのである。幸い、早合作成に必要な物はほとんどそろっていたし、足りなかったものも左内の手配ですぐに手に入れることができた。
左内は満足げにうなずくと、先ほど天城に伝えた情報を重秀にも伝えた。
「ならば問題なし。先ほどそなたの雇い主にも申したが、三好と六角がぶつかりおった。我らが動くのはもう間もなくじゃろう」
「承知しました。そろそろ訓練の仕上げに入りましょう。その後で私も出陣の準備を整えておきます」
重秀は表情を引き締めてうなずく。その後ろでは、会話の断片を聞き取った兵のひとりがいまにも倒れそうな顔でうめき声をあげていた。それに気づいた重秀は、脳裏の訓練表に新たな一項を書き加える。
と、目の前の左内がなにやら不思議そうな顔で自分を見ていることに気づき、重秀は首をかしげた。
「あの、左内さん。私の顔に何かついてますか?」
「いやなに、たいしたことではないのだが。そなた、戦場に出る気まんまんのようじゃと思ってな」
「へ? それはもちろん出るつもりですけど?」
左内の問いかけの意味がわからない重秀は目を瞬かせる。
そんな重秀を見て、左内は短く苦笑した。
「そなたの雇い主は、そなたを連れて行きたくはないようだったがな。ここで死んでは、貴重な鍛冶師を主君に推挙することができなくなろう」
「その主君が危険な目に遭っているのですから、私も頑張らなくては。それに、いまの私は鍛冶師より先に護衛です。ここで引っ込んでいるわけには参りません」
さらっと言い切る重秀を見て、左内は目に興味の色をちらつかせる。
「ふむ、なるほど。聞けばそなた、颯馬たちと行動を共にするようになって一月と経っていないという話だが、何故にそこまで尽くすのだ?」
「何故、ですか? えーと、なんといったらいいのでしょう」
問われて考え込む重秀。理由がわからないというわけではなく、自分の中にある感情をどう表現したら良いかわからない、という風であった。
「むむ……そうですね。ここしばらく、内でも外でも何かと鬱屈することが続いていまして。そんな時、天城さまからのお誘いがありました。それを聞いて、まわりの環境をかえるには良い機会だと思ったことが一つ。それともう一つ、天城さまと初めてお会いした時に感じたことがあるのです」
「ほう、それは?」
「この人についていけば、鬱屈とは無縁の人生を送れるのではないかな、と」
その重秀の言葉を聞いて、左内は納得したような、それでいて残念なような、複雑な表情を浮かべた。
「なんじゃ。色めいた話ではないのか」
重秀は目を丸くし、困ったように微笑んだ。
「あはは、残念ながら。出会ったばかりの殿方に恋心を覚えるほど惚れっぽくはないつもりです。話していて楽しい方だとは思っていますけど」
そう云った重秀は、ここで問われる側から問う側へ立場を入れ替えた。
「左内さんこそどうして天城さまに協力を? 私が一月経っていないというなら、左内さんは十日も経っていませんよね。それに私の場合、自分ひとりの進退だけで済みますが、左内さんは家も財産も家人の方々もいらっしゃいます。軽々に厄介事に関わってはいけないと思うのですけど」
重秀の問いを受け、左内はさして迷う様子もなく口を開く。
「このまま傍観しておれば、遠からず三人衆の兵が草津にはいってきおる。弾正(久秀)の書によれば、三人衆は三好家中で孤立しつつあるというし、軍資金は喉から手が出るほどに欲しいであろ。それこそ何をおいても、な。となれば、足利将軍を討ち取った彼奴らが草津で何をするかは容易に推測できるというもの。身共と颯馬の利害は一致しておるわけじゃ」
「天城さまは必ずしも六角家の味方というわけではありませんが、その点はどうお考えなのですか? この地で商いをしていれば、望むと望まざるとに関わらず、六角家と関わりを持つことは避けられないはずです」
「たしかにの。だが、大名というのは大抵が高い税をふんだくることしか頭にないでな、六角も例外ではない。余人は知らず、身共が彼の家に義理立てする理由はないよ。ま、積極的に滅ぼそうとするほど恨んでいるわけでもないがね」
それに、と左内はつけくわえた。
「青地の城主どのとはそれなりに付き合いがあっての。配下にならぬかと誘われたこともある。その危難を見過ごすのは少々気が咎める――と、まあ、このあたりはすべて後付の理由なのじゃが」
「え?」
真剣に聞き入っていた重秀の口から間の抜けた声がこぼれおちる。
その顔を見てころころと笑った佐内は、自身が協力を決断した瞬間を思い出しながら言葉を続けた。
「本当はの、初めて会うた時に決めていたのよ」
「初めて、というと、あの時のことですよね……?」
自分が目にした光景を思い浮かべ、重秀はかすかに頬を赤らめた。改めて思い出すまでもない。なにしろ、案内されて襖を開けたら、銭の上で裸の美女が寝そべっていたのだから。たぶん一生忘れられない光景になった。
「ん、そうじゃ。あの時、颯馬のやつ、じっと身共を見つめておったじゃろ? 気づいた吉継に頬をつねられておったが」
「あ、あはは。そうでしたね」
「そなたも道端の馬のフンでも見るような目で、颯馬を睨んでおったかな?」
「そ、そこまでひどい態度はとっていなかったと思いますけど!?」
慌てて抗弁する重秀を見て、左内はチェシャ猫のような顔をした。
「今さらではあるが、颯馬の弁護をしておこう。あの時、颯馬はなにも身共の胸やら腰やらを見て鼻の下を伸ばしておったわけではないぞ。あれは見定めておったのよ」
「見定める?」
怪訝そうな声に、左内はうなずきで応じた。
「そう、見定めておった。目の前にいる女は、己の目的に資する人間であるや否や、と」
久秀の書状を持ってきた人間を裸身で出迎えたのは、左内なりに相手の器をはかるための手段であった。
その左内の目論見を、おそらくは一瞬で見抜いた天城は、色欲とは異なる眼差しで左内を凝視していた。
床の銭にも、眼前の女体にも関心を払わず、ただ相手の器量だけを量ろうとするその視線に左内は感じ入った。同時に、かつて感じたことのない興奮を覚えた。この相手ならば、金だとか女であるとか、そういった余計な面に惑わされることなく、ただ武士としての岡佐内を見てくれるかもしれぬ、と。
「ま、身共の考えすぎかもしれんがの」
あっさりと前言を翻した佐内に、重秀はあやうくズッコケそうになった。
「そ、そうなんですか? 後で天城さまに謝らなければと思ってたところなんですけど」
「身共の身体を見たことを眼福と申しておったし、まったく興味がないわけでもなかろ。反応が利兵衛とさして変わらぬあたり、少々年齢にそぐわぬ気もするが、衆道にうつつをぬかすよりは良いのではないか?」
「あの、訊ねられてもお答えしようがないというか、話があらぬ方向へ逸れている気がします」
指摘され、左内はぽんと手をうった。
「おお、そうじゃな。別に颯馬の性癖を探る話ではなかったわ」
「はい。一切合財、まったく関係ありません」
呆れたようにかぶりを振る重秀に対し、左内は言葉を捜すようにふっと空を見上げた。
「というて、もうだいたいのことは話してしまったしの。ああ、己の素性を隠すことなく口にしたのも良い印象を受けたな。費やした銭についても回収の目処はたてておるし、強いて弾正の紹介をはねつける理由もなかった。そういった諸々を重ねていけば、逆に協力しない理由がなかった、とも云えるかもしれぬ」
「そうでしたか。ところで、銭の回収というのは?」
「律儀な颯馬のこと、苦労の最中に受けた恩は忘れまいし、謙信公もまた世に聞こえた正直者。二人が越後へ戻らば、投じた銭は五倍にも十倍にもなって返ってこようぞ」
「事が成らなかった時には、銭ばかりか命まで失ってしまうことになります」
「ふふ、なかなか押してくるの、雑賀の姫。ま、よい。この場合、事ならなかったというのは身共が武運つたなく死んだ時か、颯馬が策を誤った時か。そのいずれかということになろうが――」
左内は空に向けていた視線を重秀に戻し、にやりと口角をつりあげた。
「身共が死んだならば、それは戦機を見誤ったということ。颯馬がしくじったならば、それは身共が賭けるべき者を見誤ったということじゃ。言葉をかえれば、利殖の道に携わる者として投機を見誤ったということになる。いずれにせよ、岡佐内は機を見る程度のこともできぬ人間であった。だからこそ、事が成らなかったのじゃ。そのような者が長らえたところで何になる? 惜しむ必要もなければ、悔やむ必要もない。大の字になって往生し、せめて野の獣どもの腹を満たせることを喜ぼうぞ」
構えることも、言いよどむこともなく云い切る左内の顔を、重秀はじっと見つめる。
常々とらえどころがないと感じていた左内の為人。
その一端を、このとき重秀は確かに掴んだ気がした。
◆◆
「次の狙いは青地城か」
町中の話題が合戦一色に染まるまで、かかった時間はごくわずかだった。
もともと草津は旅人や商人といった噂の運び手には事欠かない上、瀬田の戦いで敗れた兵たちが三々五々、草津に流れ着くようになったからである。
彼らの口によって噂は事実に変じ、たちまち町は騒然とした空気に包まれていく。そんな中、俺たちは世話になっている左内の屋敷で今後の作戦を検討していた。
左内が地図を広げ、青地城を指差した。
「青地城の主は青地茂綱どの。兵は精々五百といったところかの。対して三好軍は先陣が三好政康の二千。その後ろに岩成友通の、これも二千。三好長逸の所在は判然とせぬが、この配置から考えるに、まず間違いなく瀬田城の守りであろうな。真っ向からやりあえば六角軍に勝ち目はない。茂綱どのは篭城を選ぶじゃろ」
「ここで野戦を挑むような武将なら無視するしかないから、それはありがたいな。六角軍に援軍は?」
「ない。近辺の城主はいずれも自分の城を守ることに手一杯のようじゃ。観音寺の義治どのが動いたという報も届いておらぬ。ま、あちらはあちらでそれどころではないのであろうな」
「観音寺騒動、か」
左内の言葉を聞いた俺は腕を組んで考え込んだ。
六角義治が断行した重臣排除の話は左内経由で耳にした。おそらく、タイミング的には俺たちが京を離れた前後に起きた出来事だろう。
三人衆が突如として六角家に攻め入った理由は、おそらくこれにある。六角家の大騒動を察知し、今こそ好機であると見なした三人衆は、自分たちが申し出た共闘を足蹴にして進撃したのだろう。
ならば、彼らの作戦は一気呵成の江南制覇、それ以外にありえない。六角家に立ち直る猶予を与えないためにも、背後の久秀に策動の余地を残さないためにも、速攻こそ三人衆がとりえる唯一の選択であろう。
ほぼ全軍を青地城に叩きつけようとしている三好軍の配置も、俺の推測を肯定するものであった。
援軍のない青地城は、このままでは為す術もなく陥落する。三人衆の思惑どおりに。
青地城の将兵にとっては絶体絶命の窮地だろう。
しかし、申し訳ないが、俺にとっては願ってもない戦況であった。
「急いでいる時に横からちょっかいを出されることほど鬱陶しいものはないからな。くわえて、窮地を救われたなら、六角家もこちらの云うことに耳を傾けざるをえなくなる」
「他者の窮地は己の好機である、か。策士とは怖いものじゃ」
「利殖の道も似たようなものじゃないのか? まあそれはともかく、正面から挑んで勝てる数じゃない。よって、基本は後方の撹乱になる。精々小癪に動き回って三人衆の邪魔をしてやろう」
そうしている間に城内と連絡をとって協力関係を確立させる。城の内外で呼応して、はじめて勝ちの目が出てくるわけだ。
とはいえ、相手は四千近い人数である。わずか数十の手勢では撹乱といっても限度がある。向こうは三人衆の手勢に降兵をくわえた雑多な編成だが、こちらもこちらで左内の私兵と昨日今日雇い入れたばかりの浪人たちが主力である。ヘタをしたら戦いの最中に寝返りかねない。
……それはそれで一つの策として使えるわけだが、まあそれはもう少し後の話である。
「まずは搦め手で敵の兵を減らす。三人衆は軍資金確保のため、琵琶湖沿岸の流通を一手に仕切ろうとしているぞ、と草津の有力者にご注進申し上げよう。あながちデタラメってわけでもないから、それなりの信憑性はあるだろう。しかる後、堅田衆にもこの旨を伝える」
「本命はそちらか、颯馬?」
「ああ。堅田衆にしても、三人衆が水運で幅を利かせるようになるのは望ましくない。噂ひとつでいきなり敵対したりはしないだろうが、軽い威嚇くらいはするんじゃないかな。俺たちの縄張りに手を出すな、という感じで」
三好軍の内訳を見る限り、瀬田の守りはおそらく最小限に留めている。もし久秀あたりに背後を突かれてしまえば苦戦は免れない。おそらく、いざとなれば瀬田橋を落として守勢に徹するつもりなのだろうが――
ここで、それまで黙って地図を見つめていた吉継が口を開いた。
「水の上を行き来する海賊が相手では、橋を落としたところで足止めにはなりません。となれば、ある程度の兵力を戻して守りを固める必要がありますね」
「そのとおり。何なら三人衆に、堅田衆が怪しい動きをしてますよ、と伝えるのも手だな。情報の正誤を怪しまれたとしても、まるきり無視するわけにはいかないだろう」
それを聞いた吉継の目に危惧が浮かぶ。
「お義父さま。松永どのの話を聞くかぎり、三人衆はまがりなりにも畿内を制してきた実力者なのでしょう? その彼らが堅田衆に何の手だても講じていないとは思えません」
三人衆は彼らの利権を安堵して味方につけ、背後を固めた上で出陣したのではないか、と吉継は云う。
その言葉には一理も二理もあった。近江に馴染みのない俺が考え付く程度のことを、三人衆が思い至らないはずはない。
しかし、こと今回に限っては吉継の危惧は杞憂であろう、と俺は判断した。
その理由を口にする。
「三人衆が今回のことをすべて最初から企んでいた、というなら根回しの一つ二つ、必ずしていただろうけどな。連中は御所襲撃の後、都を出されて近江との国境に布陣した。対峙している六角家を唆して謙信さまを捕らえさせたと思ったら、観音寺騒動直後に近江に侵入し、その六角家の城を落として江南に欲を見せている。その時その時で最善の手を打とうとしているのは感じられるが、一貫性がまったくない」
端的にいえば場当たり的行動というやつだ。
おそらく二条御所襲撃以降の展開は三人衆にとっても誤算の連続だったのではないか。その三人衆があらかじめ琵琶湖南岸の勢力に渡りをつけていた、とは考えにくい。
使者を出していたとしても、それは唐橋夜戦以後のこと。その程度の短い期間で、複雑な利権が絡み合う話し合いを完遂させるのは、ほぼ不可能であろう。
俺はそう云った後、次のようにつけくわえた。
「もっとも、岩成友通あたりはかなりの切れ者のようだし、もしかしたら堅田衆を説き伏せているかもしれない。俺では思いつかない手づるがあるかもしれないしな。もしそうだとしたら、こちらは相手の奸智を罵って、野戦に活路を見出すしかない。青地城を見捨てるのも一つの手段だな」
当たり前の話だが、三好軍は攻めれば攻めるほど、勝てば勝つほど領土を増やすことになる。結果、守るべきものは増えていき、将兵を分散させざるを得なくなる。三人衆が固まって行動することも難しくなっていくだろう。
そうなってから、三人衆をひとりひとり片付けていく、という選択肢もあるのだ。
吉継はそっとため息を吐いた。
「……どう考えても奸智を罵られるのはこちらだと思いますが、それはさておき、お義父さまの考えは理解しました。堅田衆を唆すのはあくまで数ある策のひとつであり、その成功は欠くべからざることではない、ということですね」
「そういうことだな」
俺はうなずいた。何故だか呆れられた気がしたが、今の話で俺が呆れられる要素はないはずなので、きっと気のせいだろう。
俺は熱心に地図を眺める吉継の横顔をそっと見やった。
近江は吉継にとって生まれ故郷になる。あまり良い記憶がないであろう故郷に帰ってきた吉継のことを少しだけ心配していたのだが、どうやらこちらも杞憂であったらしい。重秀と何やら語り合っている吉継の顔に暗い影はなく、間近に迫った戦にしっかりと備えている様子がうかがえた。